遠藤周作の小説「沈黙」は江戸時代のキリスト教徒の弾圧を描いている。
その小説の中で、捕らえられたポルトガル人の宣教師は、
長崎奉行に、次のように言われる。
「この国には仏教がある。仏教が十分に人々の心を救っている。
だから、キリスト教を必要としていない。」
改宗者である自分も似たようなことを、親に言われた。
仏教があるのに、あの時代の人々はなぜキリスト教に惹かれたのか。
まず、自分がなぜ、キリスト教を信仰しようと思ったのか、
という事から考えてみようと思う。
私の家には仏壇があり、両親が亡くなった先祖を供養している。
毎日、線香をあげ、手を合わせて拝んでいる。
お葬式や法事では、お坊さんにお経を読んでもらう。
私と両親が経験していた仏教らしい事はこれぐらいだった。
お釈迦様については、昔話で聞く程度しか知らない。
仏教徒と言っていても、仏教についての知識や行いは、その程度だった。
私がキリスト教に興味をもったのは、ローマ法王が、初めて日本に来た
ことだった。マスコミが大きく取り上げていて、私も関心を示した。
そして、聖書を買ってきて読み始めた。
いつか教会にも行ってみたいと思い始めた。
その中で、当教会の宣教師に出会った。
このことから、聖書があることが大きいと思う。
仏教では、一般信者は経典を読むことはない。
その多くは漢文で書かれていて、その意味を簡単には理解できない。
何千もの経典があり、どれから読んでいいのかわからない。
一般信者がすることは、「南無阿弥陀仏」とか「南無妙法蓮華経」とか
簡単なお経を覚えて唱えることぐらいである。
現代語訳で、どの教派でも使える1冊にまとまった経典がない。
ホテルなどには仏教伝道協会が発行した、英語対訳のものが
置いてあることがあるが、一般には広まってっていない。
つまり、仏教の文化は広まっているが、仏教の知識は広まっていない。
一方、キリスト教では現代語で、全宗派統一で、1冊にまとまった聖書がある。
本屋に行くと簡単に手に入る。やる気があれば、キリスト教の知識を得やすい。
そのことがキリスト教に惹かれることの一因になっていると思う。
他にも、西洋のものに対するあこがれもあると思う。
また、当時の仏教界が人々の心の救済を行うことに熱心では
なかったからかもしれない。
一方、キリスト教の宣教師たちは、熱心に布教活動を行い、
心の救済だけでなく、西洋の医療技術を持って、医療活動も行っていた。
多くの人がキリスト教というよりは、宣教師たちに惹かれたのかもしれない。
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