良心

 

 

信仰と良心とは不可分離

良心は信仰の諸真理により形作られる良心の呵責

良心を持たない者はこのようにとりつかれてしまっている

信仰のみの中にいる者らは良心の何であるかを知らない

宗教から考えはしない者は良心を持ってはいない

良心を持った者は幸福な者の間にいる潔白

 

 

 

 

1.聖書

2.新しいエルサレムとその天界の教義(新エルサレムの教義)

3.認識に類似したもの

4.トマス・ア・ケンピスより

5.良心とはたれにも決して悪を行わないこと

6.良心から発した思考

7.鏡

8.『エホバの御顔』は良心を持った者たちにおける指示の原因

9.認識に代って良心が起った

10.良心はそれ自身諸々の試練の面である

11.仁慈が良心を支配する

12.良心を持った者にあってはそこから鈍い苦痛が生まれて来るが、認識を持っている者にあっては激しい苦痛が生まれてくる

13.内なる言葉

14.人間のもとに主が流入されるのは人間の良心の中へ仁慈により流入されることによっている

15.内的なものは外的なものに起きることを見ることが出来る。良心を持っている者はそれを習慣的に行っている

16.良心を持たない者は合理的なものを持たない、合理的なものを持たないものは悪と誤謬から考え、彼らは思考において狂っている

17.良心を持たない者は内的な思考を持つことは出来ないのであり、それで争闘もない、(中略)これが彼らが信仰の真理を何ら認めはしない理由となっている。

18.自由を通して人間はその中に主が善いことを行われることが出来るところの自分自身のものを獲得する。自分自身のものが自由を通して獲得されないならば、人間は良心である新しい意志を受けることが出来ない。

19.良心はそれ自身が強制されることを潔しとはしない

20.自由の性質は良心を持たない者らには全く知られていない

21.試練によって悪と誤謬が破壊され、悪と誤謬に対する恐怖が生まれ、それにより良心が与えられる

22.良心を持っている者はすべて仁慈の善の中にいる

23.内なる視覚は天界の光の中に存在し、再生した者たちのもとではそれ自らを明らかに示すのであり、特に良心により明らかに示す

24.この面の中へ主から善と真理とが流れ入り、その中に受け入れられることが出来る

25.主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいて、隣人に対してはその者の中にある善に応じて善を行い、公正で公平なものの良心を持っている者たちはすべて巨大人の中にいる

26.外的な良心を受けている者たちは他生で救われる

27.遺伝的な自然的な善を受けていても天界へ受け入れられない

28.良心を持った者以外には誰一人再生することは出来ない

29.おお! 人を眠らせたり眠らせなかったりするのは、ただただ、良心なのですよ!

30.サンダー・シング

31.信仰の諸善と諸真理との中にいて、そのことにより、良心と仁慈の生活を得た者は死後直ぐに天界へ挙げられる

32.良心の主要な〔第一次的な〕拘束は婚姻愛に基礎付けられている

33.『天界と地獄』 注より

34.聖い恐れ

35.秩序の法則

36.悪の中にいる者は凡て何ら良心を持ってはいない

37.霊魂は善悪を見分ける良心を持っている

38.神を否定するならその良心を受けない

39.マリア・ワルトルタ

40.デボラ

41.公正から公平を行い、義から義を行う者は良心を持っている

42.現今のキリスト教徒は殆ど宗教を欠如している

43.悪が他の者に降り掛かる時に感じられる歓び

44.真理とそこから派生する善に関わる諸々の知識に根底づけられた良心を主から徐々に注ぎ込まれることによって行われる

45.異教徒が救われる理由

 

 

 

1.聖書

 

ペトロ1・3・21

 

この水で前もって表された洗礼は、今やイエス・キリストの復活によってあなたがたをも救うのです。洗礼は、肉の汚れを取り除くことではなくて、神に正しい良心を願い求めることです。

 

 

 

2.新しいエルサレムとその天界の教義(新エルサレムの教義)

 

新しいエルサレムとその天界の教義(新エルサレムの教義)130〜139

天界の秘義9112〜9122 仁慈の教義

 

 

 

新エルサレムの教義136

 

 しかし良心の何であるかを例で説明しよう。他人の財産を持ってはいるが、その他人はそのことを知っていない、それでもそれを法律に対する恐れもなく、または名誉や尊敬を失う恐れも無しに手許に置くことは出来るものの、それでもそれは自分のものではないため、それをその他の者に返す者は良心を持っているのである。なぜなら彼は善いことを善いことのために、正しいことを正しいことのために行うからである。更に、もしたれかが或る地位を得ることが出来はするが、しかし同じくそれを望んでいる他の者が国に更に役立つことを知り、国の善のために、その地位をその他の者に譲るならば、彼は善い良心を持っているのである。他の場合も同じである。

 

 

 

新エルサレムの教義137

 

 これらの例から良心を持たない者らはいかような性質を持っているかを結論づけることが出来よう。即ち、彼らはその反対のことから知られるのである。かくて利得のために不正なものを正しく見せ、悪いものを良く見せ、またその反対のことを行う者らは良心を持ってはいない。彼らはまた良心の何であるかを知らないし、その何であるかを教えられるにしても信じないし、ある者は知ろうとさえもしない。自分自身と世のために凡てのことを行う者らはこのようなものである。

 

 

 

新エルサレムの教義138

 

 世で良心を受けなかった者は、それを他生で受けることは出来ない。それで彼らは救われることは出来ない。その理由は、彼らは面(ブレイン)を―その中へ主が天界を通して流れ入られ、またそれによって主が働きかけられて、彼らを御自身のもとへ導かれることが出来る面を持たないためである。なぜなら良心は天界の流入に対する面(ブレイン)であり、またそれを受ける器官であるから。

 

 

 

3.認識に類似したもの

 

 

天界の秘義1442

 

「モレの樫の木の杜に」(創世記12・6)。これは最初の認識を意味していることもまた順序[秩序]から明白である。エホバが主にその天的なものの中に現れ給うや否や、主は認識に到達されたことが明白である、即ち認識はことごとく天的なものから発しているのである。認識とは何であるかは前に述べまた示しもした(104、202、371、483、495、503、521、536、865番)。たれでも天的なものに来るとき主から認識を受けるのである。最古代教会の人々のような天的な人になった者たちは、前に言ったように(125、597、607、784、895番)、凡て認識を受けているのである。霊的な人になった者たちも、即ち、主から仁慈を受ける者も、認識に類似したものを得ており、またはその者が仁慈の天的なものの中にいるに比例して、明るさには多少の相違のある、良心の指示を得ているのである。仁慈の天的なものはこうしたものを伴っているのである、なぜならそのものの中にのみ主は現存されており、そのものの中に主は人間に現れ給うからである。このことは幼少の頃からエホバに向って進まれ、エホバと連結し、結合され、かくて二人は一人のものとなられた主にあってはいかに真実であったに違いないことであろう。

 

 

 

天界の秘義4015

 

内的な人による真理の承認であるところの良心からも明白であり、また認識からも明白である。

 

 

 

天界の秘義4627[3]

 

 その後でそこから投げ落とされ、ここかしこに散らされた他の霊らが見えたが、この者らについては彼らは以下のように言ったのである、即ち、その者らは何かを観察しようとの目的から、また下の方に行われていることを見ようとの目的から、しかし陰険な目的を抱いて、自分たちの間へ秘かに入り込んだような者である、と。この投げ落とされた者については、彼らはその者らは鼻孔の鼻汁に関係していて、のろまで愚鈍であり、また良心も持ってはおらず、かくて全く内的な認識を持ってはいないと言った。(前に言ったように)見られたその一人の婦人はこのような女性の誘惑者を意味したのである。この者らと私は語ることを許されたが、彼らは良心とは何であるかを全く知らなかったため、たれかが良心を持っていることに驚きを示したのであり、私がそれは善で真であるものを内的に認識することであって、そのことに反して行動すると、不安が生まれると言うと、そのことを彼らは理解しなかったのである。このような者は鼻孔を悩ますため放出される鼻汁に相応している者たちである。

 

 

 

4.トマス・ア・ケンピスより

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・21・2

 

 潔白な良心と神を畏れ敬う心とがなければ、ほんとうの自由も清い喜びもない。

 すべて良心をけがしたり、苦しめたりすることを斥ける人は幸いである。

 勇ましく闘え。習慣は習慣をもって破ることができる。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・23・1

 

 もし良心にやましいことがないならば、死もそれほど恐ろしくはあるまい。

死をのがれようとするよりは、罪をさけるほうがよい。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・4・2

 

 もしあなたの心が善良で純潔(きよ)いならば、あなたはいっさいを妨げなく見、正しく悟ることができるだろう。

 純潔い心は天国や地獄を見通す。

 人はみな自分の心の状態に従って、外部(そと)のことを判断するものである。

もしこの世に喜びというものがあるとすれば、心の純潔い人こそそれを味わう。

もしまたどこかに難儀や心配があるとすれば、良心の疾(やま)しい者こそそれをもっともよく知っている。

鉄が火の中へ入れられると、銹(さび)を失って真っ赤になるように、人もまったく神に帰依すると、冷淡の心を失って、新しい人と変わるのである。

 

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・6・1

 

善良な人が誉れとするのは、自分の良心が自分の清いことを証明してくれることである。

良心を清く保て、そうすればあなたにはつねに喜びがあろう。

良心が清ければ多くを耐え忍ぶことができる。不幸のうちにあってもしごく朗らかでいられるのである。

良心が疾(やま)しければ、いつもビクビクして落ちついていられない。

良心の呵責がなければ、あなたはユッタリと落ちついていられる。

よいことをした時でなければ、決して喜ぶな。

悪人にはけっしてほんとうの喜びというものがないし、内心(こころ)の平和も感じられない。なんとなれば「悪しき者には平和がない。」(イザヤ書48・22)と主も言っておいでになるからである。

 

 

 

新共同訳聖書

イザヤ48・22

神に逆らう者に平和はない、と主は言われる。

 

 

 

文語約聖書

エホバいひたまはく悪(あし)きものには平安(やすき)あることなし

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・6・2

 

善人の栄誉はその良心にある。人の口にあるのではない。

義しい人の喜びは神から来、また神にある。かれらの楽しみは真理から来る。

真の永遠な栄誉を望む人は、この世のそれに頓着しない。

そしてこの世の栄誉を求める者、またそれを心からつまらないと思わぬ者は、天上の栄誉をあまり愛していないことを証拠立てているのである。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・6・3

 

 良心の清い人は、すぐに満足して不平を起こさない。

 

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/3・36・1

 

わたしの子よ、あなたの心をしっかりと主に据えて、あなたの良心があなたの潔く罪のないことを証するかぎり、人の批評など恐れるな。

このようにして忍耐するのは、よいことで、また幸福なことである。そしてこれは、自分よりも神を頼みとしている謙遜な心の人にとっては、決してむつかしいことではあるまい。

 

 

 

 

5.良心とはたれにも決して悪を行わないこと

 

 

天界の秘義1076

 

『ハム』(創世記9・22)は腐敗した教会を意味していることはハムについて前に言われたことから明白である。教会はそれが聖言を承認して、真の教会の礼拝のようなある礼拝を持ってはいるものの、それでも信仰を仁慈から分離し、かくて信仰をその本質的なものから、その生命から分離し、かくて信仰が一種の死んだものとなってしまう時―その結果は必然的にその教会が腐敗してしまうということではあるが―腐敗してしまうと言われている。その時その教会の人間らはいかようなものになるかは、その者らが良心を持つことが出来ないということを考察することにより明白となるのである。なぜなら真に良心である良心は仁慈によらなくては決して存在することは出来ないからである。仁慈が良心を作るものである。即ち、主が仁慈を通して良心を作られるのである。良心とはたれにも決して悪を行わないということ、即ち、凡ての者に凡ゆる方法をもって善を行うということ以外の何であろうか。かくて良心は仁慈に属し、決して仁慈から分離した信仰には属していないのである。もしこのような人物が何らかの良心を持っているならば、それは誤った良心であり、それについては前に述べたことを参照されたい、彼らは良心を持っていないため、外なる束縛が緩められる限り、凡ゆる邪悪に突入するのである。彼らは仁慈とは何であるかを、それは何かを意味している言葉であるということ以外には、知ってさえもいない。彼らは、質問されると、それは一種の考えであるとしか答えることが出来ず、ある者はそれは信頼であると答え、他はそれは信仰の知識であると答え、少数の者はそれはこの知識に応じた生活であると答えるが、殆どたれ一人もそれは仁慈の生活であり、または相互愛の生活であるとは答えはしないのである。そしてもしそのことが彼らに言われて、そのことについて反省する機会が彼らに与えられるにしても、彼らはただ、愛は凡て自己から始まり、自分自身と自分自身の家族を顧みない者は異教徒より悪い者であるとしか答えないのである。それで彼らは彼ら自身と世を除いては何事も学びはしない。ここから彼らは彼ら自身のものの中に住むようになるのである。その彼ら自身のものの性質については前に述べておいた。これらがハムと呼ばれる者である。

 

 

 

天界の秘義1798「[]

 

十戒の教えを単に考えてみられよ。これらのものの最初のものは主なる神を拝することである。愛の生命をまたは仁慈の生命を持っている者は主なる神を拝しているのである、なぜならそのことが彼の生命となっているからである。他の教えは安息日を守ることである。愛の生命の中に、または仁慈の中にいる者は安息日を聖く守っているのである、なぜなら日々主を拝して、主を崇めることにまさって甘美なものは何一つ彼にはないからである。『あなたは殺してはならない』という教えは全く仁慈のものである。自分自身のように自分の隣人を愛している者は、何であれ、その者を害うことを行うことには身震いするのであり、ましてや彼を殺すことには身震いするのである。『あなたは盗んではならない』という教えもまた同じである、なぜなら仁慈の生命を持っている者はその隣人から何かを奪い去るよりはむしろ彼に自分自身のものを与えようとするからである。『あなたは姦淫してはならない』という教えもまた同じである、仁慈の生命の中にいる者はむしろ隣人の妻を、たれかがこれに危害を加えないように守り、姦淫を良心に反した犯罪として、婚姻愛とその義務を破壊するものとして認めているからである。隣人のものを貪ることもまた仁慈の生命の中にいる者たちには反している、なぜなら自己からまた自分自身のものから善いことを他の者に欲することは仁慈に属しており、それでこうした者は他人のものを決して貪りはしないからである。

 

 

 

天界の秘義1798[]

 

こうしたものは信仰の更に外なる教義的なものである十戒の教えであって、これらは仁慈とその生命の中にいる者により記憶の中に知られているのみでなく、その心の中にも存在しており、彼はそれらのものを、それらのものが彼の仁慈の中にあり、かくて彼の生命の中に存在しているため、彼自身の中に刻みつけているのであり、その他彼が同じように仁慈のみから知っている教義的な性質の事柄も彼自身の中に刻みつけられているのである、なぜなら彼は正しいものの良心に従って生きているからである。彼は、彼がそのように理解して、検討することの出来ない正しいことと真理とは、主がそのように言われたという理由から、単純にまたは心の単純さからそのようなものであると信じており、そのように信じている者は、例えその者がそのようにして受け入れているものはそれ自身において真のものではなくて、外観的な真理であるとしても悪は行わないのである。

 

 

 

 

6.良心から発した思考

 

 

天界の秘義1919[2]

 

良心は主から諸天界を通って流れ入ってくる事柄を全般的に指示する種類のものであって、かくてそれは明確でないものである。流入してくるものは内的な合理的な人の中にそれ自身を示しはするが、そこには雲に包まれているように存在しており、その雲は信仰の諸真理と諸善とに関わる外観と迷妄[妄想]とから発している。しかし思考は良心とは明確に区別されはするが、それでもそれは良心から流れ出ているのである。なぜなら良心を持っている者は良心に従って考え、語っており、そして思考は良心に属している事柄を明らかに示して、そのことによりそれらを幾多の観念[考え]に分け、次に言葉に分ける以外のものではないからである。ここから良心を持っている者は隣人については良い思考[考え]の中に主により保たれて、悪を考えないようにそこから遠ざけられており、それで良心は自分の隣人を自分自身のように愛し、信仰の諸真理については良く考える者以外の者のもとには在り得ないのである。以上述べたことから私たちは良心と思考の間の相違のいかようなものであるかを認めることが出来よう、またそのことから私たちは認識と思考との間の相違のいかようなものであるかも知ることが出来よう。

 

 

 

天界の秘義2515

 

「彼に言われた」(創世記20・3)。これはそこから発した、即ち、認識から発した思考を意味していることは、『言うこと』の意義から明白であって、それは認識することであり、また(2506番に示されたように)考えることである。認識から発した思考があったとここに言われているため、思考はいかようになっているかを簡単に述べた方がよいであろう。認識から発している思考があり、良心から発している思考があり、何ら良心がない状態から発している思考がある。認識から発している思考は天的な者たちのもとにのみ、即ち、主に対する愛の中にいる者たちのもとにのみ存在しており、こうした思考は人間のもとに存在している最も内なるものであり、それは天界における天的な天使たちのもとに存在している。なぜならそれは主から発している認識であって、それによりまたそこから彼らの思考は存在しており、認識に反して考えることは不可能となっているからである。良心から発した思考はそれよりは低いものであって、霊的な者たちのもとに、即ち、生命[生活]と教義との方面で仁慈と信仰との善の中にいる者たちのもとに存在している。更にこれらの人々にとっても良心に反して考えることは不可能となっている、なぜならそれは彼らに良心を通して主から口授される善と真理とに反抗して考えることになるからである。

 

 

 

天界の秘義2515[2]

 

しかし何ら良心を持たない状態から発した思考は自分自身が善い真のものにより内的に導かれることに甘んじないで、単に悪い誤ったもののみによって、即ち、主によらないで、自分自身によって導かれることに甘んじている者のもとに存在している。こうした人物は自分は良心と認識から考えている者たちと全く同じように内的に考えていると信じてはいるが、それは彼らは良心とは何であるかを知ってはおらず、ましてや認識とは何であるかを知ってはいないという理由によっているが、しかしその相違は地獄と天界との相違のようにも大きなものである。良心無しに考える者は何であれ何らかの欲念と幻想から考えており、かくて地獄から考えており、それがそのように見えない時は、それは名声を得るための外なる体裁から考えているのである。しかし良心から考える者は善と真理とに対する情愛から考えており、かくて天界から考えているのである。しかし主の思考については、それは人間の理解をことごとく超絶していたのである、なぜならそれは神的なものから直接発していたからである。

 

 

 

7.鏡

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/1卷P292/34・12/

 

主が三人の博士について語られる:

 

しかし、彼らの良心は彼らを安心させ元気づけます。黙想に親しんでいる魂は、絶え間ない注意により、また自らの内面を一つの鏡となし、そこに日々の出来事の最も小さな紛いものも映し出す明敏な内的省察によって、敏感な良心を培っています。彼らはその良心を師となし、最も小さな間違いとは言わずとも見当違い、人間的であるもの、自我というものの満足に警告を発して叫ぶ一つの声をもっています。だから彼らはこの師、この厳しい澄んだ鏡の前に立つとき、それは嘘をつかないと知っています。今、それは彼らを安心させ、彼らは活力を取り戻します。

 

『おお! わたしたちのうちには神に反するものは何一つない、と感じることの甘美さよ! 彼は忠実な子の心を好もしくごらんになり、祝福される、と感じること。こう感じることから、信仰と信頼、希望、剛毅、忍耐は増大します。今は嵐の中にいます。だがそれは過ぎ去るでしょう。神はわたしを愛し、わたしが神を愛していることを知っておられ、わたしを助けてくださらぬはずはないからだ』。

自分たちの行動の女王である正しい良心から生まれる平和をもつ彼らは、そう語るのです。

 

 

 

8.『エホバの御顔』は良心を持った者たちにおける指示の原因

 

 

天界の秘義224

 

 慈悲、平安、凡ゆる善は、または『エホバの御顔』(創世記3・8)は認識を持っている者たちにおける指示の原因であり、また方法は異なってはいるが、良心を持った者たちにおける指示の原因でもあり、それらは常に慈悲深く働いているが、しかしその人間が置かれている状態に応じて受け入れられている。この人間の、即ち、最古代教会のこの子孫の状態は自然的な善のそれであって、自然的な善の中にいる者は裸であるため、恐怖と恥辱のために身を隠してしまうといった性格を持っているのに反し、自然的な善さえも欠いている者らは、恥辱を感じないために、身を隠しはしない。この者らについては、エレミヤ記8・12、13。(上述の217番を参照)。  

 

 

 

 

9.認識に代って良心が起った

 

 

天界の秘義573

 

『エホバがわたしの霊は永久に人を咎めないと言われたこと』(創世記6・3)により人間は最早そのように導かれないであろうということが意味されていることは前に述べられたことと以下に述べることから明らかである、前に述べたことは以下のことである、即ち、人間は教義的なものを、または真理を欲念に惑溺させてしまった[浸してしまった]結果、最早咎められることが出来ない、即ち、悪の何であるかを知ることが出来ない底のものとなってしまって、真理と善を認識する能力がことごとく彼らの信念を通して消滅してしまい、かくて彼らは自分の信念に一致しているもののみが真理であると信じてしまったのである。またこのことは以下に述べられたことからも明らかである。即ち洪水後教会の人間は異なったものになってしまい、その者のもとでは認識に代って良心が続いて起こり、良心を通してその人間が咎められることが出来たのである。それで『エホバの霊により咎められること』は内なる指示を、認識を、または良心を意味し、『エホバの霊により咎められること』は内なる指示を、認識を、または良心を意味し、『エホバの霊』は真で善いものが流入することを意味している、例えばイザヤ書にもまた―

 

 わたしはとこしえに争いはしない、また常に怒りもしない、霊はわたしの前に衰え、わたしの作った霊魂も衰えるからである(イザヤ57・16)。

 

 

 

天界の秘義4317[5]

 

それは悪を意志して、そこからそれを考えることに在り、遺伝悪は意志そのものの中にそこから派生している思考の中にあり、内に存在しているところのコナトスまたは努力そのものであり、それはその人間が善いことを為している時でさえもそれ自身を接合させているのである。それは悪が他の者に降り掛かる時に感じられる歓びにより、知られている。この根は深く隠されている。なぜなら天から(即ち、主から天界を通して)善い真のものを受ける内なる形そのものは腐敗しており、いわば、歪められており、そのため善と真理とが主から流れ入ると、それらは跳ね返されるか、歪められるか、または窒息させられるかするからである。現今では善と真理の認識は[善と真理を認識すること]全く存在しないで、代って、再生した者のもとには、両親や教師から学ばれるものを善い真のものとして承認する良心が存在しているのは、そうした原因から発しているのである。

 

 

 

天界の秘義6647

 

「イスラエルの息子たちは多くの子を生み、多産であった」(出エジプト記1・6)。これは教会の諸真理が善の方面で増大したことを意味していることは以下から明白である、即ち、イスラエルの息子たちの表象は霊的な諸真理であり(5414、5879番を参照)、教会であり(6637番)、『子を多く生むこと』の意義は善の方面で増大することであり(43、55、913、983、2846、2847、3146番)、『多産であること』の意義は更に派生することである、なぜなら教会が人間のもとに新たに設立されると、その時は善は内なるものの中にも、また、外なるものに向って、また外なるものの中にも絶えず増大して、派生するからである。霊的な教会の人たちのもとには善は諸真理により増大することはすでに再三示したところである、なぜなら霊的な教会の人間は、天的な教会の人間とは異なって、認識を持ってはおらず、そのため彼らは真理によらなくては、教会の善、または霊的な善の何であるかを知らないからである。それで霊的な教会の人間が再生しつつある時は、諸真理は彼のもとにいる天使たちを通して主により掻き立てられ、そのことによって彼は善へ導かれるのである。しかしその人間が再生すると、その時は真理と善とが共に掻き立てられ、そのようにして彼は導かれて行くのである。しかし霊的な教会の人間のもとでは、真理のいかんに、善が応じており、そこから良心も応じており、良心が彼には認識として存在し、その認識に従って彼は生きるのである。

 

 

 

世のひかり社/デボラ/生ける神よりあかされた英知/5巻下P16

 

 完徳を熱望しなければならない。それは、霊魂の本質的願いだからである。あなた達のその良い意志の中に、非常な力が包含されているからである。あなた達は神の似姿である、と記されている。それは、あなた達の良心の中には、自分の状態の様々な段階を識別させることのできる目がある、ということを意味する。

 

 

 

 

10.良心はそれ自身諸々の試練の面である

 

 

天界の秘義761

 

 人間の中の霊的な試練はその者のもとにいる天使たちと悪霊らの争闘であり、この争闘は彼の良心の内に普通感じられることは前に述べたところであるが、この争闘についてはまた以下のことを知っておかなくてはならない、即ち、天使たちは絶えず人間を守っていて、悪霊どもが彼に加えようと努力している幾多の悪を外らしているのである。天使たちは人間の中の誤った悪いものを守りさえしている、なぜなら彼らは彼の幾多の誤謬と悪とは何処から発しているかを、即ち、悪い霊らと鬼どもから発していることを充分に知っているからである。人間は自分自身からは誤った悪いものを一つとして生み出しはしない、それを生み出すと同時にその人間にその人間が自分自身からそれを行っているのであると信じ込ませるものこそ人間のもとにいる悪霊らである。かくの如きが彼らの悪意である。更に、私は多くの経験から確認することが出来るのであるが、彼らはこの信念を注ぎ入れ、強制していると同時に人間を訴え、罪に定めるのである。主に対する信仰を持っていない者は自分は自分自身で悪を行っていると信じないように明るくされることは出来ない、それで悪を自分自身のものとし、自分と共にいる悪霊共のようなものになる。これが人間の実情である。天使たちはこのことを知っているため、再生の試練においては彼らは人間の幾多の誤謬と悪をまた守るのである、なぜならもしそれらを守らないなら人間は屈服するからである。なぜなら人間の中には悪とそこから発した誤謬以外には何ものも無く、かくて人間は諸々の悪とその諸々の誤謬の集合体、合成体そのものに過ぎないからである。

 

 

 

天界の秘義762

 

 しかし霊的な試練は現今ほとんど知られていない。またそれは以前ほどに許されてもいない、それは人間は信仰の真理の中にはいないし、それで屈服してしまうためである。これらの試練に代って自然的な身体的な原因から生まれている不運、悲哀、心労といった他のものがあり、また人間の幾多の快楽と欲念の生命をある程度押さえ、破って、彼の思いを内的な宗教的な主題に方向づけ、高揚させるところの身体の病気、疾患といった他のものもあるのである。しかしこれらは霊的な試練ではなく、霊的な試練は主から真理と善との良心を受けた者たちによってのみ経験されるのである。良心はそれ自身諸々の試練の面であり、その中に試練が行われるのである。

 

 

 

 

11.仁慈が良心を支配する

 

 

天界の秘義765

 

 これまで『ノア』と呼ばれた教会の人間の試練が取り扱われてきた、即ち、先ず信仰の真理である理解の事柄の方面の彼の試練が取り扱われた(創世記7・11、12節)。試練の目的または目標は、最古代教会が滅んでしまったからには、教会がその試練を手段として再び生まれるためであった。『ノア』と呼ばれたこの教会は前に言ったように最古代教会の性格とは異なっていたのである、即ち人間が信仰の教義的な事柄により再び生まれるのであり、その教義的なものが植えつけられた後、その人間が信仰の真理と善とに反して行動しないように良心が彼に植えつけられ、かくして彼は仁慈を与えられ、その仁慈がこのように良心を支配し、その良心から彼はこのように行動し始めるのである。このことから霊的な人間とはいかようなものであるかが明らかである、即ち、彼は仁慈の無い信仰が救うものであると信じる者ではなく、仁慈を信仰の本質的なものとして、そこから行動する者である。こうした人間が、またこうした教会が起ることが意図された目的であり、それ故今やその教会そのものが取り扱われているのである。

 

 

 

天界の秘義863

 

「ノアはその作った箱舟の窓を開いた」(創世記8・6)。 これは信仰の諸真理が彼に現れた第二の状態を意味していることは前の節の最後の言葉、即ち、「山々の頂きが現れた」から、その言葉の意義から明らかであり、また同じく『窓』の意義が(655番参照)理解であり、またはそれと同一の、信仰の真理であることから明らかであり、同じくこれが光が初めて射し始めたことであることから明らかである。『窓』により意味されている理解、または信仰の真理については、ここにも前のように以下のように言って良いであろう、即ち、真の理解は意志に属した物から発しなくてはあり得ないため、信仰の真理は愛または仁慈の善から発しなくては有り得ないのである。前にしばしば示されたように、もし意志に属したものを除くならば、理解は存在しない、それで仁慈を除くならば、信仰は存在しないのである、しかし人間の意志は欲念そのものであるため、彼の理解に属したものが、または信仰の真理が欲念の中に浸されてしまうのを防ぐために、主は人間の理解に属したものが意志に属したものからある手段により分離されるように奇しくも配慮されたのであって、その手段とは良心であり、その中に主は仁慈を植えつけられることが出来るのである。この奇しい配慮がなかったならば何人も救われ得なかったのである。

 

 

 

天界の秘義1994

 

「あなたは完全なものになりなさい」(創世記17・2)。これは仁慈の善を意味していることは、「完全なものになること」(integer)の意義から明白である、即ち、完全なものになることは真理から善いことを行うことであり、即ち、真理の良心から善を行うことであり、引いては仁慈から善を行うことである、なぜなら仁慈が良心を作るからである(この意義については612番を参照)。しかし主がここに内意で取り扱われたもうているため、『完全なもの』により仁慈の善が意味されている、なぜなら善は仁慈から発しており、かくて仁慈から派生している真理はそれ自身善であるからである。

 

 

 

 

12.良心を持った者にあってはそこから鈍い苦痛が生まれて来るが、認識を持っている者にあっては激しい苦痛が生まれてくる

 

 

 

天界の秘義1668[2]

 

悪または悪霊らは善と真理の中にいようと欲している人間が自分自身の中に悪と誤謬とを確認するに比例して、即ち、欲念と誤謬とが彼の善と真理へ徐々に入り込んでくるに比例して反抗するのである。欲念と誤謬との中に悪霊の生命があり、善と真理の中に天使たちの生命があり、ここから懊悩[とりついて悩ますこと]と争闘とが発してくる。このことは良心を持っている者凡てに言われるが、まして認識を持たれた主の子供の頃に言われたのである。良心を持った者にあってはそこから鈍い苦痛が生まれて来るが、認識を持っている者にあっては激しい苦痛が生まれてくるのであって、認識が内的なものであればある程、苦痛は激しくなるのである。このことから主の試練の性質は人間のそれと比較していかようなものであったかを認めることが出来よう、なぜなら主は内的な最も内なる認識を持たれたからである。

 

 

 

天界の秘義5949[4]

 

 この凡てから神を絶えず眼前に仰がなくてはならないということは如何ように理解されなくてはならないかが明白である。即ち、それは神を絶えず考えなくてはならないということではなくて、神に対する恐れ、または愛が遍く支配しなくてはならぬということであり、そうした場合神は凡ゆる細々とした事柄の中においても眼前に仰がれているのである。こうした場合、その人間は神に反抗し、神の心を痛めることを考えはしないし、語りはしないし、行いはしないのであり、もしそうしたことを行なうなら、遍く支配して、内に隠れているものが、現れてきて、彼を戒めるのである。

 

 

 

徳間書店/サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P278

 

この世において霊的心をもつ者が苦しむというのは、真理を味わうことができないために性格が歪み、隠れた罪によって霊的識別力を失ってしまった者たちが誤解するからである。この種の人々は、正しい人間を前にすると違和感を覚えて本能的に敵対せざるをえなくなる。だが、神に敏感な感性と良心をもっているその人は、似た心の人を前にすれば互いに引き寄せあう神の生命をそこにみる。

 

 

 

 

13.内なる言葉

 

 

天界の秘義1822

 

 「かれはかれに言われた」(創世記15・9)。これは認識を意味していることは前の二節と七節に言われたことから明白である。認識それ自身は一種の内なる言葉以外の何ものでもなく、その内なる言葉はそれ自身を、認識されることによって明らかにするのである。内的な指示はことごとく、実に良心さえもが、それ以外の何ものでもないが、しかし認識はそのものの更に高い、更に内的な度のものである。

 

 

 

 

14.人間のもとに主が流入されるのは人間の良心の中へ仁慈により流入されることによっている

 

 

天界の秘義1835[]

 

 為し得る限り主は絶えず幾多の悪と誤謬とを逃走させられているが、しかしそれは良心を通して行われているのである。良心が弛緩している時は、主が流れ入られることが出来る手段となる媒介は存在しないのである、なぜなら人間のもとに主が流入されるのは人間の良心の中へ仁慈により流入されることによっているからである。しかしこの仁慈に代って新しい媒介物が続いて起こり、形作られるが、それは外なるものである、即ち、それは法律を恐れる恐怖、生命に対する、名誉と富とそれらのものから発する名声に対する恐怖である。しかしこれらは良心に属してはいない、それらは単に、その人間は内的にはいかようなものであろうとも、その人間を他の者との交わりの中に生かし、友達として見させる外なる束縛に過ぎないのである。

 

 

 

天界の秘義1835[]

 

しかしこの媒介は、またこれらの束縛は他生では無価値である、なぜならそこでは外なるものは取り除かれて、人は各々その者が内なるもののうちであるがままに止まるからである。道徳的な、公民的な生活を送り、何人も害ってはおらず、友情と儀礼に適った行為を行い、否、多くの者に善を為しはしたが、しかしそれは単に名誉と利得といったものを得ようとの目的から自己のために行ったに過ぎない極めて多くの者がいる。他生ではこれらの者は奈落の者らの間にいるのである、なぜなら彼らは内に善と真理を何ら持っていないで、単に悪と誤謬のみを持っているに過ぎず、否、憎悪と復讐と残酷と姦淫のみを持っているに過ぎないからであり、それらのものは人間の前には、即ち、今し方言及した、外なる束縛である恐怖が支配している限り現われはしないのである。

 

 

 

天界の秘義4217[3]

 

 聖言の凡てのものの場合も同じであり、それで聖言は人間を主に結合させる手段である。このような結合させる手段がない限り、天界は人間のもとに流れ入ることは出来ない、なぜなら手段がないなら合一はなく、天界は人間からそれ自らを遠ざけてしまい、そしてもしそれが遠ざけられるなら、たれ一人もはや善へ、形体的な世的な善へすら導かれることは出来なくなり、いかようなものであれ、凡ゆる絆が、その外なるものでさえもが破壊されるであろうから。なぜなら主は善の中にいる人間を良心のものである内なる絆により支配されているが、しかし悪の中にいる者は外なる絆によってのみ支配されており、もしそれが仮にも破壊されるなら、このような人間はことごとく狂ってしまい、実に法律を怖れない、自分の生命を恐れない、また名誉と利得を失うことも怖れない人間のようになり―なぜならこうした恐れが外なる絆[拘束物]であるからであるが―かくて人類は死滅してしまうからである。この凡てからなぜ聖言が存在しているかを、また聖言の性格はいかようなものであるかを認めることが出来よう。(聖言が存在している主の教会は心臓と肺臓のようなものであり、聖言が存在していない主の教会は心臓と肺臓とから生きている他の内臓のようなものであることは、前の637、931、2054、2853番に見ることが出来よう)。

 

 

 

 

15.内的なものは外的なものに起きることを見ることが出来る。良心を持っている者はそれを習慣的に行っている

 

 

天界の秘義1914

 

「わたしの不当な害はあなたの上にあるように。わたしはわたしの女中をあなたの胸の中へ与えました」(創世記16・5)。これはそれ自身に責任を取ろうとは欲しないことを意味していることは説明をしなくとも明白である。内意ではこれらの言葉の中には、主はこの最初の合理的なものが知的な真理を軽視する底のものであることを認められ、そのためにそれを非難されたことが含まれている。なぜなら主は、前に言ったように(1904番)、知的な真理から考えられたのであり、そしてこの真理は合理的なものの上の方にあるため、それはこの合理的なものの性質を、即ち、それがその真理を軽視したことを認めまた見ることが出来たからである。

 

 

 

天界の秘義1914 []

 

主は御自身の中にあるこの新しい合理的なものの性質の何であるかを内的な人から認め、また見られることが出来たことは以下の事実から認めることが出来よう、即ち、内的なものは外的なものに起きることを認めることが出来るのであり、またはそれと同じく、高いものは低いものの中にあるものを見ることが出来るが、しかしその反対はあり得ないのである。さらに良心を持っている者たちはそれを行うことが出来、またそれを習慣的に行っているのである、なぜなら良心の真理に反したものが何か思考の中へ、または意志の努力の中へ流れ入ってくると、彼らはそれを認識するのみでなく、またそれを咎めて、それがそうした性格を持っていることが彼らを悲しませさえもするからである。まして認識は合理的なものにおける更に内的なものであるため、認識を持っている者はそのことを行うことが出来るのである。それなら主は何を行われることが出来なかったであろうか、主は神的な天的な認識を持たれて、合理的なものの上位にある知的な真理の情愛から考えられたのである! それで主は悪と誤謬は一つとして主御自身からは発しないことを知られ、また御自身の合理的なものが純潔なものになるようにと御自分が真理の情愛から最大の苦痛を舐められたことを知られて、憤激されない訳にはいかなかったのである。このことは主が知的な真理を軽視されなかったが、主が主御自身の中にある最初の合理的なものがそれを軽く考えていることを認められたことを示しているのである。

 

 

 

天界の秘義1914 []

 

知的な真理から考えることはいかようなことであるかは、把握出来るように説明することは出来ないのであり、更にそれは、主を除いてはたれ一人この情愛から、またこの真理から決して考えなかったため、出来はしないのである。そこから考える者は天使たちの天界よりも上方にいるのである、なぜなら第三の天界の天使すらも知的な真理からは考えないで、合理的なものの内的なものから考えるからである。しかし主は御自身の人間的な本質をその神的な本質に結合されるに応じ、神的善そのものから、即ち、エホバから考えたのである。

 

 

 

 

16.良心を持たない者は合理的なものを持たない、合理的なものを持たないものは悪と誤謬から考え、彼らは思考において

狂っている

 

 

天界の秘義1914 []

 

認識を持っていた最古代教会の父祖たちは外的なまたは自然的な合理的なものから考えたのである。認識を持たないで、良心を持っていた古代教会の父祖たちは外的なまたは自然的な合理的なものから考えたのである。しかし良心を持たない者はすべて、合理的なものを持っているように見えるけれど、それを持っていないからには、合理的なものからは些かも考えはしないで、感覚的な、形体的な自然的なものから考えるのである。良心を持たない者は合理的なものから考えることが出来ない理由は、彼らは、今し方言ったように、良心を持っていないということである。合理的な人間とは信仰の善と真理を考える者であり、それに反して考える者では決してない。悪と誤謬とを考える者らはその思考[考え]において狂っており、それで合理的なものは決して彼らには述べることは出来ないのである。

 

 

 

天界の秘義2183[2]

 

否、合理的な人は自然的な人の中にある悪を見、認めることさえも出来、そしてもしそれが純粋な合理的なものであるならば、それはそれを懲らしめることも在り得るのである(1904番を参照)。この二つのものが連結しない中は、人間は人間そのもの(または完全な人間)では在り得ないのであり、また平安の静謐の中にも在ることは出来ないのである、なぜならその一方のものは他方のものと戦うからである。なぜならその人間のもとにいる天使たちは彼の合理的なものを支配しているが、しかし彼のもとにいる悪霊らは彼の自然的なものを支配し、ここから争闘が発してくるからである。

 

 

 

天界の秘義2183[3]

 

もしその時合理的なものが征服するならば、自然的なものは征服され、かくてその人間は良心を与えられるが、しかしもし自然的なものが征服するなら、その時は彼は良心の如何ようなものをも受けることは出来ないのである。もし合理的なものが征服するならばその時は彼の自然的なものは、それもまた合理的なものであるかのようになるが、しかし自然的なものが征服するならば、合理的なものはそれもまた自然的なものであるかのようになるのである。更に、もし合理的なものが征服するならば、その時は天使たちはその人間のもとへ更に近づいて来て、彼に主から天使たちを経て来る天的なものであるところの仁慈を秘かに注ぎ入れ、悪霊らは遠くへ退いてしまうが、しかしもし自然的なものが征服するならば、その時は天使たちは更に遠くの方へ(即ち、更にその人間の内部の方へ)退いてしまうが、これに反し悪霊らは合理的なものの方へ更に近づいて、絶えずそれを攻撃し、彼の心の低い部分を憎悪、復讐、詐欺といったもので満たすのである。もし合理的なものが支配するなら、その時はその人間は平安の静謐に入り、他生では天界の平安の中へ入って行くが、しかし自然的なものが征服するなら、その時は、その人間は、生きている間は、恰も静謐の中にいるかのように見えはするものの、しかし他生では地獄の不安と呵責[拷問]の中へ入って行くのである。

 

 

 

天界の秘義2183[4]

 

このようにして人間の状態の合理的なものの方面の性質は、またその自然的なものの方面の性質はいかようなものであるかを知ることが出来よう、それでその自然的なものが合理的なものに順応して、その二つのものが共に連結する以外には人間を祝福された、幸なものにすることの出来るものは一つとしてないのである。このことは専ら仁慈により遂行されるのであって、仁慈は専ら主から発しているのである。

 

 

 

 

17.良心を持たない者は内的な思考を持つことは出来ないのであり、それで争闘も無い、(中略)これが彼らが信仰の真理を何ら認めはしない理由となっている。

 

 

天界の秘義1935

 

「エホバの天使は言った」(創世記16・9)。これは主の内的な人の応答を意味していることは、『エホバの天使』の意義から明白であり、それは主の内的な思考であり(その事については前の1925番に述べた)、それは思考であるため、また応答である。主の内的な思考は知的な真理の情愛から発し、この情愛は神的善それ自身から発していたのである。こうした思考は、前に言ったように、いかような人間の中にも決して存在しないし、また存在することも出来ないのである。人間の中にもまた、良心を持っている者たちのもとには、主から人間の内なる人を通してその内的な合理的なものの中へ流れ入っている内的な思考が存在しており、このことは良心を持っている者たちがその内的な人における善と真理と争闘を交えるところのその者たちの外なる人における悪と誤謬とを認めることができるという事実から認めることができよう。この思考は遥かに低いものであって、主の内的な思考にはいかような点でもなぞらえることは出来ないものである、なぜなら主の内的な思考は知的な真理の情愛から発していて、主に固有な、また特有なものであったからである。しかし良心を持たない者は内的な思考を持つことは出来ないのであり、それで争闘も無い、その理由は彼らの合理的なものは形体的な感覚的なものと同一のものになって働くということであり、彼らの中にもまた主から善と真理とが不断に流入してはいるけれど、それでも彼らはそれを即座に消滅させ、窒息させるため、それを認めはしないのであって、これが彼らが信仰の真理を何ら認めはしない理由となっている。

 

 

 

 

18.自由を通して人間はその中に主が善いことを行われることが出来るところの自分自身のものを獲得する。自分自身のものが自由を通して獲得されないならば、人間は良心である新しい意志を受けることが出来ない。

 

 

天界の秘義1937[]

 

これが特に試練の間の実情である、なぜならこの試練の中には―その人間が自分自身を強制して悪霊らにより注ぎ込まれ、暗示される悪と誤謬に対抗する時は―試練からは自由であるいかような状態におけるよりも更に多くの自由が存在しているからである、例えその時はその人間はそのことを把握することは出来ないにしても。なぜなら内的な自由があって、この自由から彼は悪を征服しようと欲しており、またその自由は彼を襲っている悪の力と強さとに匹敵する程にも大きなものであるからである、なぜならもしそうでないなら彼は決して争闘を交えることは出来はしないからである。この自由は主から来ており、主はそれをその人間の良心の中に秘かに注がれて、それによって彼にその悪を彼自身のものから征服するものとして征服させられるのである。この自由を通して人間はその中に主が善いことを行われることが出来るところの自分自身のものを獲得するのである。自分自身のものが自由を通して獲得されないならば、即ち、与えられないならば、人間は良心である新しい意志を受けることが出来ないため、決して改良されることは出来はしないのである。このようにして与えられた自由はその中へ主から善と真理とが流入することが出来る面そのものなのである。かくて試練にあって自己自身の意志からまたは自由の中に抵抗しない者らは敗北してしまうのである。

 

 

 

 

19.良心はそれ自身が強制されることを潔しとはしない

 

 

天界の秘義1947

 

良心はそれ自身が強制されることを潔しとはしない

 

 

 

 

20.自由の性質は良心を持たない者らには全く知られていない

 

 

天界の秘義1947

 

 人間は再生しつつある間は、彼は主から与えられている自由から、自己を強制し、またその者の合理的なものがそれ自身を服従させるために、その合理的なものを卑しくし、また苦しめさえもし、そのことにより彼は天界的な自分のものを受けるのであって、その天界的な自分のものはその後主により徐々に完成され、益々自由になり、かくてそれは善の情愛となり、そこから真理の情愛となって、歓喜を得、その自由の中にも歓喜の中にも天使たちの幸福に似た幸福が存在するのである。この自由がヨハネの書に語られているものである―

 

真理はあなたたちを自由にするでしょう、もし子があなたたちを自由にするならあなたたちは実に自由になるでしょう(ヨハネ8・32、36)。

 

この自由の性質は良心を持たない者らには全く知られていない、なぜなら彼らは自分が好きなように行い、誤ったことをほしいままに考えたり、話したり、ほしいままに悪いことを欲したり、行ったりして、強制したり、卑しくしたりはしない、ましてやこうした欲望を苦しめたりはしないことに自由があると考えているが、真理はその逆そのものであるからであり、そのことを主もまた同じ福音書に教えられているのである―

 

罪を犯す者はことごとく罪の奴隷である(ヨハネ8・34)

 

この奴隷的な自由を彼らは彼らと共にいて、それを注ぎ入れる奈落の霊どもから受けており、彼らはこれらの霊の生命の内にいる時は、また彼らの愛と欲念の中にもいて、不潔な、排泄物のような歓喜が彼らに吹き込まれ、そしていわば激流に流されるかのように流されて行く時は、自分自身が自由の中にいると考えているが、しかしそれは奈落の自由なのである。この奈落の自由と天界の自由との間の相違はその一方は死のそれであって、彼らを地獄に引きずり降ろすに反し、他方はまたは天界の自由は生命の自由であって、彼らを天界へ引き上げるということである。

 

 

 

 

21.試練によって悪と誤謬が破壊され、悪と誤謬に対する恐怖が生まれ、それにより良心が与えられる

 

 

天界の秘義1692

 

 試練は、または試練の争闘はいかようなことを遂行するかは殆どたれ一人知ることは出来ない。それは幾多の悪と誤謬とが破壊され、消散される手段であり、またそれにより悪と誤謬とに対する恐怖が生まれてくる手段であり、それにより良心が与えられるのみでなく、また強固にもされ、かくしてその人間は再生するのである、それが再生しつつある者が争闘に入れられて、試練を受ける理由であり、身体の生命の中でそれを受けない者は、もしその者が再生することが出来るならば、他生でそれを受けるのであり、そうした理由から主の教会は戦闘の教会と呼ばれている。しかし主のみが御自身の強さによりまたは御自身の力により試練の中でも最も残酷な争闘に堪えられたのである、なぜなら主は凡ゆる地獄に包囲されたもうて、絶えずそれらを征服されたからである。

 

 

 

天界の秘義3654〔8〕

 

 更に―

 

 見よ、その日は来る、とエホバは言われる、その時わたしはイスラエルの家とユダの家とに人の種と獣の種とを蒔くであろう。わたしはイスラエルの家とユダの家と新しい契約を立てるであろう。これがわたしがその日の後イスラエルの家と立てる契約である、即ち、わたしはわたしの律法を彼らの真中に置き、それを彼らの心に記すであろう(エレミア31・27、31、33)。

 

 ここにはイスラエルまたはイスラエルの家が意味されていないことは極めて明白である、なぜなら彼らは異邦人たちの間に散らされて、決して捕われた状態から連れ戻されなかったからであり、従ってユダもユダの家も意味されてはいないで、それにより、その内意では、主の霊的な、天的な王国に属している者たちが意味されているのである。これらの者と新しい契約が結ばれ、その心に律法が記されたのであり、『新しい契約』は善によって主と連結することを意味し(665、666、1023、1038、1864、1996、2003、2021、2037番を参照)、『その心に記された律法』はその結果生まれてくるところの善と真理の認識を、また良心を意味している。

 

 

 

 

22.良心を持っている者はすべて仁慈の善の中にいる

 

 

天界の秘義2380[2]

 

 人間は形体的なものの中に止まっている間は自分は仁慈の善の中にいるのか、いないのかを殆ど知りはしないといった全般的な、明確でない〔曖昧な〕観念と認識との中にいるが(2367番を参照)、そのことは以下の附加的な理由によっているのである、即ち、彼らは仁慈とは何であるかを、また隣人とは何であるかを知ってはいないのである。しかし問題になっているその人物はたれであるかを知られよ。良心を持っている者はすべて仁慈の善の中にいるのである(即ち、公正で公平なものからまた善い真のものからいかような程度でも離れようとはしないで、しかもそれが公正で公平なもの、善い真のもののためである者たちは仁慈の善の中にいるのである、なぜならこうした主義は良心から発しているからである)、また良心を持っているため、その隣人を例えその者が敵であるにしても、良く考えて、その者の幸福を願い、しかもそのことをいかような報酬も無しに行っている者は仁慈の善の中にいるのである。これらの者が、例えその者たちは教会の外にいようと、または教会の内にいようと、仁慈の善の中にいる者である。もしその者たちが教会の中にいるなら、その者たちは主を崇め、主が教えられた事柄を進んで聞きもし、また行いもするのである。

 

 

 

天界の秘義2380[3]

 

他方、悪の中にいる者は何ら良心を持っていない、なぜなら彼らは公正で公平なものを心に留めることによってそれを心に懸けているように見えるという世評を得ることが出来る限り、それを心に懸けはするが、そうしたことが無いなら、何らそのものを心に懸けはしないからである。霊的な生命に影響を与える善と真理とはいかようなものであるかを彼らは知らないし、それを全く生命の無いものとして斥けさえするのである。更にそれ以上にも進んで、彼らは隣人については悪く考え、その者が危害を受けるようにと願いもし、その隣人が自分を支持しないなら、その隣人が友であったにしても、その隣人にまた危害を加え、それを行なうことにより歓喜を覚えているのである。万が一彼らが何か善を行なうにしても、それは報酬を目当てにしているのである。教会内のこうした者は秘かに主を否定しており、それで名誉、利得、世評または生命が害われない限りそれを公然とやってのけるのである。

 

 

 

天界の秘義2380[4]

 

 しかしながら人によってはその人は善の中にいるのに当人は善の中にはいないと考えており、善の中にいないのに当人は善の中にいると考えていることを知られよ。善の中にいるのに善の中にはいないと考えている者がいる理由は以下の如くである、即ち、その者たちがその者の中にいる善を反省すると、すぐにその者たちが交わっている天使たちにより、自分は善の中にはいないという思いを注ぎ込まれるのであって、それはその者たちがその者たち自身にその善を帰さないためであり、またその者たちの思いがその者たち自身の功績に向けられて、そのことによって自分自身を他の者よりも勝ったものとすることがないためである。このように守られないなら、彼らは試練に陥るであろう。

 

 

 

天界の秘義2380[5]

 

 自分自身は善の中にいないのに、善の中にいると考える者がいることについては、その理由は以下の如くである、即ち、彼らはそれを反省するとすぐさま、その交わっている悪い魔鬼と悪霊とにより、彼らは善の中にいるという思いを注ぎ込まれるのであり(なぜなら悪い者は歓びが善であると信じているからである)、また彼らが何であれ自己への愛と世への愛から他の者に行なった善はことごとく他生においてさえも報いられねばならない善であり、かくて自分らは他の者以上に功績を持っていると考えさせられて、他の者を自分に比較して軽蔑し、実に取るに足らないもののようにも考えるのである。しかも驚くべきことは、仮にも彼らがそれとは異なった考えを持つとするなら、試練に陥って、その試練に於いては屈服してしまうのである。

 

 

 

天界の秘義4243

 

本章には、真理が善に服従するようにされつつある時存在する秩序における連結の経過が記され、かくて状態の転倒が記されているのである。人間が情愛から真理を学びつつあるものの、それに従ってさほど生きていない時は、真理は外観的には第一位に立っているのである。しかし人間が情愛から学んだ真理に従って生きる時、善は第一位に立つのである、なぜならその時その人間は真理に従って行うことは善であると信じているため、真理はその時善となるからである。再生した者たちはこの善の中におり、良心を持っている者たちもまた、即ち、何かの事柄が真であるか否かとは最早論じはしないで、それが真であるためにそれを行い、かくてそれを信仰の中にまた生命の中に自分自身に浸透させた者たちも、この善の中にいるのである。

 

 

 

 

23.内なる視覚は天界の光の中に存在し、再生した者たちのもとではそれ自らを明らかに示すのであり、とくに良心により明らかに示す

 

 

天界の秘義3863[4]

 

外なる意義では「見ること」は見ること[視覚]を意味していることは解説の要もなく明白であり、内的な意義では「見ること」は理解を意味していることもまた明白であろう。なぜなら内なる人の視覚は理解以外の何ものでもなく、それで普通の談話でも理解は内なる視覚と呼ばれており、光がそれについて、外なる視覚について述べられているように述べられ、知的な光と呼ばれているからである。『見ること』はその内意では主から発している信仰を意味していることは以下の事実から明白である、即ち、内的な理解は真理と善のものである対象以外の対象を何ら持っていないのである、なぜならそれらのものは信仰の対象であるからである。信仰のものである諸真理をその対象としているところのこの内的な理解は、または内なる視覚は、公民的[社会的]な道徳的な生活の真理をその対象としているところの理解のようにはそれ自身を明らかに示してはいないが、それは以下の理由のためである、即ち、この内的な理解は後のものの中に存在していて、天界の光の中に存在しているが、その光は人間が世の光の中にいる限り、明確でない状態に置かれているのである。にもかかわらず、それは再生した者たちのもとではそれ自らを明らかに示すのであり、特に良心により明らかに示すのである。『見ること』はその最高の意義では先見であることは明白であるに違いない、なぜなら主について述べられる理知は無限な理知であって、それは先見以外の何ものでもないからである。

 

 

 

天界の秘義3863[15]

 

 『見ること』は主に対する信仰を持つことであることは、天界の光について再三前に言ったことから極めて明らかである、即ち、天界の光は主から発しているため、それには理知と知恵とが伴っており従って主に対する信仰が伴っているのである、なぜなら主に対する信仰は理知と知恵の中に内的に存在しているからである、それで天使たちのように、その光から『見ること』は主に対する信仰以外の何ごとも意味することは出来ないのである。主御自身もまたその光の中に、その光は主から発出しているため、存在されるのである。主に対する信仰を持っている者たちの良心の中に輝いているものもまたかの光であるが、その人間は身体の中に生きている間はその事実を知らないのである、なぜならその時それは世の光により明確でないものにされているからである。

 

 

 

 

24.この面の中へ主から善と真理とが流れ入り、その中に受け入れられることが出来る

 

 

天界の秘義3957[7]

 

 知られることも出来る第六の事柄は以下のことである、即ち、天界はまたは主は天界を通して絶えず善と真理とをもって働かれ、流れ入られつつあるが、その時人間の中に―身体の死後生きるところのその内的な人間の中に―善と真理とを受ける何らかのものが、土地または面として存在していないなら、流れ入って来る善と真理とは受け入れられることは出来ないのであり、そうした理由から人間は身体の中に生きている間に自分自身の中にそのような面を得るように心を配らなくてはならないが、しかしそれは隣人に対する善いことを考えることによらなくては、また彼に善いことを欲することによらなくては、それで彼に善いことを為し、かくてそのようなことに生命の歓喜を得ることによらなくては、得られることは出来ないのである。この面は隣人に対する仁慈により、即ち、相互愛により得られて、良心と呼ばれるものである。この面の中へ主から善と真理とが流れ入り、その中に受け入れられることが出来るが、しかし仁慈が無く、従って良心も無い所には受け入れられはしないのである、なぜならそこでは流れ入って来る善と真理とは通り抜けて、悪と誤謬とに変化するからである。

 

 

 

天界の秘義5145[4]

 

これらの終結[終結したもの]が在るか、従って面が在るか、否かを知ることは全く可能である、なぜなら善と真理との認識が、また良心の認識がこれを示しているからである。(中略)良心そのものは神的な善の流入がその中に終結する面である。しかし良心を持たない者らはこの流入を受ける面を全く持ってはおらず、これらの人物のもとでは善は外的な自然的なもの、または自然的な感覚的なものにまでもふるいを流れ通っているように流れ下って、前に言ったようにそこに醜い歓喜に変化するのである。

 

 

 

天界の秘義5145[5]

 

従って良心を持った者は凡て救われるが、しかし良心を持っていない者らは救われることは出来ないのである。

 

 

 

 

25.主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいて、隣人に対してはその者の中にある善に応じて善を行い、公正で公平なものの良心を持っている者たちはすべて巨大人の中にいる

 

 

天界の秘義4225

 

先ずたれが巨大人の中にいるか、またたれがその外にいるかを述べなくてはならない。主に対する愛と隣人に対する仁慈の中にいて、隣人に対してはその者の中にある善に応じて善を行い、公正で公平なものの良心を持っている者たちはすべて巨大人の中にいるのである。なぜならこれらの者は主の中におり、従って天界にいるからである。しかし自己への愛と世への愛とそこから派生してくる欲念の中におり、単に法律のために、自分の名誉と世の富とそこから生まれてくる名声のためにのみ善いことを行い、かくて自分自身と世とのために隣人に対しては内的には無慈悲であり、憎悪と復讐の中におり、隣人が自分に与しない時はその危害を歓んでいる者は凡て巨大人の外にいるのである、なぜならこれらの者は地獄にいるからである。これらの者は身体の中のいかような器官にも肢体にも相応しないで、その中に起ってくる種々の腐敗と病気に相応している、そのことについてもまた私は主の神的慈悲の下に、以下の頁に経験から語ることにしよう

 

 

 

 

26.外的な良心を受けている者たちは他生で救われる

 

 

天界の秘義6207

 

 天使たちの流入は特に人間の良心へ注がれており、即ち、彼らの働きかける面が存在している。この面は人間の内部に在るのである。良心は二重になり、内的なものと外的なものになっている。内的な良心は霊的な善と真理のものであり、外的な良心は公正と公平のものである。現今この後の良心は多くの者のもとに存在しているが、内的な良心は僅かな者のもとにしか存在していないのである。にも拘らず外的な良心を受けている者たちは他生で救われるのである。なぜなら彼らは、もし善で真のものに反して、または公正で公平なものに反して行動するなら、内的に苦しみ、責められるが、それはそのようなことを為したため名誉、利得、または名声を失うからでなく、善と真理とに、または公正と公平とに反して行動したためであるといった性格を持っているからである。しかしこうした良心が存在しない所には、時として良心まがいの非常に低い性質のものが他にあって、それが人間に真で善いものを、公正で公平なものを、行うように仕向けはするが、それはそうしたものに対する愛からではなく、自己と自分自身の名誉と利益のためなのである。これらの人物もまた不利な事柄がかれらに降りかかると苦しみ、呵責を受けもするのであるが、しかしこの良心は自己への愛と世への愛に属していて、その中には神と隣人に対する愛に関係したものは何一つ存在していないため、良心ではなく、それでそれは他生では現れはしないのである。こうした種類の人間もまた、純粋な良心を持っている者のように、非常に目覚しい義務を遂行することが出来るのである。なぜなら外なる形では彼らも同じように行動するからであるが、しかしそれは彼ら自身の名誉と名声のためであり、それで彼らはそうしたものの損失を恐れるに応じて、益々良くその隣人と国家とのために公共の義務を遂行はするが、これに反し、こうしたものの損失を恐れない者はただ追放にのみふさわしい共同体の一員である。こうした似て非なる良心をもっている者は良心の何であるかを知ってさえもしておらず、その何であるかを他から告げられると、それを嘲笑し、それは愚鈍または精神錯乱の結果であると信じるのである。こうした事柄を言ったのは、流入の実情のいかようなものであるかを明らかにするためである。即ち、良心は天使たちがその内へ流れ入る面であり、実にその中の善と真理に対する、公正と公平に対する情愛へ流れ入り、そのようにしてその人間を拘束はするものの、それでも自由の中に拘束していることを明らかにするためである。

 

 

 

 

27.遺伝的な自然的な善を受けていても天界へ受け入れられない

 

 

天界の秘義6208

 

 遺伝的な自然的な善を受け、それによって他の者に善を為すことに歓喜を感じてはいるが、聖言、教会の教義から、または、宗教から、その何れからも善を為す原理には染み込んではいない多くの者がいるのである。かくて彼らは何ら良心を与えられることは出来なかったのである、なぜなら良心は自然的な、または遺伝的な善からは発しないで、真理と善との教義とそれに順応した生活から発するからである。こうした人物は他生へ入って来ると自分たちが天界へ受け入れられないことを怪しんで、自分たちは善良な生活を送ったと言うのである。しかし彼らは以下のように話されるのである。即ち、自然的な、または遺伝的なものから発している善良な生活は善良な生活ではなく、善良な生活は善と真理との教義に属しているものとそこから生まれる生活から発するのである、なぜならこうしたものにより人間は真で善いものに関わる原理を自分に印刻されて、良心を受け、それがその中へ天界が流れ入る面となるのである、と。こうした人物は、それが事実であることを知るために、色々な社会へ送られるが、その時、悪は善であり、善は悪であるという単なる理論とそこから生まれてくる信念とによって、凡ゆる種類の悪へ迷い込むままになり、凡ゆる方面でそのように説きつけられ、風の前の籾殻のように吹きまくられて行くのである。なぜなら彼らは原理を持っておらず、また天使たちに働き掛けられて、自分が悪から引き出される面を持っていないからである。

 

 

 

 

28.良心を持った者以外には誰一人再生することは出来ない

 

 

 

新しいエルサレムの教義184

 

「誰が再生するか」。

人間は信仰の諸真理と仁慈の諸善を教えられない限り、再生することは出来ない(677、679、711、8635、8638−8640、10729番)。単に真理の中にのみいて、善の中にいない者は再生することは出来ない(6567、8725番)。何人も仁慈の中にいない限り再生しない(989番)。良心を持った者以外には誰一人再生することは出来ない(2689、5470番)。凡ての者は、聖言から来ている教会の教義から発した信仰の諸真理により、主に対する愛の善と隣人に対する仁慈の善を受けるその能力に従って再生する(2967、2975番)。誰が再生することが出来、また誰が再生することが出来ないか(2689番)。信仰と仁慈との生活を送っているが、世で再生していない者たちは他生で再生する(989、2490番)。

 

 

 

天界の秘義5470

 

この状態については、主は絶えず人間のもとに善をもって、また真理と共に善の中に流れ入られているが、しかし人間は(それを)受けるか、受けないか、しており、もし彼が(それを)受けるなら、彼は幸になるが、もし受けないなら、不幸になるのである。もしが受け入れない時、(ここに『魂の苦しみ』により意味されている)多少の不安を感じるなら、彼は改良されるかもしれない希望はあるが、もし何ら不安の感情を持たないなら、その希望は消滅してしまうのである。

 

 

 

天界の秘義5470[2]

 

それで青年期における多くの者の常として、人間が自らを悪に近づける時、その者が悪いことを行ったことについて反省する時何らかの不安を感じるなら、それは彼は依然天界から天使たちを通して流入を受けるという印となり、またそれは彼が後になって自分自身が改良されることに甘んじるという印ともなるが、しかし彼が悪いことを為したことで反省する時、何ら不安な感情を持たないなら、それは彼が天界から天使たちを通して流入を最早受けようとはしないという印となり、また後になっても彼は自分自身が改良されることに甘んじないという印ともなるのである。それでヤコブの十人の息子たちにより表象されている外なる教会の諸真理が取り扱われているここには、ヨセフがその兄弟たちから遠ざけられた時、その陥った魂の苦しみが記されており、次にまたルベンが彼らを諌めたことが記されており、そのことにより、こうした状態が先行した時は、改良が、または内なるものが外なるものと連結することが後に起きることが意味されているのである(その連結については以下の頁に記そう)、なぜならその時不安になる者たちのもとには、悪の内なる承認[悪を内部で承認すること]が在り、それが主により呼び出されると、告白となり、遂には悔改めとなるからである。

 

 

 

 

29.おお! 人を眠らせたり眠らせなかったりするのは、ただただ、良心なのですよ!

 

 

良心の呵責

 

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/100・1/2卷P213

1945年2月7日

 

「寝る場所は、まだ不便な生活に慣れていないマタイに譲ります」とフィリポが言う。

 

「いいえ。年をとったあなたにそれはだめです。わたしが許しません。今までわたしは快適な寝床を使っていましたが、そこでの眠りはまるで地獄でした! 信じてください、今はたとえ砂利や石の上で寝ようと、羽毛の中にいるような安らかな眠りに落ちていきます。おお! 人を眠らせたり眠らせなかったりするのは、ただただ、良心なのですよ!」と、マタイは答える。

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P147

 

 イエズスの履き物を脱がせて足を洗い、サンダルにまた足を戻す前に、その裸足に口づけし、自分の首の上に載せて言う。

 

「こうさせてください。以前のザケオの残りかすを踏み潰してください」(中略)

 

「(前略)彼らの惨めな生活を理解するには、私はあまりにも多くの罪を犯しましたが、私もあなたが皆に与えてくださる喜びを、良心の呵責を感じないという喜びを、その人たちに与えたいのです。主よ、私のやり方はやり過ぎだったでしょうか?」

 

「いや、よくやりました、ザケオ。あなたは彼らが望む以上のことを与えました。私が人間に与えたいと思っているのは、あなたが想像する以上のものです。ゆるされて良心の呵責もなしにいられる喜びだけでなく、近いうちに天の国の民になるという喜びもです。私は、あなたがやっていることを知らなかったのではなく、険しいが光栄ある愛の道に進んでいるのを見守っていました。それは純粋な愛の徳だからです。あなたは御国のことばを理解したが、それを理解した人は少ない。多くの者は在来の考え方に縛られ、すでに自分は知識深い義人であると思い込んで生きています。あなたは心から過去を悔いて、空になったその心の中に、新しい未来、永遠を入れようと望み、そうしました。ザケオ、今までのようにやっていれば、あなたは主イエズスのよい税吏になるでしょう」と、イエズスは微笑みながら、ザケオの頭に手を置く。

 

 

 

 

30.サンダー・シング

 

 

徳間書店/林陽訳/サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P166

 

 

1.自分の中にある倫理的法則または感覚が良心である。良心は人間性の中に未発達なままでしか備わっていないため、教育し、訓練し、習慣づける必要がある。それが育つには環境も大きく作用する。美醜を見分ける審美眼が人に備わっているように、正邪弁別を助ける良心が人に備わっている。

 

 

2.体内のどこかが痛むというのは、危険を訴えかける声である。同じく、霊魂の痛みと動揺は罪の所産である。体内の触覚と同じく、良心は危険と破壊が切迫していることを警告し、救いに必要な行動をとるよう人を促す。

 

 

3.海岸近くを進む船舶は、灯台や岩、陸地の輪郭をみることによって位置を確認する。だが、海の中へと乗り出した船舶は、星々と羅針盤がなければ航海できない。同じく、神へと船出する霊魂の旅も、迷うことなく目的地に辿り着くためには、良心と聖霊がどうしても必要である。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P179

 

あるとき、メキシコ湾近くで一羽の鳥が捕獲され、千キロ彼方の地に運ばれた。鳥はかごに入れられ、自分が連れてこられた道すじも知らなかったが、やがて成長すると、誰にも教えられずに自分の捕獲された場所に戻ってきた。本能がそうさせたのである。それと同じく、神の御恵みによって良心が生かされている人間もまた、この仮の世界を去って、聖霊に導かれるまま天界にいたる。この永遠の故郷に入るために、人は創造されたのである。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書P422

 

砂糖の甘味は砂糖のためにあるのではなく、甘味のわかる人間のためにある。同じように、神は神のためばかりか、神との交わりを願う人のために存在する。多くの宗教的、哲学的作品に「実在(リアリティー)」についての記述がみえるが、神との交わりを楽しむ道は人間自身の中にある。神は神と交わりを保てるよう人を造られ、そのために、実在感と神を楽しむ能力をも人に与えているからである。

 

 このような霊的感覚が人間に与えられているという事実は、人間が神との交わりを楽しむことを意図されている証拠である。真偽、正邪の弁別をする試金石が人の中にあるのもそのためである。この良心は、人生の中で真偽を識別するために神がお与えになった試金石だが、罪によって感覚を奪われ働かなくなる場合もある。

 

 だが、神の御恵みよって覚醒すれば、決して欺かれることはない。そして、人が自分の中に実在の現存を実感するとき、その人が生きた力であることは日々の経験が証明する。彼が実在を経験しているという証拠をわたしたち自身が内に確かめていれば、何千という本が彼の霊的経験に反論し、この世の哲学とロジックの最たるものをもって攻撃してこようとも、その証拠を崩すことはできない。実在の知識はわれわれ自身の内的自己の中にあり、哲学的議論の中にはないからである。砂糖の甘味を識別する力は本の中にはなく、人間自身の舌の中にある。

 

 

 

サンダー・シング/聖なる導きインド永遠の書/P362

 

「これをせよ。これはしてはならない」という声が、ときどき心の奥底からきこえてくるが、これは神からの声である。神に近く生きる者はすすんでこの声をきくが、他の者はきくことにも困難を感じる。この声にきき従うなら、神とその意志はわれわれのなかなかに現わされる。だが、この声をきいて従わない場合は、われわれが現しているのは自我と我欲のみにすぎない。

 

 

 

 

31.信仰の諸善と諸真理との中にいて、そのことにより、良心と仁慈の生活を得た者は死後直ぐに天界へ挙げられる

 

 

天界の秘義1112

 

 しかしながら信仰の諸善と諸真理との中にいて、そのことにより、良心と仁慈の生活を得た者は死後直ぐに天界へ挙げられる。

 

 

 

 

32.良心の主要な〔第一次的な〕拘束は婚姻愛に基礎づけられている

 

 

霊界日記3794

 

 彼らはその妻たちを共有することとその唾棄すべき、醜悪な姦淫について前に話されたため、彼らは凡ゆる手段を弄してそれを合法的なものにしようと試み、為し得る限り、その秘かな方法で、そのことをやってのけ、またその下劣なことを良心の事柄ともして、その憎むべき姦淫の言い訳をしようとし、ときとして、彼らは妻であり、それで自分らは合法的に妻を処置することが出来ると仄めかし、さらに、それは契約〔約束ごと〕であり、結婚は契約により行われる、と言ってのけもした。しかし以下のことを暗示することが与えられた、即ち、良心の主要な拘束〔束縛〕は結婚のそれである、なぜなら人類の繁殖は地上の社会の、引いては、天界の社会の第一次的な苗床であるのみでなく、そこから凡ゆる結合体はその起源を得ており、また以下のことも充分明らかであるからである、即ち、婚姻愛は凡ゆる愛の、引いては結合の原理である。

 

 

 

霊界日記3795

 

 なぜなら地上の血縁関係と親族関係とは結婚からその起源を得ており、そこから両親、子供、兄弟、姉妹、親類、親戚は遠いにしろ近いにしろ、その名称を受けており、そのことは天界でも同様であり、そこでは天界と教会とに対する主の愛は結婚に譬えられ、そこから婚姻愛〔結婚愛〕は根元的な原理であり、またそこから凡ゆる愛はその起源を得、派生しており、同じように派生している愛である血縁関係と親族関係を形作っているからである。ここから今や良心の主要な〔第一次的な〕拘束は婚姻愛に基礎づけられていることが明らかである。

 

 

 

 

33.『天界と地獄』 注より

 

 

天界と地獄299注5

 

 良心を持たない者は良心の何であるかを知らない、7490、9121。良心とは何であるかを聞いて、それを嘲笑する者がいる、7217。良心は無意味なものであると信じている者もあり、それは悲しい、嘆かわしい自然的なものであって、身体内の原因からが、世の中の原因からか起るものであると信じている者もおり、それは一般大衆に特有な宗教的迷信から起るものであると信じている者もいる206、831、950、〔真の基督教、665〕。真の良心、似而非良心、誤った良心がある、1033。良心の苦痛は、人間が神に反し、隣人に反していると信じているところの、不正な、不誠実な、また何らかの点で悪いもののために起きる心の不安である、7217。神に対する愛と隣人に対する仁慈にいる者たちは良心を持っているが、それにいない者は良心を持たない、831、965、2380、7490。

 

 

 

良心とは何であるかを聞いて、それを嘲笑する者がいる、7217。

試練45.霊的な者の心労

に記載。

 

 

 

 

34.聖い恐れ

 

 

天界の秘義986

 

 再生以前の人間の状態は外なる人に属して幾多の欲念と幾多の誤謬が絶えず支配していて、そこから争闘が生まれるが、しかし再生後は内なる人が外なる人を、即ち、その幾多の欲念と幾多の誤謬とを支配し、かくてその人間は悪を恐れ、誤謬におののくのであり、その何れも良心に反していて、良心に反して行動することに彼は恐怖の念を覚えるのである。しかしながら悪を恐れ、誤謬におののくものは内なる人ではなくて、外なる人である。

 

 

 

天界の秘義6997

 

 聖言にそのように言われているのは(エホバの怒り)、彼らが神を恐れることを知って、彼ら自身が行う悪により滅びないためであり、後になって神を愛するためである。なぜなら愛の中に聖い恐れが存在するためには、恐れが愛に先行しなくてはならないからである。なぜなら恐れが愛の中に注がれると、それは愛の聖いものから聖いものとなって、その時はそれは主が怒られ、罰せられるのを恐れる恐れではなくなり、自分たちが善そのものに反したことを行いはしないかとの恐れとなるからである。それはそのことが良心を苦しめるためである。人間はその感覚的なものから見、また把握するものは信じるが、その感覚的なものから見ないし、また把握もしないものは信じないし、かくて受け入れはしないといったものであるという理由によっている。 

 

 

 

天界の秘義7280

 

誤謬の中にいて、とりついて悩ます者らが抱くところの神的なものに対する恐怖については、恐怖こそ奈落の者らを抑制し、拘束しておく只一つの方法であることを知られたい。なぜなら恐怖は正しい者をも、悪い者をも共通に拘束するものであるからであるが、しかし正しい者に対してはその恐怖は内なるものであって、救いのための恐怖であり、即ち、彼らは己が魂が亡びはしないかと恐れるのであり、かくて自分たちは良心に反したことを、即ち、良心に属した真理と善とに反したことを何か為しはしないかと恐れるのであり、従って公正で公平なことに反したことを、かくて隣人に反したことを何か為しはしないかと恐れるのである、しかしこれは仁慈の情愛と連結している限り、聖い恐怖であり、まして主に対する情愛に連結している時は、聖い恐怖である。それで恐怖は小さな子供たちがその愛している両親に対して抱くその恐怖のようなものとなるのである。それで彼らは愛の善にいるに応じて、その恐怖は現れてはこないが、しかし善の中にいないに応じて、恐怖は現れ、不安となるのである。そうしたものが聖言に再三語られている『神を恐れる恐怖』である。

 

 

 

天界の秘義7280〔2〕     

 

 しかし悪い者にあっては内なる恐怖は存在しない、即ち、救いのための、引いては、良心のための恐れは存在しない、なぜならこうした恐れは彼らは世ではその生活によっても、またその生活を支持する誤った原理によっても、全く斥けてしまったからであるが、しかし内なる恐怖に代って外なる恐怖を持っており、即ち、名誉を、利得を、またはそうしたものを得るための名声を奪われはしないかとの、法律に従って罰せられ、または生命を奪われはしないかとの恐れを持っているのである。こうしたものが悪の中にいる人間から、その者が世にいる間に恐れられるものである。こうした人間は他生に入ってくると、内なる恐怖により抑制され、拘束されることは出来ないため、刑罰により彼らに印象づけられている外なる恐怖により抑制され、また拘束されもするのである。そこから彼らは悪を為すことを恐れ、最後には神的なもの〔神〕を恐れはするが、しかしそれは、前に言ったように、外なる恐れであって、善の情愛から悪を為すことを断念しようとする願望を全く缺いていて、ただ刑罰に対する恐怖のみから来ており、遂には彼らはその刑罰に戦慄を感じるようになるのである。

 

 

 

黙示録講解195(2)

 

従って彼らは信仰を、神を恐れる心を、良心を持っており、また真理に対する霊的な情愛を持っており、その情愛は聖言から発した真理と善とにかかわる知識に対する情愛である、なぜならこうした人間にはその知識は神の律法であり、それに従って彼らは生きるからである。異教徒の多くの者たちはそうした道徳的な生活を送っているのである、なぜなら彼らは、悪はその宗教に反しているため、それは行ってはならない、と考えるからであり、そのことが彼らの極めて多くの者が救われる理由である。

 

 

 

 

35.秩序の法則

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスに出会った人々3・P90

 

商売をする場合、正義を守りなさい。何かを売る時、“もっとたくさんもうけるために盗みなさい”と貪欲がそそのかすが“だまされるのが自分だったら悲しいと考え、あなたも正しい人でありなさい”という良心の声だけに耳を傾けなさい。自分がしてほしくないことを他人にするのはいけないということを忘れてはなりません。

 

 

 

 

36.悪の中にいる者は凡て何ら良心を持ってはいない

 

 

天界の秘義5071 []

 

『永遠の火』は自然的な火でないことは明白である。それは良心の呵責でないことは悪の中にいる者は凡て何ら良心を持ってはおらず、身体の生命の中で何ら良心を持っていない者は他生でも全くそれを持つことが出来ないからである。しかしそれが欲念であることは、生命の火は凡て人間の愛から発しているためである、即ち、天界の火は善と真理の愛から発し、奈落の火は悪と誤謬の愛から発し、またはそれと同一のことではあるが、天界の火は主に対する愛と隣人に対する仁慈から発し、奈落の火は自己への愛と世への愛から発しているためである。人間の中の火または熱はすべてこの源泉から発していることは、たれでも、もしその事に注意を払うなら、知ることが出来よう。愛が霊的な熱と呼ばれ、聖言の『火』と『熱』によりそれ以外のものは何ら意味されていないことはまたそうした理由によっている(934イ、1297,1527,1528,1861,2446,4906番)。悪い者の生命の火は、彼らがその激しい欲念の中にいる時は、また一種の火の中にいるといったものであり、そこから彼らは他の者を責め苛む激情と狂熱の中にいるが、善良な者の生命の火は、彼らもまた、高度の情熱の中にいる時は、一種の火の中にいるようなものであるが、しかし彼らはそこから他の者を益しようとする愛と情熱の中にいるのである。

 

 

 

天界の秘義7490

 

 以下のこともまた明白である、即ち、人間は自己と世への愛の中にいるに応じて、仁慈の何であるかを知らないし、遂にはそれが存在することも知らなくなり、またその人間は信仰の何であるかを知らないし、遂にはそれが何か意味のあるものであることも知らなくなり、またその人間は良心の何であるかを知らないし、遂にはそれが存在することも知らなくなり、否、その人間は霊的なものの何であるかを知らないし、天界の生命の何であるかも知らないし、遂には天界と地獄の存在することを信じないし、従って死後生命の在ることも信じないのである。こうしたことは自己と世への愛が(人間を)支配するとき、その愛から生まれてくるのである。

 

 

 

 

37.霊魂は善悪を見分ける良心を持っている

 

 

高間友の会/シスター・エマニエル/マリア・シンマとのインタビュー 煉獄に居る霊魂の驚くべき秘訣/P39

 

今日では多くの人が生まれ変わることを信じていますが、霊魂たちはそれについてどういうことを話しますか。

 

 霊魂たちは神は一つの生命だけを与えるのだと言っています。

 

しかし、一つの生命では神を知るためにも、本当に回心する時を持つためにも足りないので不公平だと言う人もいます。あなただったらどう返答なさいますか。

 

 すべての人は内面的な信仰(良心)を持っています。たとえ彼らが心がけなくても彼らはそれとなく絶対的な神を認識しているのです。信じない人、そんな人はいないのですよ! 各々の霊魂は善悪を見分ける良心を持っています。神から与えられた良心、つまり内面的な知識というものをね。もちろん、程度の違いはあっても、めいめい善悪を見分ける方法を知っているのです。この良心によって一人一人が幸せを得ることが出来るのです。

 

 

 

 

38.神を否定するならその良心を受けない

 

 

天界と地獄577

 

 そして主は人間を、その人間が神的なもの[神]を承認しない限り、また信仰と仁慈との生活を送らない限り、守られることは出来ない、なぜならもしそうでないなら人間は主から離反して奈落の霊に向き、かくてその霊は同じような邪悪に浸されるからである。しかも人間はそうした悪霊らと交わって自分自身に用い、またいわば引きつけている悪から、絶えず主により引き出されているのである。もし彼は内なる良心の束縛によって引き出されないにしてもー彼は神を否定するならその良心を受けないのであるがー法律とその刑罰を恐れ、利得を失いはしないか、名誉と名声とを失いはしないかと恐れる外なる束縛により絶えず引き出されている。こうした人間はその愛の楽しさにより、またその楽しさを失ったり、奪われたりはしないかとの恐れにより、実際悪から引き出されてはいるものの、霊的善の中へは入れられることは出来ない、なぜなら彼はその善へ入れられるや否や、他の者を説きつけて、欺こうという目的から、善い、誠実な、公正なものの外観と偽装をつけることによって、狡猾と詐欺とを思いめぐらし、この狡猾はその霊の悪にそれ自身を接合させ、それに形を与え、その悪をそれ自身と同じ性質のものとするからである。

 

 

 

 

39.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズスの受難P294

 

“罪を犯した人はすべてにおいて恐れの幻を見る”それをつくり出すのは良心である。サタンは心に後悔を起こし得るそういう幻を、落胆と絶望にすりかえる。絶望が最後の犯罪である自殺へと導くのである。

 

 

 

マリア・ヴァルトルタ/私に啓示された福音/9卷上P223/569・3−4

 

もしも与えられた助言の善意に疑問を疑問を持ったら、受け入れて実行に移す前に、よく考えなさい。いと高き方に願いながら黙想しなさい。は、善意の霊魂にを拒むことはありません。そして、あなたの良心がに照らされて、ほんの僅かな汚点、正義の行いにあり得ないものを見つけたら、『純粋な正義ではないから、しません』と言いなさい。

 おお! はっきり言います。自分の知性と意志を善く用い、物事の中に真実を見せてくださいとに懇願する人は、誘惑によって滅ぼされることはありません。なぜなら、におられるは、その人が世間やサタンの罠に負けずに善を行えるよう、助けてくださるからです。

 

 

 

天使館/渡邊義愛訳/マリア・ヴァルトルタ「手記」抜粋/(『地球上の神の国』と改題)P38
‘44年1月17日


家族、子供たち、清廉な裕福、穏やかに栄える祖国と、兄弟たちとの国々との好ましい調和。こういったものをわたしは聖なるものと呼び、祝福する。それらによってあなたたちは健康をも享受する。なぜなら誠実に生きられる家庭生活は肉体に健康を与えるからだ。それらによってあなたたちは心の平静を得る。なぜなら誠実に行われた取引や職業は良心の安らぎを与えるからだ。それらによってあなたたちは祖国と国々の平和と繁栄を得る。なぜなら同胞や隣国の人々と好ましい調和のうちに生きることによって、あなたたちは怨恨と戦争を避けるからだ。

 

 

 

 

40.デボラ

 

 

デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P16

 

 完徳を熱望しなければならない。それは、霊魂の本質的願いだからである。あなた達のその良い意志の中に、非常な力が包含されているからである。あなた達は神の似姿である、と記されている。それは、あなた達の良心の中には、自分の状態の様々な段階を識別させることのできる目がある、ということを意味する。

 

 

 

 

41.公正から公平を行い、義から義を行う者は良心を持っている

 

 

神の愛と知恵361

 

また公正から公平を行い、義から義を行う者は良心を持っていることもまた知られていないか。

 

 

 

 

42.現今のキリスト教徒は殆ど宗教を欠如している

 

 

霊界日記5855

 

私はしばしば、他生にいる者らについて、彼らは良心とは何であるかを知らず、かくて千人の中殆ど一人さえもそのことを知ってはいないことを認めもし、聞きもしたのである。天使たちはそうした無知が何処から発しているのか、と怪しんだが、しかしその理由が明らかにされたのである、即ち、教会の人間は、善を、引いては、業を無意味なものとしており、そうしたものを無意味なものとしている者は決して良心とは何であるかを知ることは出来ないのである、なぜなら良心は、人が神の戒めに反したことを行ったために、また人がその戒めに反したことを考えたために悲しむことであるからである。このことから現今のキリスト教徒の性質が明らかであり、それは殆ど宗教を欠如しているのである、なぜなら宗教を持ち、神的な事柄を愛する者は良心を持っているからである、なぜなら彼は、もし彼が何か神的なものに反したことを考え、意図したとするなら、ましてや、そうしたことを行ったとするなら、苦痛を経験するからである。

生命を目的としない者は、信仰のみを目的としているため、良心とは何であるかを決して知りはしない、彼は良心とは何であるかを尋ねはするが、それでも把握はしない、なぜなら彼は、善い業は救いには何ら貢献はしない、と信じているからであるが、それでもそうしたものは生命のものであり、信仰の知識は、信じられていると考えられてはいるものの、もしそれがそれを意志し[欲し]行うことにより生命に植え付けられていないなら、単に記憶の中に在るに過ぎないのである。

 

 

 

 

43.悪が他の者に降り掛かる時に感じられる歓び

 

 

天界の秘義4317[5]

 

それは悪を意志して、そこからそれを考えることに在り、遺伝悪は意志そのものの中にそこから派生している思考の中にあり、内に存在しているところのコナトスまたは努力そのものであり、それはその人間が善いことを為している時でさえもそれ自身を接合させているのである。それは悪が他の者に降り掛かる時に感じられる歓びにより、知られている。この根は深く隠されている。なぜなら天から(即ち、主から天界を通して)善い真のものを受ける内なる形そのものは腐敗しており、いわば、歪められており、そのため善と真理とが主から流れ入ると、それらは跳ね返されるか、歪められるか、または窒息させられるかするからである。現今では善と真理の認識[善と真理を認識すること]は全く存在しないで、代って、再生した者のもとには、両親や教師から学ばれるものを善い真のものとして承認する良心が存在しているのは、そうした原因から発しているのである。

 

 

 

 

44.真理とそこから派生する善に関わる諸々の知識に根底づけられた良心を主から徐々に注ぎ込まれることによって行われる

 

 

天界の秘義310

 

洪水以後の人々やまた現今の人々のように、天的な種を持たないで、単に霊的な種のみを持っている者は異なっている。これらの者の中には愛は無く、従って善の意志も無いが、しかしなお信仰の可能性が在り、または真理の理解が在り、これにより彼らはある程度の仁慈へ連れてこられることが出来るが、しかしそれは異なった方法によっているのである、即ち、真理とそこから派生する善に関わる諸々の知識に根底づけられた良心を主から徐々に注ぎ込まれることによって行われるのである。それ故彼らの状態は洪水以前の人々のそれとは全く異なっており、その状態については主の神的慈悲の下に後に述べよう。これらは現在の時代の人々は全然知られていないアルカナである、なぜなら現今では何人も天的な人の何であるかを知らないし、また霊的な人の何であるかさえも知っておらず、ましてやそこから生まれてくる人間の心と生命の特質の何であるかを、またそこから生まれてくる死後の状態のいかようなものであるかを知ってはいないからである。

 

 

 

 

45.異教徒が救われる理由

 

 

黙示録講解195(2)

 

従って彼らは信仰を、神を恐れる心を、良心を持っており、また真理に対する霊的な情愛を持っており、その情愛は聖言から発した真理と善とにかかわる知識に対する情愛である、なぜならこうした人間にはその知識は神の律法であり、それに従って彼らは生きるからである。異教徒の多くの者たちはそうした道徳的な生活を送っているのである、なぜなら彼らは、悪はその宗教に反しているため、それは行ってはならない、と考えるからであり、そのことが彼らの極めて多くの者が救われる理由である。

 

 

 

 

46,その他

 

天界の秘義1098

 

「『セム』(創世記9・18−27)により何が意味されているか、また『ヤペテ』により、何が意味されているか、すなわち、内なる教会の人間とはたれであるか、また外なる教会の人間とはたれであるか、引いては『カナン』により何が意味されているかは以下のことを考察するとき、そこから明白となるであろう。内なる教会の人間はその行う善をことごとく、またその考える真理をことごとく主に帰しているが、しかし外なる教会の人間はそれを行う方法を知ってはいないものの、それでも善いことは行っているのである。

 

内なる教会の人間は仁慈から主を拝することを、かくて内なる礼拝を本質的なものとしているが、外なる礼拝をさほど本質的なものにはしていない。しかし外なる教会の人間は外なる礼拝を本質的なものにしていて、内なる礼拝を持ってはいるが、その何であるかを知ってはいない。それゆえ内なる教会の人間は内なるものから主を拝しないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じるが、他方外なる教会の人間は外なる儀式を聖く守らないならば、自分は自分の良心に反して行動していると信じている。

 

内なる教会の人間は聖言の内意から多くのことを知っているため、その良心には多くの物が存在しているが、外なる人は聖言の内意からは僅かなことしか知っていないため、その良心には僅かな事柄しか存在していない。前の者は、すなわち内なる教会の人間は『セム』と呼ばれる者であり、後の者は、すなわち外なる教会の人間は『ヤペテ』と呼ばれる者である。しかし礼拝を外なる物のみから成立させて、仁慈を持っておらず、従って良心を持っていない者は『カナン』とよばれている。」