三位一体説の難解さ

三位一体説とは、神は一つであり、天父と御子と聖霊の三つの位格があるという説である。
カトリックやプロテスタントなど、伝統的なキリスト教会が主張している。
当教会では、天父と御子と聖霊は別々の御方だと信じている。

聖書を素直に読めば、この御三方が別々の御方だと思える。

例えば、マルコ1:9-11では、次のように御三方が別々に登場する。

  イエスはガリラヤのナザレから出てきて、ヨルダン川で、ヨハネからバプテスマを
  お受けになった。そして、水の中から上がられるとすぐ、天が裂けて、聖霊がはとの
  ように自分に下って来るのを、ごらんになった。すると天から声があった、
  「あなたはわたしの愛する子、わたしの心にかなう者である」。 

また、マルコ14:36では、キリストが天父に祈っていて、別の御方であるとわかる。

  アバ、父よ、あなたには、できないことはありません。
  どうか、この杯をわたしから取りのけてください。
  しかし、わたしの思いではなく、みこころのままになさってください。

他にも、挙げると、
創世1:26-27では、神が自身を「われわれ」と言った。
マタイ17:1-5では、天父がイエスを証した。
ヨハネ17:20-23では、イエスが天父に祈った。
使徒7:55-56では、ステパノは天父と御子の御二方を見た。

三位一体説では、次のように説明している。
  ・天父は神である。
  ・御子は神である。
  ・聖霊は神である。
  ・御子は天父ではない。
  ・御子は聖霊ではない。
  ・聖霊は天父ではない。
  ・唯一の神が存在する。
  ・御子と聖霊は、被造物ではない。
  ・天父、御子、聖霊とは、時代によって神が自分を表す様式を
   変えていったものではない。
  ・一人三役のようなものではない。
  ・天父だけが神であり、イエスに宿ったのは神の力に過ぎないは誤り。
  ・天父、御子、聖霊は、三つの神ではない。

三位一体説を聞くと、一人の神が、ある時は、天父、ある時は、キリスト、
ある時は、聖霊に姿を変えて現れているとイメージしてしまうのだが、
上の説明を読むとそうではないらしい。
実際、先のマルコ1:9-11のように同時に御三方が現れている。
同時に3人で現れるが一人であるという。とても理解できない説である。

なぜ、こういう説が生まれたのだろうか。
事の発端はキリストは神か人かという問題からだった。
キリストが神とするならば、神が天父とキリストの2人いることになり、
神の唯一性と矛盾する。
キリスト教はユダヤ教の唯一神であるエホバ(ヤハウェ)を継承している。
聖書には、神は一つであると書かれているが、
一方で、キリストは神であるとも書かれている。

  エペソ4:5
  主は一つ、信仰は一つ、バプテスマは一つ。

  ピリピ2:6
  キリストは、神のかたちであられた

このことで、4世紀に大論争が起こった。教会全体が分裂しかねない状況になった。
時の大帝コンスタンティヌスはニカイアに聖職者や神学者を集めて、
会議をおこなった。
キリスト教徒でないコンスタンティヌスが議長になって結論を出した。
それが、キリストは神だが、天父と同一の御方なので、
神の唯一性と矛盾しないというものだった。
どちらの意見も取り入れた妙案であるが、非常に理解しがたいものになった。
これは、神からの啓示ではなく、キリスト教徒でもない人間が出した、
教会分裂を避けるための妥協案だったのだ。
それが、現在まで受け継がれている。

それでは、当教会では、この矛盾をどう解決しているのか。
まず、旧約聖書の時代は、神はエホバ(Jehovah)またはヤハウェ(Yahweh)と
いう名で、人々と接していた。(日本語の聖書では「主」と訳されている)
このエホバはキリストの生前の名前である。
この時代には、天父と聖霊は、直接、人類には接していなかったので、
人々には一人の神様しか見えてなかったのである。
その後、キリストがこの世に来られた後で、
天父と御子と聖霊の御三方の存在が明らかにされた。
明らかになった後に書かれた新約聖書にも神は一つであることが書かれている。
これは、御三方が目的と教えにおいて完全に一致しているという意味である。

  ローマ3:29-30
  それとも、神はユダヤ人だけの神であろうか。
  また、異邦人の神であるのではないか。
  確かに、異邦人の神でもある。 
  まことに、神は唯一である。

  ガラテア3:28
  もはや、ユダヤ人もギリシヤ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。
  あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからである。

上の聖句で「神は唯一」という言葉が使われているが、
下の聖句では「一つ」というのは物理的な意味でなく、精神的な意味だと分かる。
もし、「一つ」というのが物理的な意味でしか使われていないと主張するなら、
下の聖句では、信徒はみな物理的に1人になっていると理解するしかない。
キリストが天父に祈っている以下の箇所も「一つ」の意味は精神的なものだ。

  ヨハネ17:11
  わたしたちが一つであるように、彼らも一つになるためであります。

三位一体説を主張する人が使う聖句として次のものがある。

  マタイ28:19
  父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、 
  baptizing them in the name of the Father, and of the Son, 
  and of the Holy Ghost

ここで「父、子、聖霊」の三者の名があげられている。
これに続く「御名」は、普通なら複数形でなければならないが、
原語では単数形である。これは三位の神の一体性を示すということである。
当教会で用いている「教義と聖約」にも次のようにある。

  教義と聖約20:73
  御父と御子と聖霊の御名によって、あなたにバプテスマを施します。
  I baptize you in the name of the Father, and of the Son,
  and of the Holy Ghost.

しかし、これは分配単数といって、よく使われる表現方法である。
例)All students are sitting on a chair.
それぞれの人がそれぞれ1つづつイスに座っている場合、イスは単数にする。
イスは複数個あるのに、複数形にしない。
このように、それぞれに一つある場合には、あえて、単数にすることがある。
これを分配単数という。

三位一体説は聖書の言葉から人によって導き出された単なる理論にすぎないが、
当教会の天父とキリストが別個の方であるという主張は、
ジョセフ・スミスが実際に御二方にお会いして体験したことである。

当教会が三位一体説を受け入れないことで、異端だとされ、非難され、
ののしられ、時には暴力を受け、殺されたこともあった。
このような些細な違いで、人は残酷になれるものかと思う。
宗派や宗教の違いで殺し合いが起こっている。
大切なのは、神様が人類を愛していて、人類もそれにならって、
互いを愛し合うことではないだろうか。
これは、どの宗教、宗派でも受け入れられる考え方であると思う。


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