マザー・テレサの言葉

もし貧しい人々が飢え死にするとしたら、それは神がその人たちを愛していないからでは
なく、あなたが、そして私が、与えなかったからです。神の愛の手の道具となって、パン
を、服を、その人たちに差し出さなかったからです。キリストが、飢えた人、寂しい人、
家のない子、住まいを探し求める人などのいたましい姿に身をやつして、もう一度来られ
たのに、私たちがキリストだと気づかなかったからなのです。


貧しい人々の中で最も貧しい人々をキリストご自身の姿として助けてゆきます。
私のもとへ来たシスターたちの仕事は、人の理解を超えています。その仕事ができるのは、 手を触れる相手が、神の子だからです。つまり、貧しさにあえぐ人は、姿を変えたイエス なのです。
貧しい人々の中で最も貧しい人々は、人間の苦しみを負ったキリストにほかなりません。
わたしはイエスさまに身をささげています。わたしが呼吸するのも、ものを見るのも、す べてイエスさまのためなのです。人からソーシャルワーカーと呼ばれることには耐えられ ません。社会奉仕をしていたのだとしたら、わたしはとっくにやめていたでしょう。
私は、自分がふれるすべての人の中にキリストを見ます。なぜなら、キリストが「私は空 腹と渇きを感じ、私は裸で病気に苦しめられた。私は家がなく、あなたは私を受け入れた」 と言っているからです。ただそれだけのことです、自分が一切れのパンを与える度毎に、 実はキリストにパンを与えているのです。私たちが飢えた人や裸の人を見つけなければな らないのは、そのためです。貧しい人々と完全に結びついているのはそのためです。
残り物を与えるのは、貧しい人々が持っている尊厳に敬愛を払っている行為ではありませ ん。貧しい人々を私たちの主人と見てする行為ではなく、彼らを見下げた行為としか言い ようがありません。
飽くことなく与え続けて下さい。しかし、残り物を与えないで下さい。痛みを感じるまで に、自分が傷つくほどに与えつくして下さい。
持ち物が少なければ少ない程、多くを与えることができます。矛盾としか見えないことで しょう。でもこれが愛の論理なのです。
富の中から分かち合うのではなく、ないものを分かち合うのです。
ある人が尋ねました。 「いったいいつ、貧しい人々の貧困はやむのですか?」 私は、あなたと私が分かちはじめたそのときに、と答えました。 より少なく持てば、その分、より多く与えられるのです。 より多く持とうとすれば、より少なく与えることしかできません。
貧しい人たちは、私たちが彼らに与えるよりはるかに多くを、私たちに与えてくれます。
この世の最大の不幸は、貧しさでも病気でもありません。自分が誰からも必要とされない と感じることです。そして、今日の世界における最悪の病は、そういう人に対する愛が足 りないことです。
この世で一番大きな苦しみは一人ぼっちで、だれからも必要とされず、愛されていない人 々の苦しみです。
西欧で、今日最も重い病気は、人々が互いに求めあわず、愛しあわず、互いに心配しない という病です。この病を治すことができるのは、ただ一つ、愛だけです。
恵まれない人々にとって必要なのは多くの場合、金や物ではない。世の中で誰かに必要と されているという意識なのです。見捨てられて死を待つだけの人々に対し、自分のことを 気にかけてくれた人間もいたと実感させることこそが、愛を教えることなのです。
貧しい人々が一番求めているのは、哀れみではなく、愛なのです。
愛の反対は憎しみではなく無関心です。
道ばたで男性を助けました。体中ウジだらけで、だれひとり助けようとしませんでした。 体を洗ってあげると、彼はいいました。『なぜこんなことを?』私は答えました。あなた を愛しているからですと。
何もしなくてもいい。そこに苦しんでいる人がいることを知るだけでいいのです。
あなたがちょっと微笑むだけでいいのです。新聞を読んであげると、慶ぶ目の不自由な人 も、買い物をしてあげると、慶ぶ重い病気の母親もいるでしょう。小さいことでいいので す。そこから、愛は始まるのです。
平和は微笑みから始まります。1日5回あなたが本当は笑顔を見せたくない人に微笑みか けなさい。それを平和のためにするのです。
親切で慈しみ深くありなさい。あなたに出会った人が誰でも前よりもっと気持ちよく、明 るくなって帰るようになさい。親切があなたの表情に、まなざしに、ほほえみに温かくか ける言葉にあらわれるように。子供にも、貧しい人にも、苦しんでいる孤独な人すべてに いつでも喜びにあふれた笑顔をむけなさい。世話するだけでなく、あなたの心を与えなさ い。
私は受賞者に値しませんが、貧しい人々に代わって、この名誉ある賞をいただきます。私 は、社会に望まれず、愛されず、顧みられていないと感じているすべての人々。社会の負 担となって皆から避けられている人々。おなかをすかせている人々。障害者。盲人。ホー ムレスなど。こうした人々の名において、ノーベル賞を受けることを、ありがたく思って います。(1972年12月、オスロのノーベル平和賞授賞式で)
愛は家庭から始まります。まず家庭の中で不幸な人を救いなさい。両者が愛し合い、母親 が家庭の中心となりなさい。平和とうるおいの家庭が築けたら、隣人を愛しなさい。自分 が自分の家庭が、愛に満たされなければ隣人を愛せません。
日本人はインドのことよりも、日本のなかで貧しい人々への配慮を優先して考えるべきで す。愛はまず手近なところから始まります。
人間にとって最も大切なのは、人間としての尊厳を持つことです。パンがなくて飢えるよ り、心や愛の飢えのほうが重病です。豊かな日本にも貧しい人はいると思いますが、それ に気づいていない人もいるでしょう。
豊かそうに見えるこの日本で、心の飢えはないでしょうか。だれからも必要とされず、だ れからも愛されていないという心の貧しさ。物質的な貧しさに比べ、心の貧しさは深刻で す。心の貧しさこそ、一切れのパンの飢えよりも、もっともっと貧しいことだと思います。 日本のみなさん、豊かさの中で貧しさを忘れないでください。
あなたの国では、人々は何不自由なく生きているように思えるけれども、心の飢えをもっ ている人が沢山いるでしょう。誰からも愛されていないという心の貧しさ、それは一切れ のパンに飢えているよりももっとひどい貧しさじゃないかと。もっと親と話したいと思っ ている子供が、住んでいる部屋のナンバーでしか存在していない人が……。一人暮しの老 人が死後何日もたってから発見されたり、隣に住んでいる人が病気なのに名前も知らなか ったり。私はそういう貧しい人に仕える為に、いつでもどこにでも飛んで行き続るつもり です。
人生は愛すること。そして、愛されることの喜びそのものです。愛は「与えること」で、 一番良く表現されうるのです。そして、いま学びにあるあなた方は、この「与えること」 が痛むまで「与えること」を学ぶのです。何故ならば、これこそが本当の愛の証だからで す。(上智社会福祉専門学校・創立25周年記念誌へのメッセージより)
神がいかにあなたを愛しているかを知ったとき、あなたははじめて、愛を周りに放つこと がことができます。
死ぬというのは神のみもとに帰ることです。生きるということは、神の栄光のために、ま た全ての人の幸せのために、できることをやることです。
ハンセン氏病は神罰ではありません。もし私たちが活用できれば、それは神からの素晴ら しい贈りものとすることができます。
私たちは皆、多かれ少なかれ精神的、肉体的になんらかの苦しみを体験してきます。それ は主の十字架を知るために各自に恵まれた自分の十字架なのです。私たちの他人に対する 愛はまず理解から始まります。他人の気持ちを理解したとき同情心が起こりそれが愛に発 展します。他人を真に理解するには自分も他人と同じような立場にたつことすなわち他人 の苦しみを経験しなければなりません。だから私たちが試練を受けることは神の恩寵です。
国と国の間に大きな違いはありません。どこへ行っても出会うのは人々ですから。異なっ た外見、異なった服装、異なった教育や異なった地位であっても、みな同じです。どの人 もみんな愛すべき人です。みんな愛に飢えているのです。
健康な人やお金持ちは、どんなウソでも言えます。飢えた人、貧しい人は、にぎりあった 手、見つめあう視線に、ほんとうに言いたいことをこめるのです。
私たちはハンディキャップを負った人々に仕えようとしています。でも果たして、彼らと 苦悩を分かち合うことが出来、また分かち合おうとしているでしょうか、彼らと自己を同 一視しているでしょうか。本当の連帯感を持っているでしょうか。……
私は、不親切で冷淡でありながら奇跡を行うよりは、むしろ親切と慈しみのうちに間違う ほうを選びたいと思います。
私たちは、教会の維持を受けませんし、政府からの補助も受けません。また、月給もあり ません。神の愛の宣教者は、貧しい者の中の最も貧しい者です。誰一人、私でさえも、自 分の物は何も持ちません。
私は福祉活動をしているのではありません。私にとって大切なのは、群衆としての人々で はなく、個々の魂なのです。
わたしは一人の人を助け、できればもう一人の人を助けたいと思っているだけです。
いかにいい仕事をしたかよりもどれだけ心を込めたかです。
大切なことは、たくさんのことをし遂げることでも、何もかもをすることではありません。 大切なことは、いつでも何に対しても喜んでする気持ちがあるかどうかなのです。
もしも私たちが謙虚ならば、ほめられようと、けなされようと、私たちは気にしません。
美しいことを神様のために、わたしに行わせてください。
指導者を待ってはいけない。自分でしなさい、しかも、一人一人に。

「自分自身から解放されますように」 主よ、私は思いこんでいました。 私の心が愛に漲っていると。 でも心に手を当ててみて、 本音に気づかされました。 私が愛していたのは、他人ではなく、 他人の中の自分を愛していた事実に。 主よ、私が自分自身から解放されますように。 主よ、私は思いこんでいました。 私は与えるべきことは何でも与えていたと。 でも、胸に手を当ててみて、 真実がわかったのです。 私の方こそ与えられていたのだと。 主よ、私が自分自身から解放されますように。 主よ、私は信じ切っていました。 自分が貧しい者であることを。 でも、胸に手を当ててみて、 本音に気づかされました。 実は思い上がりと妬みとの心に、 私がふくれあがっていたことを。 主よ、私が自分自身から解放されますように。
「私は飢えていた」 私は飢えていた。食べる物がないのではなく、 清い心から来る平和に…。 私は渇いていた。渇きを癒す水ではなく、 人と争い、熱してしまっている心の渇きを癒してくれる平安に…。 私は裸だった。着るものがないのではなく、 自分の体を尊べる美しい品位がないために…。 私は家なしだった。雨露をしのぐ煉瓦造りの家がないのではなく、 わかって、包んで、愛してくれる心がないために…。
「あなたの心の中の最良のものを」 人は不合理、非理論、利己的です。 気にすることなく人を愛しなさい。 あなたが善を行うと利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。 気にすることなく善を行いなさい。 目的を達しようとする時、邪魔立てする人に出会うでしょう。 気にすることなくやりとげなさい。 善い行いをしてもおそらく次の日には忘れ去られるでしょう。 気にすることなくし続けなさい。 あなたの正直さと誠実さとがあなたを傷つけるでしょう。 気にすることなく正直で誠実であり続けなさい。 あなたの作り上げたものが壊されるでしょう。 気にすることなく作り続けなさい。 助けた相手から恩知らずの仕打ちを受けるでしょう。 気にすることなく助け続けなさい。 あなたの中の最良のものを世に与え続けなさい。 蹴り落とされるかもしれません。 それでも気にすることなく最良のものを与え続けなさい。
「果実」 沈黙の果実は祈り 祈りの果実は信仰 信仰の果実は愛 愛の果実は奉仕 奉仕の果実は、平和である。
「フランシスコの祈り」(マザー・テレサが好んだ詩) 主よ あなたの平和をもたらす道具として 私をお使いください 憎しみのあるところには、愛を 不当な扱いのあるところには、ゆるしを 分裂のあるところには、一致を 疑惑のあるところには、信仰を 誤っているところには、真理を 絶望のあるところには、希望を 暗闇には、光を 悲しみのあるところには、喜びを もっていくことができますように 慰められることを求めるよりは、慰めることを 理解されることよりは、理解することを 愛されるよりは、愛することを 求める心をお与えください 私たちは自分を忘れ去ることによって、自分を見いだし 赦すことによって赦され 死ぬことによって、永遠の命をいただくのですから

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