分離

分裂連結『はなれないこと』は愛と慈悲

毒麦のたとえ(マタイ13・25)

 

 

 

天界の秘義2258[3]

 

それにも拘らず悪い者が地獄に断罪されるのは神的善が神的真理から分離しているためではなく、その人間が自分自身を神的善から分離するためである。なぜならすでにいくども述べたように、主はいかような場合にも地獄に送られはしないで、その人間が自分自身を地獄に送るからである。以下の点においてもまた神的な善は神的な真理に連結しているのである、すなわち、悪い者が善い者から分離されない限り、悪い者は善い者に危害を加えるのであり、また秩序を破壊しようと絶えず努めるのであり、かくて、善い者が危害を加えられないことが慈悲から発しているのである。これは全く地上の王国と同一である。もし悪が罰せられないならば、その王国全体は悪に感染し、かくて滅亡してしまうであろう、そうした理由から王と審判者[裁判官]とは、悪い者の益を計って不当な寛容を行使することによるよりも、悪を罰し、また悪を犯す者を社会から追放することによってさらに多くの慈悲を示すのである。

 

 

天界の秘義2321

 

 審判は主の神的な人間的なものと発出している聖いものに属しているという事実については実情は以下のようである、すなわち、主が世に来られて、その神的な本質をその人間的な本質に結合されなかったならば、もはや人類は救われることが出来なかったのである、なぜなら主の人間的なものが神的なものになされなかったなら、救いはもはや人間に到達することは出来なかったからである(1990、2016、2034、2035番)。主の人間的なものから発出している聖いものそれ自身は悪い者を善い者から分離するものである、なぜなら悪い者は主の聖いものには近づくことはできないので、各々自分の中にある冒瀆性に応じて、そこから自分の地獄へ逃げ去って行くほどにも、それを恐れ、またそれに震え上がっているからである。

 

 

天界の秘義5229

 

「わたしは今日わたしの罪を憶い出しました」。これは、分離の状態について、を意味していることは以下から明白である、『罪』の意義は転倒した秩序のものであるものであり(5076番を参照)、憶い出すことの意義は連結である(5169番)。かくて『罪を憶い出すこと』は転倒した秩序のものであるものと連結していることであり、従ってパロにより表象されている自然的なものから分離していることである、なぜなら何であれ転倒した秩序の中にあるものと連結したものはことごとく秩序の中にあるものからは分離しているからである。

 

 

天界の秘義5474

 

『罪を犯すこと』の意義は分離であり(5229番を参照)―なぜなら罪は凡て分離するからである―

 

 

天界の秘義5612

 

『罪を犯すこと』の意義は分離であり(5229、5474番を参照)、かくてそれは存在しないであろうということであり―なぜなら何であれ他のものから分離するものはもはやそのもとに存在しないからである

 

 

天界の秘義5746

 

「彼らに言いなさい、なぜあなたたちは善に悪を報いるのですか」。これは、なぜ離れ去るのか、を意味していることは『善に悪を報いること』の意義から明白であり、それは離れ去ることである、なぜなら悪は善から離れ去ること以外の何ものでもないからである、なぜなら悪にいる者らは善を、すなわち、仁慈と信仰のものである霊的な善を足げにしてしまうからである。『悪』は離れ去ることであることは他生の悪い者らから非常に明白である、なぜなら彼らは天界の光の中では足を上に頭を下に向け(3641番)、かくて全く転倒して、従って離れ去って現れるからである。

 

 

天界の秘義5807[2]

 

 愛が連結であることについては、それは二人の者の心の、または二人の者の思考と意志との連結であるため、霊的な連結であることを知らなくてはならない。このことから、愛は、それ自身において観察されるなら、純粋に霊的なものであり、その愛の自然的なものは共に交わることと連結との歓喜であることが明白である。愛はその本質においては人間の心を構成しているいくたの形または原質における状態の変化と変動から生まれてくる和合(ハーモニー)である。この和合は、もしそれが天界的な形から発しているなら、天界的な愛である。それで愛は主から発している神的愛[神の愛]そのもの以外のいかような起原も持つことはできないし、かくて愛は、いくたの形に流れ入って、そのいくたの形をその形の状態の変化と変動とが天界の和合をもって存在するように処理する神的なものであることが明白である。

 

 

天界の秘義5807[3]

 

 しかしそれに対立した愛は、すなわち、自己を、また世を求める愛は連結ではなくて、分離である。それらは実に連結のように見えはするが、しかしそれは各々の者が他方の者を、その二人が利得と名誉とを追求している限り、または彼らに反抗する者に復讐し、これを迫害している限り、自分自身と一つのものとなっているものとして、認めているためである。それでその一方の者が他方の者にくみしないなら分離が起るのである。天界的な愛はそれとは異なっていて、自己のために他に善を為すことを全く嫌忌し、他の者の中に在る善のために善を為し、これを彼は主からから受け入れるのであり、従ってその善が発生してくる源泉である主御自身のために善を為すのである。

 

 

天界の秘義5841

 

「わたしは凡ゆる日の間わたしの父に罪を犯すでしょう」。これは離れ去ることを、かくて教会の善が何ら存在しないであろう、を意味していることは『罪を犯すこと』の意義から明白であり、それは分離であり(5229、5474番を参照)、かくて離れ去ることであり、もしユダが表象している外なる教会の善が、イスラエルにより表象されている内なる教会の善からそれ自身を離反させるなら、もはや教会の善は全く存在しなくなるのである。連結そのものが教会が存在する源泉である善を存在させるのである。内なる教会と外なる教会のこの二つの善の実情は以下のごとくである。内なる教会の善は、または内なる善は、外なる教会の善を、または外なる善を、流入により生み出しており、それがそうであるため、内なる善はそれ自身に外なる善を高揚させ、かくして外なる善は内なる善を凝視し、内なる善を通して主を見上げることができるのである。このことは連結が在るとき起るが、しかし分離があるなら、外なる善はそれ自身を離反させて、下を眺め、かくて死滅してしまうのである。『わたしはわたしの父に凡ゆる日の間罪を犯すでしょう』により意味されているものはこの離反である。

 

 

 

神の摂理227(ハ)

 

「このことはもし人間が先ず信仰の諸真理を承認し、それに従って生活し、後にそれをはねつけ、否定するなら不可能となる」。これは第一の項目に述べられたこと、即ち、人間が慎重に考え、語り、為すものは凡て、彼の性質に取り入れられて、彼の中に永遠的なものになるということから明らかであり、また第二の項目に述べられたこと、即ち、善と悪が離れ、かくて分離されるように、主はその神的摂理により絶えず人間の心の状態を先見し、処理されるということから明らかである。更にそれらは死後主により分割される。内的には悪であって、外的には善である者からは善は取り去られ、かくて彼らはその悪に委ねられるが、その反対のことが、内的には善であるが外的には他の人間のように、富を得るために労し、高貴を求め、色々な世の営みを歓び、或る形の自己放縦に溺れた者に起るのである。しかしこれらの者の中には善と悪とは混合しておらず、内なるものが外なるものから分離しているように、分離しており、かくて外的には多くの点で悪であったが、内的には悪ではなかったのである。外的にはその敬虔、礼性、言葉、行為の点で、善い者のように見えたが、内的には悪であった邪悪な者の場合はその反対であり、彼らの中にもまた悪は善から分離している。しかし最初に信仰の諸真理を承認し、それに従って生き、その後その反対の状態に陥って、それらを斥けた者の中には、特に、もし彼らがそれらを否定するなら、善と悪とはもはや分離されないで、混合する、なぜならこうした人間は善も悪も自分自身のものとして、それらを結合させ、混入したからである。