慈悲

 

 

あわれみ主の愛

仁慈主は泣かれた慈しみ

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

2.トマス・ア・ケンピス

3.マリア・ワルトルタ

4.ヴァッスーラ

6.神の慈悲

7.無慈悲

 

 

 

マタイ23・23

 

律法学者たちとファリサイ派の人々、あなたたち偽善者は不幸だ。薄荷、いのんど、茴香の十分の一は献げるが、律法の中で最も重要な正義、慈悲、誠実はないがしろにしているからだ。これこそ行うべきことである。もとより、十分の一の献げ物もないがしろにしてはならないが。

 

 

 

 

1.スウェーデンボルグ

 

 

天界の秘義389

 

 『凡て彼を見つける者は彼を殺すであろう』は悪と誤謬のことごとくが彼を破滅させるであろうということを意味することは既に述べたことから生まれている。なぜなら事実は以下のようであるから、すなわち、人間は自分自身から仁慈を剥ぎとる時自分自身を主から引き離すのである、それは人間を主に連結するものはひとえに仁慈であり、すなわち、隣人に対する愛、慈悲であるからである。仁慈がない時、分離が起り、分離が起る時、人間は自分自身にまたは自分自身のものに委ねられ、かくて凡てその考えるものは誤りとなり、凡てその意志する所は悪となる。これが人間を殺し、または人間に生命を些かも残さなくなるものである。

 

 

 

天界の秘義588

 

 しかし主についてかれは『悔いられる』『心に悲しまれる』と言われているのは、人間の慈悲には凡てこのような感情が在るように見えるからであり、それで主が『悔いられる』『悲しまれる』ことについてここに言われていることは、聖言の他の多くの記事におけるように、そうした外観に応じて語られているのである。主の慈悲の如何ようなものであるかは何人も知ることは出来ない、それは人間の理解を無限に超越しているためである、しかし人間の慈悲のいかようなものであるかは私たちは知っており、それは悔い、悲しむことである、そして人間はその理解に応じて慈悲を考えない限り、それを考えることが出来ないし、かくて教えられることは出来ないのであり、そのことが人間の特性が再三エホバまたは主の属性について述べられている理由となっている、例えばエホバは、または主は罰し、試練にあわせ滅ぼし、怒られると述べられているが、しかし主は何人をも決して罰せられないのであり、何人をも決して試練に遭わせられないのであり、何人をも決して滅ぼされないのであり、また決して怒られはしないのである。しかしこのようなことが主について述べられているため、後悔と悲哀もまた主について述べられることが出来ることが生まれている、なぜなら聖言の以下の記事に明らかに現れているように、その一方のことを述べることは他方のことを述べることから生まれてくるからである。

 

 

 

天界の秘義654

 

このことは現今諸教会に知られていることに、即ち、信仰は聞くことによって生まれるということと一致している。しかし信仰は信仰に属した幾多の事柄を、または信じなくてはならない幾多の事柄を知ることでは決してない。それは単なる記憶に過ぎないが、信仰は承認である。しかしながら信仰の第一義的なものが人間の中に存在していない限り、何人のもとにも承認は存在していないのであって、信仰の第一義的なものとは仁慈であり、即ち、隣人に対する愛と慈悲である。仁慈が存在しているとき、その時承認または信仰も存在している。そのように把握していない者は地が天から離れているようにも遥かに信仰の知識からは離れているのである。信仰の善である仁慈が現存している時、信仰の真理である承認も現存しているのである。それゆえ人間が知識、理性、理解の幾多の事柄に応じて再生されつつある時は、それは土地が―即ち彼の心が―仁慈を受ける備えをなすためであって、後には仁慈から、または仁慈の生命から、彼は考え、行動するのである。その時彼は改良され、または再生するのであって、その前ではない。

 

 

 

天界の秘義904[2]

 

主の臨在はその人間がその中におかれている隣人に対する愛と信仰の状態に応じてその人間について述べられる。主は善の凡ての中におられるため、隣人に対する愛の中に主は現存[臨在]されているが、しかし主は、愛のない、信仰と言われているものの中にはそれ程現存されてはいない。愛と仁慈のない信仰は分離した、または結合していないものである。連結の在る所には凡て連結させる媒介物がなくてはならないのであって、それは愛と仁慈以外の何ものでもない、このことは主はたれにも慈悲深くあられ、たれをも愛され、たれをも永遠に幸福にしようと欲しておられるという事実から凡ての者に明白であるに違いない。それ故他の者に慈悲深くあり、その者を愛し、その者を幸福にしようと欲するといった愛を持っていない者は、主に似ていないし、また些かも主の映像を宿していないため、主に連結することは出来ない。彼らが言っているように、主を見上げて、しかもそれと同時に隣人を憎むことは単に遥か彼方に立つことであるのみでなく、自分自身と主との間に地獄の深淵を持つことであって、もし彼らが万が一にも更に近づきでもするなら、その深淵に落込んでしまうであろう。なぜなら隣人に対する憎悪は間に介在する奈落の深淵であるからである。

 

 

 

天界の秘義989

 

何人も仁慈が自分の信仰の第一次的なものであることを承認し、信じない限り、また隣人に対する愛に動かされて、彼に慈悲を持たない限り、自分は再生したものであるとは決して言うことはできないのである。

 

 

 

天界の秘義1049

 

「そしてわたしはわたしとあなたとの間にある契約を覚えよう」。

 

これが再生した者と再生することのできる者に特に注がれる主の慈悲を意味していることもまた生まれてくる、なぜなら主にあっては『記憶する[覚える]』ことは慈悲を持つことであるから。記憶する[憶える]ことは主について述べることはできない。なぜなら永遠から主は凡ゆる物を全般的にもまた個別的にも知られているからである、しかし慈悲を持つことは主について述べられるのである、なぜなら主はそのようなものが人間の性格であることを知られているからである、すなわち、前に言ったように、人間自身のものは奈落的なものであり、それが彼の地獄そのものであることを知られているからである。なぜなら人間はその意志の人間自身のものにより、地獄と交流し[連なり]、この人間自身のものは地獄からは、またその人間のものそのものからは、そのもの自身を地獄に向って投げ込むほどに甚だしくまた強く何ごとも欲してはおらず、またそれはそのことにも満足しないで、宇宙の凡ゆるものを投げ込もうとさえ欲しているからである。人間は人間自身ではこのような悪魔であって、主はこのことを知られているからには、主が契約を憶えられることは人間に慈悲を抱かれて神的な手段により彼を再生させ、彼がそのことを可能にするようなものである限り、彼を強力な力により天界へ引かれるということ以外には何ごとも意味していないことが生まれてくる。

 

 

 

天界の秘義1735

 

エホバは、または主の内なる人は、愛の天的なものそのものであり、即ち、愛そのものであったのであり、この愛には純粋な愛の属性以外には、かくて全人類に対する純粋な慈悲の属性以外にはいかような属性も適合していないのであり、それは凡ゆる者を救って、彼らを永遠に幸福にし、彼らにその持っている凡ゆるものを与えようと欲するといったものであり、かくて純粋な慈悲から、進んで従って来ようとする者をことごとく天界に、即ち、それ自身に、愛の強い力により引き寄せようと欲するといったものである。この愛そのものがエホバである。

 

 

 

天界の秘義1789

 

「あなたの大きな報い」。これは勝利の目的と目標とを意味していることは『報い』の意義から明白であり、それは試練の争闘の後の賞品であり、ここでは主は御自身に対しては如何ような勝利の賞品をも決して求められはしなかったため、勝利の目的と目標である。主の勝利の賞品は全人類の救いであったのであり、主が戦い給うたのは全人類に対する愛から発していたのである。この愛から戦う者は自分自身に対して如何ような賞品をも求めない、それはこの愛は他の者に自分自身のものをことごとく与え、移譲し、自分自身のためには何ものも得ようとは欲しないものであるためであり、それでここに『報い』により意味されているものは全人類の救いである。

 

 

 

天界の秘義2261[]

 

真理の生命は、かくて信仰の生命は生命そのものであられる主から専ら発している。主の生命は慈悲であり、それは全人類に対する愛の慈悲である。信仰の真理を告白してはいるものの、自分に比較して他の者を軽蔑し、自分の自己への愛と世への愛との生命に抵触すると、隣人を憎悪し、その隣人が富を、名誉を、名声を、生命を失うことを歓ぶ者らは主の生命には些かも与ることはできないのである。しかし信仰の諸真理により人間が再生するということがその諸真理の実体である。なぜなら真理は善を受容する器官そのものであるからである。それで真理のあるがままに、その諸真理の中の善があるがままに、またその真理と善とが連結しているままに、その結果他生で完成されることができるままに、そのように死後の祝福と幸福との状態もなるのである。

 

天界の秘義1865[]

 

 主には全人類の救が唯一の慰めであれられたのである、なぜなら主は神的な天的な愛の中におられ、その人間的な本質の方面においてさえも、神的な天的な愛それ自身となられて、その愛の中にはすべての者を愛する愛のみが顧慮され、また心に抱かれているからである。

 

 

 

天界の秘義1865[]

 

神的な愛はこうしたものであることは子供に対する両親の愛から認めることが出来よう、この愛はそれが降る度に応じて増大しているのである、即ち、それは直接の子供たちに対するよりも更に遠い子孫に対しては更に大きなものとなるのである。原因と起原なしには何一つ決して存在しないのであり、従って次々と継続して行く子孫に対しては絶えず増大していくという特質を持っているところの、人類におけるこの愛もまた原因と起原なしには存在していない。この愛の原因と起源は主から発しない訳にはいかないのであって、主から結婚愛のすべてが流れ入っており、また子供に対する両親の愛が流れ入っており、その愛の源泉は、すべての者に対する主の愛は自分の子供に対する父親の愛に似ていて、主はすべての者を自分の嗣子にしようと望まれており、すでに生まれている者に嗣業を供えられているように、これから生まれる者たちにもそれを供えられているということである。

 

 

 

天界の秘義2077

 

主の情愛または愛は全人類に対するものであって、それは神的なものであり、主はその人間的な本質をその神的な本質に結合されることによって全人類を御自身に完全に接合させ、永遠に彼らを救おうと望まれたのである(この愛については1735を参照されたい。この愛から主は幾多の地獄と絶えず戦われた、1690,1789,1812、また主はその人間的なものをその神的なものに結合されたことにおいて、神的なものを人類と連結させること以外には何ごとをも顧みられなかったのである、2034番)。

 

 

 

天界の秘義2077〔2〕

 

主が抱かれた愛は人間の理解を全く超越しており、またそれは天使たちが抱いている天界的な愛のいかようなものであるかを知らない者らには、最高度に信じ難いものである。一つの霊魂を地獄から救うためには天使たちは死さえも何ら省みはしない。否、出来ることなら、彼らはその霊魂のためには地獄の責苦も厭いはしないのである。ここから死んだ者たちから蘇りつつある者を天界に連れて行くことは彼らの喜びの最も深いもの[最も内なるもの]となっている。しかし彼らはこの愛はその一かけらも彼ら自身からは発しておらず、そのすべてのものは全般的にも個別的にも主のみから発していると告白しており、否、もし誰かがそのように考えはしないなら、明らかにいらいらした感情を示すのである。

 

 

 

天界の秘義2253

 

「あなたはその所を破壊して、その真中にいる五十人のために、それを赦されはしませんか」(創世記18・24)。

 

これは愛から執り成されたことを―彼らは滅んではならないと執り成されたことを―意味していることは「五十」の、「義しい」の、同じくまた「その真中」の、即ち、都の真中の意義から明白であり(それについては直ぐ前の2252番を参照されたい)、その事柄のすべては愛から執り成されたことを、彼らが滅んではならないことを意味している。(執り成しについては、前の2250番を参照)。それが愛から発していたこともまた明らかである。主にあっては、主が世におられたときは、全人類を永遠に救おうと激しく望まれたのである。これは天的な生命そのものであり、その生命により主は御自身を神的なものに、神的なものを御自身に結合されたのである―なぜならエッセ[存在]それ自身は、またはエホバは全人類に対する愛そのものである慈悲以外の何ものでもないからである―そしてその生命は純粋な愛の生命であって、それはいかような人間にも可能ではない。生命とは何であるかを、また生命は愛と同一であることを知らない者はこのことを把握はしない。このことは人間がその隣人を愛する度に応じて、主の生命にあずかる[主の生命を受ける]ことを意味している。

 

 

 

天界の秘義2261

 

主の生命は慈悲であり、それは全人類に対する愛の慈悲である。

 

 

 

天界の秘義2334

 

試練にはことごとく主の現存[臨在]と慈悲について、また救いといった事柄について多少の疑惑がもたれるのである、なぜなら試練の中にいる者は内的な不安の中にいて、絶望にすら陥るからである、その中に彼らの大半が留めおかれるのは彼らがついには以下の事実を確認するためである、すなわち、凡ゆるものは主の慈悲から発しており、彼らは主のみにより救われるのであり、彼ら自身には悪以外には何ものも存在していないということであり、そのことを彼らは試練により、すなわち、その中で征服することにより確認するのである。試練の後でその試練から真理と善の多くの状態が残り、その状態へ彼らの思いがその後主によりたわめられる[向けられる]のであるが、もしそうでないならその思いは狂った事柄に突入して、その心を真で善いものに対立したものへ引きずり込んでしまうのである。

 

 

天界の秘義3742

 

主はたれにでも御自身をさえ、御自身のものである一切のものをさえ与えようと欲しられ、事実、彼らが受け入れるに応じて、即ち、主に似た形、主の映像として、善の生命の中におり、真理の生命の中にいるに応じて、それらを与えられているという全人類に対する愛と慈悲から発しているのである。このような神的努力が絶えず主から発しているため、前に言ったように、主の生命は人間のものとして所有されるのである。

 

 

 

 

 

 

天界の秘義3875

 

『離れないこと』は仁慈であることは、仁慈は、またはそれと同一のことではあるが、相互愛は霊的な連結であるという事実から明白である、なぜならそれは意志の情愛の連結であり、またそこから生まれてくるところの理解のいくたの思考の一致であり、かくてそれは心が両方の部分の方面で連結することであるからである。その最高の意義では『離れないこと』は愛と慈悲であることはそこから明らかである、なぜなら仁慈または霊的な愛について述べられるところの無限で永遠のものは慈悲であり、それはかくも大いなる悲惨の中に沈められている人類に対する神的愛[神の愛]であるからである。

 

 

 

 

 

天界の秘義4320

 

主のみから発している生命が各々の者のもとではその者自身の中にあるかのように見えることは全人類に対する主の愛または慈悲から発しているのであり、主は主御自身のものであるものを各々の者に所有させて、各々の者に永遠の幸福を与えようと欲しられているのである。愛は愛自身のものであるものを他の者に所有させることは知られている。なぜならそれはそれ自身をその他の者の中に示して、それ自身をその者の中に現存させるからである。ましてやそのことは神の愛に言われるのである!

 

 

 

天界の秘義5132

 

『慈悲』が仁慈を意味しているのは、仁慈の中にいる者は凡て慈悲の中にいるためであり、または、言いかえるなら、隣人を愛する者は凡て隣人に慈悲を持つためでありそれゆえ仁慈の業は聖言では慈悲の業により記されているのである、例えばマタイ伝には―

 

 わたしは飢えたが、あなた方は食べさせてくれた、わたしは渇いたが、あなた方は飲ませてくれた、わたしは他国の者であったが、あなた方はわたしを宿らせてくれた、裸であったが、着せてくれた、病んでいたが、訪ねてくれた、牢にいたが、わたしのもとへ来てくれた(マタイ25・35、36)。

 

 

 

天界の秘義5480

 

「泣いた」。これは慈悲を意味していることは、『泣くこと』の意義から明白であり、それはここにヨセフにより表象されている主について述べられているときは、慈悲深いことである。泣くことが悲哀と愛とを表現していることは良く知られており、従ってそれは慈悲または憐れみを表現している、なぜなら慈悲は愛が悲しむことであるからである。それで神の愛は慈悲と呼ばれているが、それは人類はそれ自身では地獄の中にいるためであり、人間がそのことを自分自身の内に認めるとき、彼は慈悲を懇願するのである。泣くことはまたその内意では慈悲であるため、それで聖言では『泣くこと』がときどきエホバまたは主についても述べられている、例えばイザヤ書では―

 

 わたしはシブマのぶどうの木、ヤゼルのために泣きに泣こう、ああヘシボンとエレアレよ、わたしはおまえにわたしの涙の水を注ごう(イザヤ16・9)。

 

エレミア記には―

 

 エホバは言われる、わたしはモアブの憤りを知り、その正しくないこと(を知っている)。それでわたしはモアブのために泣き叫ぼう、凡てのモアブのために叫び立てよう。ヤゼルの泣くにまさってわたしはあなたのために泣こう、ああシブマのぶどうの木よ(エレミア48・30−32)。

 

『モアブ』は自然的な善の中にはいるが、自らが迷わされるに甘んじ、迷わされると、善を不善化する者らを意味しており(2468番を参照)、『泣き叫ぶこと』、『叫びたてること』、『泣くこと』は憐れんで、悲しむことを意味している。ルカ伝にも同じく―

 

 イエスは近づかれたとき、都を見られて、そのために泣かれた(ルカ19・41)。

 

 イエスはエルサレムのために泣かれ、またそれを憐れんで、そのために悲しまれたが、そのエルサレムはたんにエルサレムの都のみでなく、教会であったのであり、その教会の最後の日が―そのときは仁慈はもはやなくなり、従って信仰も無くなるのであるが、その最後の日が―その内意に意味されているのであり、そのため主は憐れみと悲しみのあまり泣かれたのである。(『エルサレム』は教会であることは前の2117、3654番に見ることができよう)。

 

 

 

天界の秘義6180

 

「わたしに慈悲と真実とを行ってください」(創世記47・29)。これは卑下を意味していることは以下から明白である、すなわち、『慈悲を行うこと』の意義は愛の善であり、『真実を行うこと』の意義は信仰の真理である(その意義については以下に述べよう)。この言葉は懇願の言葉として、かくて卑下の言葉として語られているのである。『慈悲を行うこと』が愛の善を意味しているのは、慈悲は凡て愛のものであるためである。なぜなら愛または仁慈の中にいる者はまた慈悲の中にもおり、かれの愛と仁慈とは隣人が困窮し、または悲惨な状態にあるときは慈悲となって、彼はそうした状態にあるその者に助けを与えるからである。ここから『慈悲』により愛の善が意味されるのである。『真実を行うこと』が信仰の真理を意味しているのは真実はすべて信仰のものであるためであり、そうした理由から原語では信仰はそれと同じ言葉により意味されている。

 

 

 

天界の秘義6478

 

 天使はたれかに善を為すときは、またその者に天使自身の善を、幸運を、祝福を伝達し、しかもそれはその他の者に凡ゆる物を与えて、何物をも自分には保留はしまいとする願いをもって行われているのである。

かれがそのようにして己がものを伝達していると、そのときは善が彼の与える以上の幸運と祝福とをもって彼に流れ入り、しかもこれは絶えず増大して行くのである。

 

しかし彼がこの幸運と祝福との流入を自分自身の中に得ようとする目的から自分の持っているものを伝達しようと願う思いが起こるとすぐに、その流入は消滅してしまい、ましてや彼がその善を伝えて相手から報いを得ようとする思いがなにか入ってくるなら、さらに消滅してしまうのである。このことはわたしが多くの経験から知ることができたところであり、このことからまた主は個々の凡ゆる事柄の中にもおられることを認めることができよう。なぜなら主は凡ゆる者に主御自身を与えようと願われておられるような方であって、そこから幸運と祝福とは主の映像であり、主に似た形である者たちのもとに増大するからである。

 

 

 

天界の秘義6495

 

 今までに引照した凡てのことから、主から発している流入は直接的なものであり、また天界を通して間接的なものであることを認めることが出来よう、しかし主から発している流入は天界的な愛の善であり、かくて隣人に対して愛の善である。この愛の中に主は現存されている、なぜなら主は全人類を愛され、その各々の者を永遠に救おうと願われているからである、そしてこの愛の善は主御自身から発しているため、主御自身がその中におられ、かくて主はこの愛の善の中にいる人間のもとに現存されているのである。

 

 

 

霊界日記1194

 

慈悲の中に無垢が在るときは、それらは最も内なるものである。それで慈悲となるものは無垢であり、仁慈となるものは慈悲であり、業における善となるものは仁慈である。かくてこれらのものは主のみから発しており、そのとき初めて信仰の実と呼ばれることが出来るのである、なぜなら主のみが無垢であられるからである。1748年〔60歳〕3月7日。

 

 

 

霊界日記1246

 

さらに、彼らは地獄にいるため、彼らは、彼らに何らかの危害が加えられるよりは、むしろ憐れまれねばならないのである。なぜならもし私が、仮にも彼らに話してはならないとするなら、またはある霊魂たちが身体における生活から身につけてしまった言い方で彼らに突っけんどんな事柄を話すとするなら、彼らはさらに苦しみを覚えるからである。そのことは慈悲と仁慈に反するであろう、なぜなら悪魔にすら善かれと願うことがキリスト教であるからである。

 

 

2.トマス・ア・ケンピス

 

 

トマス・ア・ケンピス/キリストに倣いて/2・7

 

[1」イエズスにおすがりしている人は、永久にしっかりと立っているだろう。

 かれを愛しかれをあなたの友とせよ。なんとなればすべての者があなたをはなれても、かれはあなたをおはなれにならず、終りにあなたの滅びるのをそのままにはなさらないからである。

 

[2」生きるにも死ぬにもイエズスにおすがりして、その真実にわが身をお任せせよ。他のものにはできなくても、主だけはあなたを助けてくださることができる。

 あなたの愛するお方のご性質は、あなたの心を他のだれにも許さず独り占めにし、そこに王のごとく玉座に即いて支配なさろうというのである。

 あなたがもしあらゆる被造物からはなれることを学ぶならば、イエズスは喜んであなたとともにお住みになるだろう。

 

 

 

 

3.マリア・ワルトルタ

 

 

マリア・ワルトルタ/マグダラのマリア/P132

 

「(前略)マテオ、あなたに対してこれとちがうやり方だったか」

「いいえ、主よ」

「しかし、本当のことを言いなさい。あなたを納得させたのは、あなたに対しての私の忍耐であったか、それともあなたに対してのファリサイ人たちの苦々しい、とがめであったか」

「あなたの忍耐でした。そのために今、私はここにいます。ファリサイ人たちが、そのいつもの軽蔑の言葉と呪いとをもって逆に私を何もかも軽蔑する人間に変え、その軽蔑のために今までやっていた悪いこと以上の、悪いことをしようとさえ考えた。ことは今、言ったように起こります。罪を犯しているために罪びととして、とり扱われると感じる時、人はその時により固くなるものです。しかし侮辱の代りに愛撫がくる場合、まず、びっくりし、次に涙がこぼれる・・・。そして泣き出す時には罪の土台がくずれて倒れる。人は、慈悲の前に全く裸となって、その慈悲で、自分を覆うようにと心からこいねがうのです」

 

 

 

マリア・ワルトルタ/イエズス―たそがれの日々/P187

 

「あなたは心の中で神はゆるしてくれまいと考えています。売春婦であることをゆるしてくれない世間と比較して、天もそうであろうと考えています。しかし神は世間ではない。神は慈悲です。神はゆるしです。神は愛です。あなたが私の所へ来たのは、私を滅ぼすために金をもらったからだが、実に創造主は悪いことを善に変えて人を救うことができます。もし、あなたがそう望めば、ここに来たことは善に変わるでしょう。救い主に自分の心を赤裸々に見せることを恥じてはならない。あなたがそれを隠そうとしても、神はそれを見て泣いておられます。神は泣かれ、愛されます。後悔することを恥じてはいけません。罪を犯したとき大胆であったように、悔い改めるときも大胆でありなさい。あなたは私の足元で泣く最初の売春婦ではありません。私は彼女らを正道へ戻しました。私はどんな罪深い者であっても、追い返さず、引き上げ、救い上げるようにしました。これは私の使命です。私はどんな悲惨な心の状態にある者でも、嫌悪を起こすことはしません。」(中略)

 

「母以外、あなたのように話してくれた人は、一人もありません。あなたは母よりも、もっと優しく話してくださった。母は終りのころになると、私の乱れた生活を厭い、厳しく叱りましたので、私はエルサレムへ逃げました。しかし、あなたは・・・それでも、あなたの優しさは、私を責め苛む火に降りかかる雪のようでした。私を責めていた火は今、もっと静かな少し違う火になりました。今までは光も暖かさもないのに燃える火でした。私は氷のように冷えたまま闇の中にいました。ああ、好んで営んできた今までの生活なのに、どれほど苦しんだり呪ったりしたことでしょう。」(中略)

 

「あなたに会いに出て来たときから、ゆるしていました。立って、もう罪を犯してはならない」

 

 

 

マリア・ワルトルタ83・2/天使館2巻

 

「苦しむことは何と難しいことだろう!」と、農夫は、一堂に集まった大人、子供合わせて十人ほどの家族に囲まれて言う。

「人間にはそれが難しいことをわたしは知っています。また、父は、そのようなものと知っていて、苦しみを子らにお与えになったのではないのです。それは罪によってもたらされました。それはそれとして、地球上での苦しみはどれほど続きますか? ある人の人生においては? ほんのちょっとの時間です。全生涯続いたとしても、やはり短い時間です。今、わたしは言います。永遠に苦しむよりも短い間苦しむほうがましではありませんか? 煉獄で苦しむよりもこの世で苦しむほうがましではありませんか? あちらではこの世の一時間はその一千倍にもなることを考えなさい。 おお! まことにあなたたちに言いますが、苦しむことを呪わず、いやむしろ祝福すべきです。更にそれを『恩寵』と呼びなさい。更に『慈悲』と呼びなさい」。

 

 

 

 

5.ヴァッスーラ

 

 

ヴァッスーラ/神のうちの真のいのち/6巻P88

‘92・6・16

 

当初あなたは 一つの目的、自分自身のため、だけに生きていた、自分の虚栄心に仕えていた。あなたは当時 身に輝きと栄光をまとっていると信じていた。 しかし現実には すっかり裸の身だった。私自身が訪れ、あなたを照らし うちなる闇に輝くまでは どれほど裸の身かを知らせる者はなかった。その時はじめて、真理の光に照らしだされた自分自身を その目で見た、あなたはありのままの自分を 見させられた。 私が思いやりを示さなかったなら 剣が待ち受けていたであろう。 しかし、私はあなたを哀れみ 慈悲をこめて、鼻から息を吹き込んで 生き返らせた。 こうして私たちの関係を 記憶に呼び覚ました ♡

 

 

 

 

6.神の慈悲

 

 

天界と地獄522

 

 神の慈悲の何であるかを先ず述べよう。神の慈悲は全人類を救おうとする全人類に対する純粋な慈悲であり、それは人間各々のもとにも絶えず及んでいて、何人からも決して後退はしない、それで救われることのできる者は誰でも救われる。しかも誰一人、主によって聖言の中に啓示されている神的手段によらなくては救われることはできない。神的手段は神的真理と呼ばれるものであって、それは人間は救われるためにはいかように生きなくてはならないかを教えている。その真理によって主は人間を天界へ導かれ、またその真理によって人間の中に天界の生命を植えつけられている、主はこのことを凡ての者に対して行われるが、しかし天界の生命は誰であれ悪から遠ざからない者の中には植えつけられることはできない、なぜなら悪はその生命と対立しているからである。それで人間は悪から遠ざかるに応じて、主は純粋な慈悲から彼を神的手段により導かれ、しかもこれは幼少の頃から世におけるその生命の終わりまで、その後は永遠に至るまでも続いている。これが意味されている神の慈悲である。従って主の慈悲は純粋な慈悲であって、直接的なものではなく、すなわち、凡ての者を、その者がいかような生活を送ったにしても、[単に]善意から救うようなものではないことが明白である。

 

 

 

 

7.無慈悲

 

 

天界の秘義6667

 

「残酷に」。これは無慈悲を意味していることは解説の要もなく認めることが出来よう、なぜなら今し方取り扱った者らは隣人を全く愛しないで、ただ自己のみしか愛しはしないため、慈悲を全く持たないからである。彼らの許に現れる隣人愛は自己愛以外の何ものでもない、なぜならたれか他の者が彼らに好意を示す限り、即ち、その者が彼らのものである限り、その者は愛されはするが、しかしその者が彼らに好意を示さない限り、またはその者が彼らのものでない限り、その者は斥けられ、もしその者が以前友達であったなら、嫌悪されるからである。こうしたものが自己愛に隠れていて、世では明らかにされはしないが、しかし他生では明らかにされ、そこで爆発するのである。それがそこで爆発する理由は、外なるものはそこで取り去られ、その時その人間は内部ではいかようなものであったかが明らかにされるということである。