取るに足りない僕

 

 

神の手足あなたの欠点

何者かであろうとする

謙遜謙虚

 

 

 

 

1.聖書

2.マリア・ワルトルタ

3.トマス・ア・ケンピス

4.ヴァッスーラ

5.聖母から司祭へ

6.スウェーデンボルグ

 

 

 

 

1.聖書より

 

 

ルカ17・7−10

 

あなたがたのうちだれかに、畑を耕すか羊を飼うかする僕がいる場合、その僕が畑から帰って来たとき、『すぐ来て食事の席に着きなさい』と言う者がいるだろうか。むしろ、『夕食の用意をしてくれ。腰に帯を締め、わたしが食事を済ますまで給仕をしてくれ。お前はその後で食事をしなさい』と言うのではなかろうか。命じられたことを果たしたからといって、主人は僕に感謝するだろうか。あなたがたも同じことだ。自分に命じられたことをみな果たしたら、『わたしどもは取るに足りない僕です。しなければならないことをしただけです』と言いなさい。

 

 

 

 

2.マリア・ワルトルタ

 

イエズスに出会った人々3・221

 

「聞きなさい。まことに言うが、自分の義務を果たしたからといって、神に特別の恵みを期待することはできません。ユダは、おまえたちが私にすべてを与えたことを思い出させました。それに、おまえたちがすることの代償としておまえたちの望みを聞き入れるべきだとも言いましたね。ちょっと聞きなさい。私たちの一行には、漁師もいれば地主もいます。何人かは小さな工場を持ち、熱心ものには下僕がいました。船頭、オリーブ畑やぶどう畑で働く農夫、工場の下働き、家事や食事の支度をする忠実な下僕の仕事が終わったら、おまえたちはこの人たちに給仕をしていましたか。すべてのことや仕事でもそうではありませんか。畑を耕したり、羊の放牧をしたり、職人に、仕事が終わった時、『すぐ食卓に着きなさい』と言う者がおまえたちの中にいますか。畑から戻ったり、仕事の道具を片づけてから、主人だったらだれでも『食事の用意をしなさい。服を着替えて、私が食事をしている間、給仕をしなさい』と言うし、『私の後でおまえも食事をしなさい』と言う。これが心の狭さを表わしているとは言いがたい。なぜなら、下僕は主人に仕えるのが仕事だから、命令されたことを言いつけどおりにしたからといって、主人に特別な負い目があるわけではない。主人は下僕に人道的に接する義務があり、下僕はなまけず、無駄使いをせず、服と食事とを保証してくれる主人の日常に協力する義務があります。漁師や農夫や人夫や下僕が『私が働いたのだから、私に給仕しなさい』と言ったとしたら、おまえたちはそのことばを我慢できますか。そうは思えない。同じように、おまえたちが私のために行ったことを―将来、この先生の御業を続けるために―『私たちは取るに足らぬ下僕です。義務しか行わなかったのだから』と考えられるならば、神からもらった多くのことと比ぶべきもないことだと分かるはずです。このように考えるならば、不機嫌になることもなく、主人に反感を抱くこともなく、正義を守りながら生きられます。」

 

 ここまで話すと、イエズスは黙ってしまい、皆はじっと考え込んでいる。ヨハネは月の光を浴びて、藍色から銀色に移ろう水面を青い瞳で見つめたままである。ペトロがひじでつついてヨハネに聞く。

「人が己の義務以上に尽くすのはどんな時だと思うか。私は己の義務を義務以上に果たすところにまで達したい・・・」

「シモン、私もまさにそう考えていました」と、口元に笑みをたたえてヨハネが答え、強い口調で聞き返す。

「先生、少し教えてください。あなたの下僕である人間は、普通以上にあなたを愛していると言えば、自分の義務を超える何かをできるようになりますか」

「子よ、神はおまえにどれほどのものを与えましたか。正義だけから見れば、おまえの業がいかに英雄的なものであっても、それはまだまだ小さい。それにしても、主はどんなに善いお方か、おまえたちが神に捧げる業をご自分の無限のはかりで測ったりせず、人間の限られた能力に合わせて測ってくださるからです。何のためらいもなく、寛大なはかりで報いを与えられる時、こう言います。

『私のこの下僕は、己の義務を超えて私に尽くしたのだから、私はあふれんばかりの報いを与えます』」

「おお! 何とうれしい! そうしたら、私はこのあまるところももらうため、あふれたはかりで捧げます」とペトロが叫ぶ。

「そのとおり。おまえはそれを私に与えるに違いない。おまえたちはきっとそうしてくれるし、私とともに超自然的な幸福を味わうに違いない」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩/下P99

 

イエズスがマリア・ワルトルタに:

 

「人間としての使徒たちに欠点がどれほどであったか。

 私は自分の腕で弟子たちを天まであげようとしていたが、絶えずずり落ちようとする重たい石のようであった。ケリオットのユダのように、いつかこの世の大臣になるという野望を抱いたり、ことによっては私の代わりに王座に昇ろうと考えたりしないまでも、やはり他の使徒たちも光栄を渇望していた。私のヨハネとその兄ヤコボでさえ、天について、まばゆい蜃気楼のように人の目をくらませる光栄をあこがれていた時期もあった。私があなたたちに望むことは、天国に対する聖なるあこがれである。いつかあなたたちの聖徳が世に知られるという人間的な望みではない。そればかりか、私にほんのわずかな愛を与えたことに乗じて、何はばかることなく天におけるその右の座を要求する両替屋や高利貸しの貪欲さがあってはならない。

 子供たちよ、決してそうであってはならない。まずその前に、私が飲み干した杯を、すべて飲み干すことである。そうすることが何を意味しているかというと、憎しみの代わりに愛をもって応え、肉欲のいろいろな声に純潔をもって応え、さまざまな試練に立派に耐え抜き、神と兄弟たちとの愛のためのはん祭になることである。自分の義務をすべて果たした後に“私たちは役に立たない下僕である”として、私の父でありあなたたちの父である方の慈悲によって御国に住まいを与えられるのを待つべきである。総督館で私が身ぐるみはがれるのをあなたは目にしましたが、それと同じように、神の賜物である命に対して欠かせない尊敬は別にして、すべての人間的なものを脱ぎ捨てて、神が子羊の血によって清めた不滅の服を与えてくださるのを待つべきである」

 

 

 

3.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・11・4

 

すべての物を捨ててまるはだかになる霊的な人はめったに見られない。

すなわちほんとうに心が貧しくて、あらゆる被造物に愛着する念を脱ぎ捨てた人は、だれが見出すことができようか? こういう人は「天のはて地のきわみ」(格言の書31・10)から来たようにとうとい値打ちがある。

人がその財産をことごとく差し出しても、まだまだ物の数でもない。

きびしい苦行を積んでも、まだ言うに足りない。

あらゆる知識を得ても、遠くおよばない。

その徳が高く信仰に熱心であっても、まだ大いに不足するところがある。ぜひなくてならぬ大切な一つが足りないのである。

それは何だろうか? すべてを投げうち、おのれを捨て、まったく自分というものから抜け出して少しも自愛心を残さぬこと、これである。

そして義務であると知ったことをことごとくなしとげた場合も、自分は何もしなかったと思わなければならぬ。

 

 

 

キリストに倣いて/2・11・5

 

偉いと思ってさしつかえないことでも偉いと思わず、自分は役に立たないしもべだと考える。真理はこういっておいでになる、「あなたがたは命じられたことをことごとくした時も、『わたしは無益なしもべだ』と言え。」(ルカ17・10)と。

 そうすればその人はほんとうに心貧しく、裸で、預言者とともに「私は孤独で貧しい者だ。」(詩篇24・16)ということができるだろう。

 

 

 

 

4.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P35

 

‘87・11・8

 

ヴァッスーラ 決して何者かであることを求めないように。 無のままでいなさい 達成する全ての聖なるわざは純粋に私のものであり あなたによるのではない

 

 

 

 

5.聖母から司祭へ

 

 

聖母から司祭へ1992.9.8

 

 今この時代に、どれほど多くのわたしの子である司祭たちが祈りをないがしろにしていることでしょう。

 教会の中で、この内的傷がどれほど深く、またどれほど広がっているかを、もし、あなたたちが、わたしの目で見るとしたら、あなたたちも、わたしと共にどんなに多くの涙を流すことでしょう。

 もう祈っていません。

 活躍することで夢中です。使徒職の価値をすべて活動とか司牧的なプログラム造りにおいているのです。

 あなたたちは、自分たちだけでは何もできないということを、また、あなたたちを通してはたらき、救いの業をなさるのは、ただイエズス・キリストおんひとりであることを忘れています。

 あなたたちは、役にたたない貧しいもの、しかも罪人であることも忘れています。

 祈りに戻りなさい。

 

 

 

 

6.スウェーデンボルグ

 

 

生命30〔3〕

 

さらにこうした人物は

無益な僕(ルカ17・10)

と呼ばれている者らである。