信仰、希望、愛
【目次】
超自然な徳
1コリント13とモロナイ7から
聖句ガイドから
神、自分、人
「愛」について
「信仰」について
「希望」について
想像力
価値
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超自然な徳
信仰、希望、愛の3つの徳は、他の数ある徳と違って、超自然的な徳と言われている。
他の自然的な徳は人間社会が生み出した、社会ルールとも言うべきものだが、
超自然的な徳は神が生み出したもので、人間社会が無くなっても、存在する徳だ。
逆に言うと、超自然的な徳が、世界や人間社会を生み出すことができる。
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1コリント13とモロナイ7から
- どんなことを語っても、愛がなければ、やかましいだけ。
- どんな能力や才能があっても、愛がなければ、無に等しい。
- どんな良いことをしても、愛がなければ、無益である。
- 愛は寛容である。(長く堪え忍ぶ)
- 愛は情深い。(親切である)
- 愛はねたまない。
- 愛は高ぶらない。
- 愛は誇らない。
- 愛は不作法をしない。
- 愛は自分の利益を求めない。
- 愛はいらだたない。(容易に怒らない)
- 愛は恨みをいだかない。 (悪事を少しも考えない)
- 愛は不義を喜ばないで真理を喜ぶ。
- 愛はすべてを忍び。
- 愛はすべてを信じ。
- 愛はすべてを望み。
- 愛はすべてを耐える。
- 愛はいつまでも絶えることがない。
- いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛の三つである。
- このうちで最も大いなるものは、愛である。
- 慈愛がなければ、その人は何の価値もない。
- 慈愛はキリストの純粋な愛である。
- 信仰によって人は善いものをことごとく手にする。
- 奇跡が行われるのは信仰による。
- 天使が人に現れて教え導くのは信仰による。
- キリストの御名を信じることにより救われる。
- 信仰があれば、希望もある。
キリストを信じることで、永遠の命によみがえる希望が得られるから。
- 柔和で心のへりくだった人でなければ、信仰と希望を持つことはできない。
柔和で心のへりくだった人でなければ、神の御前に受け入れられないから。
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聖句ガイドから
信仰
あるものに信頼を寄せること。
信仰とはイエス・キリストに対する確信と信頼である。
確信と信頼があれば、人はイエス・キリストに従うようになる。
人を救いに導く信仰は、イエス・キリストを中心としたものである。
信仰は、まだ見ていない真実のことを待ち望む。
奇跡が信仰を生み出すのではなく、イエス・キリストの福音に従うことによって強い信仰がはぐくまれる。
言い換えれば、信仰は義から生じる。
真の信仰は奇跡や示現、夢、癒し、および神が聖徒にお授けになるあらゆる賜物をもたらす。
人は信仰によって罪の赦しを得、最後には神の前で生活できるようになる。
信仰の欠如は、人を罪悪の結果である絶望に至らせる。
希望
約束された義の祝福を固い確信をもって待ち望むこと。
聖典では、イエス・キリストを信じる信仰により、永遠の命を待ち望むこととして、この言葉がしばしば用いられている。
愛
心から大切に思い、そのために献身すること。
神への愛には、献身、礼拝、敬虔、思いやり、憐れみ、赦し、同情、優しさ、奉仕、感謝、親切などの要素が含まれる。
御自身の子供たちに対する神の愛は、イエス・キリストの無窮の贖罪の中に最もよく示されている。
慈愛
キリストの純粋な愛。
キリストが人の子らに対して抱いておられる愛、また人の子らが互いに抱くべき愛。
単なる愛慕の情ではなく、最も気高く、尊く、しかも強い愛。
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神、自分、人
「信仰」は「神」との関係
「希望」は「自分」との関係
「慈愛」は「人」との関係
「心をつくし、精神をつくし、力をつくし、思いをつくして、主なるあなたの神を愛せよ。自分を愛するように、あなたの隣り人を愛せよ。」(マルコ12章30−31節)
これには、
「神」(主なるあなたの神を愛せよ)
「自分」(自分を愛するように)
「人」(あなたの隣り人を愛せよ)
の3つが含まれている。
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「愛」について
愛とは、ほかの何ものよりも神を愛し、神のために他人をも自分のように愛すること。(マルコ12:30−31)
愛の永遠性について
「愛はいつまでも絶えることがない。」(コリント第一13:8)
これに対して、愛というのは、助けが必要な人がいるから必要なのであって、そういう人がいなくなれば、愛は必要なくなるという考えがある。
この考えだと愛は永遠のものではない。
愛が永遠だと言われるのは、助けが必要な人が永遠に無くならないからか。
それとも、そうではなく、助けを必要とする人がいなくなっても、愛は存続するからか。
助けが必要な人がいなくなっても、人は人を求め、人と人の関係の間に幸福があるからだ。
私たちがこの地上での生活を終え、神のところに帰って、全ての人が何不自由しない生活になったとしても、お互いの関係は維持し続ける。
愛が無くなるということは、各人が孤独に暮らすということなのだから。
各人が完全な自立をし、全て人が誰の助けを得なくても暮らしていけたとしても、各人がばらばらに孤独に暮らすことはない。
この世の幸福の源と言われる、富、名誉、社会的な地位は、神の所には持って行かれない。
しかし、この世での愛ある関係は、神のところに持って行かれる。
だからこそ愛は永遠だと言われる。
だからこそ愛を一番大切にしなければならない。
愛が最大の徳であることについて
「このように、いつまでも存続するものは、信仰と希望と愛と、この三つである。このうちで最も大いなるものは、愛である。」(コリント第一13:13)
すべての徳が愛から派生する。
「信仰」「希望」は「愛」に包含される。
それは、「信仰」とは神を愛することであり、「希望」は自分を愛することだからだ。
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「信仰」について
信仰とは、神から示された事柄を決して誤りのないものと信じること。
まだ見てないことを信じる
信仰とは、まだ見ていないことを確認すること。
「信仰とは、望んでいる事がらを確信し、まだ見ていない事実を確認することである。」(ヘブル11:1)
この世では神を見ることができないが、信仰により、その存在を信じる。
目に見えないものを信じることが、信仰である。
信仰には行いが伴う。
その行いの結果によって、それが確かなものであることを確認することができる。
建物を建てようとするときも、建てる前はその建物を見ることができないが、建てるという行いを通して、建物を建て、その結果、建物という確かな結果を見ることができる。
このように信仰は、私たちの行いの原動力になる。
神様を信じ、その御言葉を受け、御言葉を行い、その結果により、私たちはそれが真実のものであることを確認することができる。
まだ見ないものを待ち望むという意味では、「信仰」は「希望」そのものであるということもできる。
神を愛することは自分を愛すること
信仰とは、神様を愛すること。
しかし、神は完全に自立されたお方なので、私たちの助けを必要とされているということではない。
神様を愛するということは、私たちが神様につながっているということだ。
私たちは神の言葉を受け、神の言葉に従って生きる。
このことは、私たちが成長して、神様のようになる(神様の属性を身に付ける)ために必要なことだ。
つまり、神様を愛することは、そのまま、自分を愛することと同じこと。
神を愛することは人を愛すること
「最も小さい者のひとりにしたのは、すなわち、わたしにしたのである。」(マタイ25:40)
この聖句からわかるように、人を愛することは、神様を愛することと同じである。
人を愛すること(慈愛)
神様を愛すること(信仰)
自分を愛すること(希望)
これらは皆、同じことの違う側面を捉えているにだけに過ぎない。
奇跡に先駆ける信仰
奇跡によって信仰が生じるのではない。
信仰によって奇跡が起ることがある。
信仰によって歩む
私たちはこの世に生まれてくるとき、それまでに神様と一緒に住んでいた記憶を消される。
それは私たちが信仰によって歩むためだ。
テストの問題ではじめから答えがわかっていると、問題を解く努力をしない。
結果がわからないから、それを求める努力をし、私たちは成長する。
信仰によって歩まなければならないのは、私たちが成長するためだ。
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「希望」について
希望とは、永遠の命と、それを受けるために必要な恩恵とを、神の御約束によって望むこと。
信仰は希望をもたらす
神様を信仰することによって、キリストの贖いにより、神様のもとへ戻ることができるという希望をいただくことができる。
大切な人の死は、人から希望を取り去ってしまうことがある。
しかし、神の福音により、神様のみもとで再会できるという希望を得ることができる。
絶望について
「もしあなたがたに希望がなければ、あなたがたは必ず絶望を味わうであろう。絶望は罪悪のために生じる。」(モロナイ10:22)
希望の反対は絶望だ。
罪悪は絶望をもたらす。
どのような辛い境遇にあっても、神の御言葉に従っているのならば、すべての境遇を自分を鍛えるための試練であると捉えることができる。
そして、そこに希望を見出すことができる。
しかし、罪悪の結果で生じた苦しみは、そのように捉えることはできない。
絶望の治療薬は愛
哲学者キルケゴールは「死に至る病」の中で、「絶望」は死に至る病であり、人を「絶望」から救うのは「愛せよ」という神様の命令であると述べている。
自分に喜びをもたらしていたものを失った時、人は絶望する。
しかし、いつまでもそのことを気にかけていたのでは、絶望から脱却することはできない。
愛するということは、そのための最も効果的な方法だ。
尼崎の電車脱線事故で子供を失ったある両親は電車の運転手に対して、とても辛かったのだろうと、気遣っていた。
このことによって、この両親はただ絶望の中に留まることはなかった。
絶望からなかなか脱却できないとき、自分のことしか考えてなかったということはないだろうか。
「いつまでも悲しみ続けるのは、厳しいようですが、死んでしまった人に対する依存心や、自分自身をかわいそうに思う気持ちの表れです。
故人のためを第一に思ったら、いつまでも泣いてはいられないはずです。
故人のためにも、その人はもうこの世にいないという現実を早く受け入れることです。
そして、遺されたほかの人たちを明るく励ませる自分になることです。
『生きているみんなで力を合わせてがんばろう』
そう心から言えるあなたになることが故人に対する愛であり、あなたのことを心配してくれているまわりの人たちに対する愛です。」
(江原啓之「いのちが危ない」より)
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想像力
信仰、希望、愛の徳を実践するには、想像力が必要になる。
正直、勤勉、純潔などの徳は、具体的にどうすればよいのか、わかりやすい。
しかし、信仰、希望、愛の徳は非常に難しい。
「信仰」とは、目に見えないことを、目に見えているように、信頼すること。
目に見えない力を感じ、感謝できる人は、目に見えない力に、助けてもらえる。
「希望」とは、まだ実現していないことを、既に実現しているかのように、喜ぶこと。
「愛」については、次のような聖句がある。
「人々にしてほしいと、あなたがたの望むことを、人々にもそのとおりにせよ。」(ルカ6:31)
つまり、「愛」とは、人のことを、自分のことように、思うこと。
相手が何を必要としているのか、なかなか良くわからないことが多い。
これらの徳は、よく想像し、よく考えないと、行うことができない。
熟練が必要な徳だ。
だから難しい。
超自然的な徳と言われるのは、このためかもしれない。
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価値
信仰、希望、愛と価値の関係
「信仰」
目に見えるものに価値を見出すのではなく、目に見えないものに価値を見出す。
「現代は物質主義的価値観を至上とする世であり、人は目に見えることのみに心をとらわれがちです。
人生の成功を物質中心に考えるのです。
そこに「たましい」の視点はありません。
良い学校を出て、大きな会社に就職し、理想の人と結婚し、立派な家に住み、衆望を集め、豊かな財産に恵まれ、誉れ高き勲章を得ることが、価値ある人生だと信じているのです。
しかしスピリチュアルな視点では、それらは真実の生きる価値ではありません。
大切なのは『どれだけの経験と感動をなしえたか』ということなのです。
物質はいつか失われます。
しかし、人それぞれの心に刻まれた経験と感動は、どのようなことがあっても決して失われることなく、何人にも奪われないのです。」
(江原啓之「いのちが危ない」集英社)
「希望」
価値があるから生きるのではなく、生きることに価値がある。
「あなたが自殺を考えているひとりなら、こんなふうに思ってはいませんか。
『私なんて生きている価値がない』
『私の人生に、どんな価値があるというのだろう』。
もしそうならご理解ください。
あなたの考え方と、たましいの真実は、ちょうど逆なのです。
つまり、人間は『価値があるから生きる』のではなく、『生きることに価値がある』のです。
最後まで『生き抜く』ことに価値があるのです。」
(江原啓之「いのちが危ない」)
「愛」
価値があるから愛するのではなく、愛するから価値が生まれる。
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