祭司

 

表象メルキゼデク

 

 

 

1.聖書

2.表象するものにあっては、その人物は、その性質については何ら顧慮されない

3.王、祭司

4.苦しみは一種の祭司職

 

 

 

 

1.聖書

 

 

イザヤ61・6

 

あなたたちは主の祭司と呼ばれ

わたしたちの神に仕える者とされ

国々の富を享受し

彼らの栄光を自分のものとする。

 

 

 

ヘブライ2・17

 

それで、イエスは、神の御前において憐れみ深い、忠実な大祭司となって、民の罪を償うために、すべての点で兄弟たちと同じようにならねばならなかったのです。

 

 

 

 

2.表象するものにあっては、その人物は、その性質については何ら顧慮されない

 

表象

 

 

天界の秘義1361[2]

 

例えば、ユダとイスラエルでは実にエジプトとその他の場所においてさえも、王はことごとくその者はいかようなものであったにしても、主を表象することが出来たのである。彼らの王者性そのものが表象するものなのである。それで凡ゆる王の中で最悪な者でさえも、例えばヨセフを立ててエジプト全土を統べさせたパロ、バビロンのネブカドネザル(ダニエル書2・37、38)、サウロ、ユダとイスラエルの他の王らは、その性格は如何ようであったにしても、表象することが出来たのである。塗油それ自身が―そのことから彼らはエホバに油注がれた者と呼ばれたのであるが―このことを含んでいた。同様に祭司もことごとく、彼らは如何ほど多くいようと、主を表象したのであって、祭司の任務それ自身が表象的なものであり、また同様に悪い不潔な祭司も主を表象したのである、なぜなら表象するものにあっては、その人物は、その性質については何ら顧慮されないからである。

 

 

 

天界の秘義2015[]

 

  エホバはその怒りの憤りの中に王と祭司とを蔑まれた、シオンの門は地の中に沈んでしまった、かれはそのかんぬきをこぼたれ、砕かれた、その王とその君たちとは国民の間にいる、律法は存在しない(哀歌2・6、9)。

 

ここの『王』は信仰の真理を、『祭司』は仁慈の善を、『シオン』は、破壊されつつあり、またそのかんぬきを砕かれてしまった教会を意味しており、そこから『王とその君たちとは幾多の国民の間にいる』のであり、即ち、真理と真理に属したものとは『律法』が存在しなくなるほどに、即ち、信仰の教義が何一つ存在しなくなるほどにも放逐されてしまうのである。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/6巻上P20/365.2

 

「けれども、彼らの中で最悪の人たちが話すときにも、彼らが本物だと思って聞かなければならないのでしょうか?」

 

「そうです、わが子よ。いつでも。彼らの任務を尊敬しなさい。彼らが聖職に関する活動をするときには、もはや人間アンナや、人間サドクなどではないのです。彼らは“祭司”です。常に、あわれな人間性と聖職とを分けて考えなさい」。

 

 

 

3.王、祭司

 

 

啓示による黙示録解説20

 

主は神的知恵から「王」と呼ばれ、神的愛から「祭司」と呼ばれ給うており、それで主から知恵の中にいる者たちは「王の子」とも「王」とも呼ばれ、主から愛の中にいる者たちは「仕える者」、「祭司」と呼ばれている。互いに戦いを交えた「南の王」と「北の王」によっても王が意味されているのではなく(ダニエル11・1以下)、「南の王」により真理の中にいる者たちが意味され、「北の王」により誤謬の中にいる者らが意味されているのである。

 

 

 

天界と地獄226

 

 説教者は凡て主から任命され、そのことによって説教の賜物を与えられており、他のいかなる者も神殿で教えることは許されていない。彼らは説教者と呼ばれて、祭司とは呼ばれない。彼らは祭司と呼ばれない理由は、天界の祭司階級は天的王国であるということである、なぜなら祭司階級は主に対する愛の善を意味して、その善の中にその王国にいる者たちはいるからであるが、天界の王権は霊的王国である、なぜなら王権は善から発している真理を意味し、その真理の中にその王国にいる者たちがいるからである。

 

 

 

天界の秘義1728

 

 「かれは祭司であった」。これは愛の聖いものを意味していることは聖言における『祭司』の意義から明白である。主の属性としてあげられるものには二つのものがあり、即ち、主は王であられ、また祭司であられるのである。王または王者性は真である聖いものを意味し、祭司または祭司職は善である聖いものを意味しており、前のものは神的な霊的なものであり、後のものは神的な天的なものである。主は王として神的な真理から宇宙における各々のものをまた凡ゆるものを統治されており、祭司として、神的な善からそれらを統治されている。神的な真理は主の王国全体の秩序そのものであり、秩序そのものの法則はことごとく真理であり、または永遠の真実である。神的な善は秩序の本質そのものであり、その凡ゆるものは慈悲に属している。この二つのものが共に主に属性づけられている。もし神的な真理のみが主のものであるならば、たれ一人救われることは出来ないのである、なぜなら真理は人間をことごとく地獄に断罪するからである、しかし慈悲に属した神的な善が地獄から天界へ引き上げるのである。これらがユダヤ教会の中で王と祭司とが表象したものであり、同じくこれらのものをメルキゼデクがサレムの王としてまたいと高い神の祭司として表象したのである。

 

 

 

 

4.苦しみは一種の祭司職

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスたそがれの日々/P60

 

「私は教え苦しみながら人々を救わねばなりません。」

 

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスたそがれの日々/P337

 

「先生、もう一つ伺いたいのですが、苦しみは罰でなく、大きな恵みであると言ってよろしいでしょうか・・・。我々の召し出しと同じように美しく、しかし、重い恵み。何も知らない人の目には、むしろ悲しくつらいことに見えるにしても。」

 

「シモン、そう言ってよい。それが真実です。正義をもって迎える場合、苦しみは罰ではありません。苦しみは一種の祭司職です。それは神の御心に対して大きな力を持ち、その人の功徳となります。罪とともに生まれた苦しみすら、神の正義をなだめることができます。憎しみが人を苦しめるためにつくったものを神はよいことのために使われます。私は罪を消すために、これ以外の手段を望みませんでした。なぜなら、これ以上威力のある手段はないからです。」