聖い恐れ
宗教教育/
1.聖書
2.聖い恐れ・・スウェーデンボルグ
3.ヴァッスーラ
4.ルイザ・ピッカレータ
5.アグレダのマリア
6.トマス・ア・ケンピス
7.マリア・ワルトルタ
8.マザー・テレサ
9.デボラ
10.それは恐れではなく愛
1.聖書
詩篇14・1−2
神を知らぬ者は心に言う
「神などいない」と。
人々は腐敗している。
忌むべき行いをする。
善を行う人はいない。
主は天から人の子らを見渡し、探される
目覚めた人、神を求める人はいないか、と。
詩篇25・12−14
主を畏れる人は誰か。
主はその人を選ぶべき道を示されるであろう。
その人は恵みに満たされて宿り
子孫は地を継ぐであろう。
主を畏れる人に
主は契約の奥義を悟らせてくださる。
詩篇34・8
主の使いはその周りに陣を敷き
主を畏れる人を守り助けてくださった。
詩篇103・13
父がその子を憐れむように
主は主を畏れる人を憐れんでくださる。
詩篇111・9−10
主は御自分の民に贖いを送り
契約をとこしえのものと定められた。
御名は畏れ敬うべき聖なる御名。
主を畏れることは知恵の初め。
これを行う人はすぐれた思慮を得る。
主の賛美は永遠に続く。
詩篇112・1
ハレルヤ。
いかに幸いなことか
主を畏れる人
主の戒めを深く愛する人は。
詩篇119・63
あなたを畏れる人、あなたの命令を守る人
わたしはこのような人の友となります。
詩篇119・78−79
わたしを偽りによって迷わせた傲慢な者が恥に落とされますように。
わたしはあなたの命令に心を砕きます。
あなたを畏れる人、あなたの定めを知る人がわたしのもとに立ち帰りますように。
詩篇128・1−4
いかに幸いなことか 主を畏れ、主の道に歩む人よ。
あなたの手が労して得たものはすべて あなたの食べ物となる。
あなたはいかに幸いなことか いかに恵まれていることか。
妻は家の奥にいて、豊かな房をつけるぶどうの木。
食卓を囲む子らは、オリーブの若木。
見よ、主を畏れる人はこのように祝福される。
詩篇147・10−11
主は馬の勇ましさを喜ばれるのでもなく 人の足の速さを望まれるのでもない。
主が望まれるのは主を畏れる人 主の慈しみを待ち望む人。
箴言1・7
主を畏れることは知恵の初め。
無知な者は知恵をも諭しをも侮る。
箴言2・1−5
父の諭し(2)
わが子よ わたしの言葉を受け入れ、戒めを大切にして 知恵に耳を傾け、英知に心を向けるなら
分別に呼びかけ、英知に向かって声をあげるなら 銀を求めるようにそれを尋ね 宝物を求めるようにそれを探すなら
あなたは主を畏れることを悟り 神を知ることに到達するであろう。
箴言8・12−13
わたしは知恵。熟慮と共に住まい 知識と慎重さを備えている。主を畏れることは、悪を憎むこと。
傲慢、驕り、悪の道 暴言をはく口を、わたしは憎む。
箴言9・10
主を畏れることは知恵の初め
聖なる方を知ることは分別の初め。
イザヤ書8・11−13
主は御手をもってわたしをとらえ、この民の行く道を行かないように戒めて言われた。
あなたたちはこの民が同盟と呼ぶものを何一つ同盟と呼んではならない。
彼らが恐れるものを、恐れてはならない。
その前におののいてはならない。
万軍の主をのみ、聖なる方とせよ。
あなたたちが畏るべき方は主。
御前におののくべき方は主。
イザヤ66・1−2
主はこう言われる。
天はわたしの王座、地はわが足台。
あなたたちはどこに
わたしのために神殿を建てうるか。
何がわたしの安息の場となりうるか。
これらはすべて、わたしの手が造り
これらはすべて、それゆえに存在すると
主は言われる。
わたしが顧みるのは
苦しむ人、霊の砕かれた人
わたしの言葉におののく人。
ローマ3・18
彼らの目には神への畏れがない。
2.聖い恐れ
天界の秘義986
再生以前の人間の状態は外なる人に属して幾多の欲念と幾多の誤謬が絶えず支配していて、そこから争闘が生まれるが、しかし再生後は内なる人が外なる人を、即ち、その幾多の欲念と幾多の誤謬とを支配し、かくてその人間は悪を恐れ、誤謬におののくのであり、その何れも良心に反していて、良心に反して行動することに彼は恐怖の念を覚えるのである。しかしながら悪を恐れ、誤謬におののくものは内なる人ではなくて、外なる人である。
天界の秘義1740[3]
そして悪と誤謬とが消散されるにつれ、善と真理とがそれにとって代わり、悪と誤謬に対して抱かれる恐怖が大きなものであればあるほど、善と真理とに対する愛が益々多く主により注ぎ込まれるのである。さらに、悪と誤謬とに対する恐怖が大きなものであればあるほど、悪霊どもは敢えて近づかなくなるのである、なぜなら彼らはその生命を成立させている悪と誤謬に対する嫌忌と恐怖に堪えることが出来ないで、ときとしてはそれらが近づいてくるのみで恐怖に襲われるからである。善と真理に対する愛が多ければ多いほど、天使たちはその人間と共になることを愛し、また天使たち共に、天界もその人間と共になることを愛するのである、なぜなら彼らは愛の幾多の善と信仰の幾多の真理の中にいるとき、彼ら自身の生命の中にいるからである。
天界の秘義2826
聖言に『神を恐れること』は何を意味しているかは、非常に多くの記事から、それらがその内意の方面で理解される時認めることが出来よう。そこの『神を恐れる恐れ』は礼拝を意味しており、実に恐怖か、信仰の善か、または愛の善かその何れかから発している礼拝を意味しており、再生していない者が取り扱われている時は、恐怖から発した礼拝を、霊的な再生した者が取り扱われている時は、信仰の善から発している礼拝を、天的な再生した者が取り扱われている時は、愛の善から発した礼拝を意味しているのである。
天界の秘義2826[2]
『神を恐れる恐れ』が全般的に礼拝を意味していることは、列王記に明らかである―
イスラエルの子孫は他の神々を恐れ、諸国民の教令の下に歩んだ。サマリアに送られた諸国民は始めエホバを恐れなかった。それでエホバは彼らの間に獅子を送られた。彼らがサマリアから連れ去った祭司の一人が来て、ベテルに住み彼らに如何にしてエホバを恐るべきかを教えた。エホバはイスラエルの子孫と契約を立てて、彼らに命じられた、あなたらは他の神々を恐れてはならない、また彼らに身をかがめてもならない、また彼らに仕えてもならない、また彼らに生贄を捧げてもならない。あなたたちはエホバを恐れ、かれに身をかがめて、かれに生贄を捧げなくてはならない(列王記17・7、8、24、25、28、32、33、35−37、41)。
ここでは『恐れること』は明らかに礼拝することを意味している。
天界の秘義2826[13]
聖言から引用したその記事から、『神を恐れる恐れ』は、恐怖か、信仰の善か、愛の善か、その何れかから発してくる礼拝であることが明白である。しかし礼拝に恐怖が多くあればある程、信仰は少なくなり、ましてや愛は少なくなっているが、他方礼拝に信仰が多くあればあるほど、特に愛が多くあればある程、恐怖が少なくなっている。実際礼拝のすべてには恐怖が在るが、しかしその外観と状態とは異なっていて、これは聖い恐れである。しかし聖い恐れは地獄を、また堕地獄を恐れる恐れであるよりは、主に反抗し、隣人に反抗し、引いては愛の善と信仰の真理とに反抗して何かを行ってはいないか、または考えてはいないかと恐れる恐れである。それは反感であり、一方の側では愛の聖いものと信仰の聖いものとの境界となっており、それは前に言ったように、地獄を、堕地獄を恐れる恐れではないため、信仰の善の中にいる者たちはそれを持ってはいるが、しかし愛の善の中にいる者たちは、即ち、主の中にいる者たちは、それをそれ程には持っていないのである。
天界の秘義3718
全般的に言って、恐れには二種類のものがある。即ち神聖でないものにおける恐れと神聖なものにおける恐れである。神聖でないものにおける恐れは邪悪な者がその中にいる恐れであるが、神聖なものにおける恐れは善良な者がその中にいる恐れである。この後の恐れは即ち善良な者たちがその中にいる恐れは敬虔なまたは神聖な恐れと呼ばれて、神的なものに対する私たちの驚異と渇望の結果であり、また私たちの愛の結果である。敬虔なまたは神聖な恐れを欠いた愛はいわば風味を欠いており、または塩で味つけされていない食物のようであり、従って味気ないものであるが、しかし恐れを伴った愛は味つけされてはいるが、塩味のない食物のようなものである。
愛の恐れは主を何らかの点で害いはしないか、または隣人を何らかの点で害いはしないか、かくて善い真のものを何らかの点で害いはしないか、従って愛と信仰の神聖なものを、またそこから生まれてくる礼拝を害いはしないかとの恐れである。しかしこの恐れには種々のものがあって、人により異なっているのである。全般的に言って、善と真理の愛の量が大きくなるに応じて益々善と真理とを害いはしないかとの恐れが大きくなっており、しかもそれと同じ釣合いでこの恐れは恐れであるようには見えなくなっているが、それに反し善と真理との愛の量が少なくなるに応じて、益々善と真理のために恐れる思いが少なくなり、また益々その恐れは愛であるようには見えなくなって、恐れのように見えてくるのであり、そこからこのような者のもとには地獄の恐怖が生まれてくるのである。善と真理との愛が何ら存在しない時は、敬虔なまたは神聖な恐れは何ら存在しないのであり、単に名誉を、利得を失いはしないか、それらのもののために世評を失いはしないか、また刑罰を受けはしないか、死にはしないかとの恐れに過ぎないのであり、この恐れは外なるものであって、主として身体と自然的な人とその思いとに影響しているが、それに反し前の恐れは、即ち敬虔なまたは神聖な恐れは主として霊に、即ち、内なる人とその良心とに影響しているのである。
天界の秘義5949[4]
この凡てから神を絶えず眼前に仰がなくてはならないということは如何ように理解されなくてはならないかが明白である。即ち、それは神を絶えず考えなくてはならないということではなくて、神に対する恐れ、または愛が遍く支配しなくてはならぬということであり、そうした場合神は凡ゆる細々とした事柄の中においても眼前に仰がれているのである。こうした場合、その人間は神に反抗し、神の心を痛めることを考えはしないし、語りはしないし、行いはしないのであり、もしそうしたことを行なうなら、遍く支配して、内に隠れているものが、現れてきて、彼を戒めるのである。
天界の秘義6071[5]
同じく以下の真理を導入されたい、即ち、神礼拝は凡て、神は善い者に報い、悪い者を罰しられるという思いのこもった聖い恐れから必ず始まらなくてはならない。単純な者と小さな子供たちは、また許しとは何であるかを悟らないため―実に『むしろ地獄で身体も霊魂も滅ぼすことの出来る者を恐れよ』(マタイ10・28)という主の御言葉に従って、そのことを信じなくてはならないのである。そして彼らが恐れを通して敢えて悪を為さないことにより(信仰生活を)始める時、徐々に善と共に愛が導入され、かくて彼らは善以外には何ものも神から発しないし、悪は彼ら自身から発していることを知り、認め、最後には悪は凡て地獄から発していることを知り、認め始めるのである。
天界の秘義6997
聖言にそのように言われているのは(エホバの怒り)、彼らが神を恐れることを知って、彼ら自身が行う悪により滅びないためであり、後になって神を愛するためである。なぜなら愛の中に聖い恐れが存在するためには、恐れが愛に先行しなくてはならないからである。なぜなら恐れが愛の中に注がれると、それは愛の聖いものから聖いものとなって、その時はそれは主が怒られ、罰せられるのを恐れる恐れではなくなり、自分たちが善そのものに反したことを行いはしないかとの恐れとなるからである。それはそのことが良心を苦しめるためである。人間はその感覚的なものから見、また把握するものは信じるが、その感覚的なものから見ないし、また把握もしないものは信じないし、かくて受け入れはしないといったものであるという理由によっている。
天界の秘義7280
誤謬の中にいて、とりついて悩ます者らが抱くところの神的なものに対する恐怖については、恐怖こそ奈落の者らを抑制し、拘束しておく只一つの方法であることを知られたい。なぜなら恐怖は正しい者をも、悪い者をも共通に拘束するものであるからであるが、しかし正しい者に対してはその恐怖は内なるものであって、救いのための恐怖であり、即ち、彼らは己が魂が亡びはしないかと恐れるのであり、かくて自分たちは良心に反したことを、即ち、良心に属した真理と善とに反したことを何か為しはしないかと恐れるのであり、従って公正で公平なことに反したことを、かくて隣人に反したことを何か為しはしないかと恐れるのである、しかしこれは仁慈の情愛と連結している限り、聖い恐怖であり、まして主に対する情愛に連結している時は、聖い恐怖である。それで恐怖は小さな子供たちがその愛している両親に対して抱くその恐怖のようなものとなるのである。それで彼らは愛の善にいるに応じて、その恐怖は現れてはこないが、しかし善の中にいないに応じて、恐怖は現れ、不安となるのである。そうしたものが聖言に再三語られている『神を恐れる恐怖』である。
天界の秘義7280〔2〕
しかし悪い者にあっては内なる恐怖は存在しない、即ち、救いのための、引いては、良心のための恐れは存在しない、なぜならこうした恐れは彼らは世ではその生活によっても、またその生活を支持する誤った原理によっても、全く斥けてしまったからであるが、しかし内なる恐怖に代って外なる恐怖を持っており、即ち、名誉を、利得を、またはそうしたものを得るための名声を奪われはしないかとの、法律に従って罰せられ、または生命を奪われはしないかとの恐れを持っているのである。こうしたものが悪の中にいる人間から、その者が世にいる間に恐れられるものである。こうした人間は他生に入ってくると、内なる恐怖により抑制され、拘束されることは出来ないため、刑罰により彼らに印象づけられている外なる恐怖により抑制され、また拘束されもするのである。そこから彼らは悪を為すことを恐れ、最後には神的なもの〔神〕を恐れはするが、しかしそれは、前に言ったように、外なる恐れであって、善の情愛から悪を為すことを断念しようとする願望を全く缺いていて、ただ刑罰に対する恐怖のみから来ており、遂には彼らはその刑罰に戦慄を感じるようになるのである。
天界の秘義7280〔3〕
この凡てから、恐怖は拘束する唯一の手段であり、刑罰に対する恐怖である外なる恐怖は悪い者を抑制するただ一つの手段であり、これが地獄の悪い者らを苛責する原因であることが今や認められることが出来よう。なぜなら悪い者は他生に入ってくると、また世で持っていたその外なる拘束を取り去られて、その欲念〔の自由〕に委ねられると、その時は彼らは野獣のようになり、主権を得ることと、自分を支持しない者をすべて破滅させることにまさって何一つ求めはしないからである。これが彼らの生命の最大の歓喜である、なぜならたれであれ、自分自身を愛するに応じて、自分を支持しない者を憎み、(他を)憎むに応じて、(これを)破滅させる歓喜を覚えるからである、しかし世ではこのことは隠れている。
天界の秘義8925
従って『彼らの顔の前の神を恐れる思い』は、彼らの内部における神的なものに対する聖い恐怖であり、『あなたたちが罪を犯さないために』の意義は霊的な生命が維持されることである、なぜなら霊的な生命は罪を犯さないことにより維持されるからである。罪を犯すことは計画的に、また意志から悪い誤ったことを行い、考えることである、なぜなら計画的に、意志から行われる事柄は心から出てきて人間を汚すものであり(マタイ15・11、17−19)、従って人間の霊的な生命を破壊するものであるからである(8910番)。聖言に『神を恐れる思い』により意味されている聖い恐怖については、その恐怖は愛であるが、しかしそれは両親に対する小さな子供たちの、子供に対する両親の、配偶者に相互に対する愛のような愛であることを知られたい―彼らは(他の者の)心を痛め、かくて何らかの点で愛を害うことを何なりと行うことを恐れているのである。こうした恐れは愛と一致しており、愛の中に在り得るのであり、事実、愛の中に在って、愛と結合しているため、そうした理由から聖い恐れと呼ばれ、罪を犯すことを、または戒めに反したことを、かくて主に反したことを行うことを恐れる恐れである。しかしこの恐れは各人のもとでその愛の性質と量とに従って異なっているのである(2826、3718、3719、5459、7280、7788番にそのことについて言われていることを参照されたい。)
霊的な生命・神の聖言−遺稿―(黙示録講解からの抜粋)P106
人間が一つの戒めを犯して、それは罪ではないと自分に納得させ、かくて神を恐れないで戒めに背く時は、彼はそのようにして神を恐れる思いを斥けてしまったため、彼は他の戒めを犯すことを、例えそのことを実際に行わないにしても、恐れはしないのである。(中略)なぜなら彼は何か一つの戒めにおいて神を恐れる思いをその心から斥ける時は、彼は何かが罪であることを斥けるのであり、従って彼は、彼と同じように他の戒めを犯す者らと親しくその精神では共に交わるからである。(黙示録講解1028番)。
3.ヴァッスーラ
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/2巻P116
‘88・1・25
ヴァッスーラ、あなたを私の聖心のうちに隠す、あなたは私にとって貴重な者、あなたの神 私はあなたを大切に思っている、決して忘れないように、私は愛、限りなく優しい父、私に歯向かう時にだけ恐れなさい、ああ ヴァッスーラ、私の神秘は数多くある、その殆どはあなたに隠されている ♡♡ ヴァッスーラ、さあ 注意深く聞きなさい。 口に昇った預言はすべて実現する、聖書に書かれてあるみことばはすべて成し遂げられる。 ヴァッスーラ 二つの心を描いてほしい
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/3巻P33
‘88・9・18
わが神よ(*)?
*神があまりに慕わしく 地上に残された未亡人のような心境です。
私です、私を愛しなさい、怖れないで、歯向かう時にだけ恐れなさい。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻P118
その後は あなたのうちに畏敬の霊がおかれ、私の気を害うのを案じるようになる。私の知恵の実を 霊は味わい、その後 私のもとに来るたびごと 来ては我が荘厳さを前に、あなたは畏怖して、膝をつく。私への畏れは本当に 知恵の冠。私への畏れはいのちの木にとって 根の部分。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻P118
その後は あなたのうちに畏敬の霊がおかれ、私の気を害うのを案じるようになる。私の知恵の実を 霊は味わい、その後 私のもとに来るたびごと 来ては我が荘厳さを前に、あなたは畏怖して、膝をつく。私への畏れは本当に 知恵の冠。私への畏れはいのちの木にとって 根の部分。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻P204
「主を畏れる人は、主を喜ばせようと心がける(*)。」それを知らなかった者は、来なさい、自らへりくだってつき従い 二度と心が離れていかないよう 私のうちにあなたの愛が育つにまかせなさい。
*
シラ書2・16
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち8巻P206
96.8.19
(大天使、聖ミカエル)
御父 および至高者の子どもよ、伴侶なる方の伴侶、聖霊の庭園よ、至聖なる三位一体の 実りよ、「主への畏れ」とは、何であるか、知っていますか?それは悪なるすべて そして神に反するすべてを憎む という意味です。神は 全善、柔和で、やさしく、慈しみ深いお方、愛と真理であられます。では霊魂に神を畏れさせ 神があなたを全き者にして下さるにまかせなさい。主への畏れは知恵の始まり そして知恵は単なる幼児に与えられます 天のみ国はこのような者たちに与えられるからです、そこで心を入れ換え悪意から解放されなければ 決して神のみ国には入れないでしょう。
ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/10巻P151
あなた方はこう尋ねよう、「では神を理解するとは どういうことでしょう?」と。 私を理解することは英知の第一原理。 それは私をあなたの神として認め 私を畏れること、私を畏れるとは あらゆる悪を避けること。 地上にいながら 霊的な目で私を見ることが望ましい。地上にいる間に私を味わっておくのは本来あなた方一人ひとりがすべきこと。 どの霊魂にとっても このヴィジョンを探し求めることが肝要であり もし私の高みに霊魂がまだ達し得ていないなら、観想をもって自らの霊を引き上げるように 忍耐強く努力し続けなさい。ほかにどうやって あなたの神を知り得ようか? 私を見たことがないとすれば、三たび聖なる我が光をまとう私の息子 娘たちの一人に どうしてなれようか?
4.ルイザ・ピッカレータ
ルイザ・ピッカレータ/被造界の中の神の王国/1巻P13
彼らは何も自分たちの力のおかげであるとはせずに、全てを感謝をもってわたしの恵みのおかげだと受け取って、わたしにお礼を言うだけではなく、もしわたしに応えなければ全ての恵み、賜物、好意を失うこともあるという絶え間ない畏敬のうちに生きています。
5.アグレダのマリア
アグレダのマリア/神の都市/P170
元后の御言葉
私の娘よ、主が私から姿を消されたのは、私が悲嘆の涙にくれながら主を追い求め、ついに主を発見し、再び喜び、豊富な実を得るためでした。汝も同様に主をしっかりと抱きしめ、決して見失わないように熱心に主を探求しなさい。無限の智慧なる主は、私たちを主の永遠の幸福に至る道に導きましたが、そこまで行き着くかどうか私たちが疑うこともご存知です。疑っても最終の目的地に達したいという希望と、達せないのではないかという怖れがある限り、最大の邪魔者である罪を一生嫌悪することになります。この怖れ、不安、嫌悪は信望愛や自然な理解力に加えて必要です。主を忘れないように。主のおられない時にはそのことに気付くように。主を忘れると、たくさんのこの世の宝物やごまかしの楽しみを自分の物とし、それを自分の最終目的にします。この危ない愚行に注意しなさい。この世のあらゆる楽しみは気違いであり、この世が笑うことは悲しみであり、官能的快楽は自己欺瞞であり、心を酔わし、本当の智慧を壊す愚であることを弁えなさい。主を完全に抱くと主以外の何物にも喜べないのです。
6.トマス・ア・ケンピス
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・2・1
人は生まれつき、知りたいと望む。けれども多く知ったところで、神を畏れる心がなければ、なんの役に立とう。
トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/1・2・3
多く知り深く学ぶほどあなたの生活がいよいよ聖にならないならば、それだけあなたは厳しく審判かれるだろう。
それゆえどんなに技芸(わざ)や学問があっても高ぶってはならぬ。むしろあなたに与えられた知識のために恐れ慎むべきである。
7.マリア・ワルトルタ
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P138
おまえは、その仕事でいつも危険にさらされている。神はおまえと一緒におられるから嵐を恐れるな。しかし、おまえと一緒に不正があれば強く恐れよ。分かったか。
マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P307
「皆、出ろ! こう言えるのは、マルタのはずだが、彼女は、あなたたちを恐れているから。しかし私は、私をゆるしてくださった神に背くこと、それだけを恐れている。こうしてマルタの代りに言う、皆、出ろ!この家では、イエズス・キリストを憎む人のために場所がない。さあ、外へ! おまえたちの闇の穴ぐらへ! 皆、外へ。 それとも、おまえたちを不浄の乞食の群れのように、うちの僕たちに追い出させようか」
その憤慨でいきり立ったマリアが、美しく、威厳をもって叫ぶ。極端に卑怯ものであるユダヤ人たちは、彼女の前にコソコソ行く。かの婦人は、憤慨している大天使さながらである。
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P116
「神を褒めたたえるのは、だれか」
「あの若者、その親戚、オフェルの人々。私と同じように神に対する聖なる畏れを持っている人々」
マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P277
ガマリエル:
我々はもう知恵者ではない。知恵の源は神に対する畏れであるのに、我々は神への畏れを捨てた単なる罪人だからだ。
マリア・ワルトルタ/聖母マリアの詩/上P65
知恵は、私の祖父母に若い時から墓に至るまで、神にふさわしく生きることを悟らせ、自然の災いから守る幕屋のように、罪を犯す危険から守ったのである。神への聖なる恐れは知恵の木の土台で、そこから平和の中の静かな愛の頂上に至るための、すべての枝を伸ばすのである。
8.マザー・テレサ
マザー・テレサ/愛と祈りのことば/PHP文庫/P26
死は、悲しいことではありません。私たちが悲しむべき唯一のことは、自分が聖なる者になっていないという事実だけです。
9.デボラ
デボラ/生ける神より明かされた英知/5巻下P15
高いところに上げられても、いつも自分自身であることを願った。世界に派遣されたとき、あなたの名前においてではなく、私の名において証をした。偏見によって裁かれたが、肉体的恐れがあなたを印象づけるのではなく、神への聖なる畏れと、そのすべてが優勢を占めた。
神の摂理140
が、前の自由の状態で神を恐れた者は異なっている。神を恐れることにより神を怒らせる恐れ、即ち、罪により神を怒らせる恐れが意味されるが、それは恐れではなく愛である、なぜなら他を愛する者はこれに悪を為すことを恐れないか。而してその愛が深ければ深いほどその恐れも大きい。この恐れがないなら愛は味気がなく浅薄なものとなり、単に思考に属して、意志に属さない。