ノアの箱舟

 

 

洪水ノア

 

 

 

天界の秘義638

 

 14節。「ゴファの木であなたのために箱舟をつくり、箱舟を館につくり、瀝青でその内外を塗らなくてはならない。」

 

『箱舟』によりかの教会の人間が意味され、『ゴファの木』によりかれの諸々の欲念が意味され、『館』により意志と理解である人間の二つの部分が意味され、『瀝青でその内外を塗ること』によりかれがいくたの欲念の洪水から守られることを意味している。

 

 

天界の秘義639

 

『箱舟』によりかの教会の人間が、または『ノア』と呼ばれた教会の人間が意味されていることはそれについて以下の節に記されていることから充分に明白であり、また主の聖言は凡ゆる所で霊的な天的なものを含んでいるという事実からも、即ち、聖言は霊的なものであり、天的なものであるという事実からも明白である。もし箱舟がそれに瀝青を上塗りしたこととその寸法とその構造とともに、また洪水も、その文字が表わしていること以上に何ごとも意味していないならば、その記事には霊的な天的なものは何一つ無く、単に歴史的な物のみがあるに過ぎないのであって、それは人類には世俗の作者達から記された類似の物と同じく何の役にも立たないであろう。しかし主の聖言は至る所でその胸に、または内部に霊的な天的なものを包含しているため、箱舟により、また箱舟について言われている凡ての事により、未だ啓示されなかった隠れた事柄が意味されていることは極めて明らかである。

 

 

 

天界の秘義639 []

 

他の所でも同じである、例えば川の傍らのすげの間に置かれて、モーセがその中に隠された小さな箱舟の場合も同じであり(出エジプト記2・3)さらに高貴な例を取るならば、シナイ山にモーセに示された型に従って作られた荒野の聖い箱の場合も同じであったのである。もしこの箱の中の一切の物が主とその王国とを表象するものでなかったならば、それは一種の偶像以外の何ものでもなかったであろうし、その礼拝も偶像礼拝であったであろう。同様にソロモンの神殿もそれ自身では、またはその中に在る金、銀、香柏、宝石のために些かも聖かったのではなく、それらのものが表象した凡てのものの故に聖かったのである。ここでも同様であり、もし箱舟とその構造が、その幾多の細々したこととともに、教会の何か隠れた事柄を意味しないならば、聖言は主の聖言ではなくなって、通俗作家の場合のように、一種の死んだ文字となるであろう。それで箱舟はその教会の人を、または『ノア』と呼ばれた教会を意味することは明らかである。

 

 

 

天界の秘義640

 

『ゴファの木』により欲念が意味され、『館』により意志と理解であるこの人間の二つの部分が意味されていることは、たれもこれまで知ってはいない。たれ一人また先ずかの教会の実情を告げられない限り、どうしてこれらのことが意味されているかを知ることもできないのである。最古代教会は、しばしば言ったように、信仰に属したものを尽く愛から知っていたのである、または同じことではあるが、善の意志から真理の理解を得ていたのである。しかしかれらの子孫は遺伝により以下のことを受けついだのである、すなわち、意志に属したいくたの欲念がかれらを支配したのであって、その欲念の中にかれらは信仰の教義的な物を浸し、かくて『ネピリム』となったのである。それ故主は若し人間がこのような性質を持ち続けるならば、人間は永遠に滅んでしまうことを予見されたとき、主は意志が理解から分離するように定められ、人間は前のように善の意志によって形作られるのではなくて、真理の理解[真理を理解すること]を通して、仁慈を与えられ、その仁慈が善の意志のように見えるように定められたのである。『ノア』と呼ばれるこの新しい教会はこのようなものとなったのであり、かくてそれは最古代教会とは全く相違した性質のものになったのである。この教会の他にもまた当時他の諸教会が在ったのであり、例えば『エノス』と呼ばれているもの(4章26節)や、また今はそれについてはこうした記録が残されていない他の教会も在ったのである。『ノア』というこの教会のみがここに記されているのは、それは最古代教会とは性質が別種のもので、それとは全く異なっていたためである。

 

 

 

天界の秘義641

 

 その教会のこの人間が意志と呼ばれる部分の方面で改良されることができる前に、理解と呼ばれる人間のかの他の部分の方面で改良されねばならぬため、意志のいくたのものが如何ようにして理解のいくたのものから分離されて、何物も意志に触れないように、いわば蔽われて、保留されたかがここに記されているのである。何故なら意志の、すなわち、欲念のいくたのものが刺激されたならば、主の神的慈悲の下に今後明らかになるように、人間は滅んでしまったからである。この二つの部分は―意志と理解は人間の中に何物もそれ以上には明確に区別されることはできないほどにも区別されていて、そのことをまた私は以下の事実から確実に知ることができたのである。すなわち、霊と天使との理解のいくたの物は頭または頭脳の左の部分に流れ入っており、意志のいくたの物はその右の部分に流れ入っていて、それは顔の方面でも同じようになっているのである。天使的な霊たちが流れ入るときは、かれらはこの上もなく柔かく空気がそよ吹くようにも流れ入ってくるが、悪い霊らが流れ入る時は、それは頭脳の左の部分に恐るべき幻想と信念をもって、また右の部分には欲念をもって洪水のように氾濫して流れ入るのであり、その流入は恰も幻想と欲念とが洪水のように氾濫するのに似ているのである。

 

 

 

天界の秘義642

 

 この凡てからその箱舟について先ずこのように記されていることが、そのゴファの木で作られたこととその館とその内と外とを瀝青で塗られたことと共に何を意味しているかが明らかである、すなわち、意志の部分である一つの部分が洪水から守られて、理解に属したかの部分のみが開かれており、それが16節に窓と扉と一階と二階と三階とにより記されているのである。こうした事柄はたれも現在まで些かも考えてもみなかったため、容易に信じられないのである。それでもそれらはきわめて真である。しかしこれらは人間の知らない隠れた意味のなかでも最も小さいまた最も全般的なものである。もしその個々の特殊なことが彼に告げられるならば、彼はその一つすらも把握することができないであろう。

 

 

 

天界の秘義646

 

創世記615節「このようにあなたはそれを作らなくてはならない。即ち、その箱舟の長さは三百キュビト、その広さは五十キュビト、その高さは三十キュビト。」前のように、ここの数によっても、残りのものが、それが僅かしかなかったことが意味されており、『長さ』はその聖さであり、『広さ』はその真理であり、『高さ』はその善である。

 

 

 

天界の秘義851

 

「箱舟は止まった」は再生を意味していることは、前に充分に示したように、『箱舟』に入れられていた物はことごとくその教会の人間の中に在った凡てのものを意味しているという事実から明白である。それで箱舟が『止まった』と言われるときは、それはこの人間が再生しつつあったことを意味するのである。文字の意義の関連からでは、箱舟が『止まること』により(前節に語られた)試練の後に続いておこる動揺が終わったことが意味されているように実際見えるからもしれないが、以下の記事から明らかとなるように、真で善いものについて抱かれる疑惑と不明なものとはそのようには停止しないで、長い間執拗に持続するのである。ここから内意では事柄は異なって連続していることが明らかであり、それらはアルカナ[秘義]であるため、それらを明らかにすることがここに許されている、それらは以下のようなものである、すなわち霊的な人も、天的な人のように、試練を受けた後は、同じく、主が『休まれること』となり、さらに同じように第七の月になるということである(天的な人のように第七日になるのではなくて、第七の月になるという事である)。(天的な人は主の休息[主が休まれること]であり、または安息日であり、第七日であることについては、前の84−88番を参照されたい)。しかしながら天的な人と霊的な人との間に相違が在るため、前の者の『休息』は原語では安息日を意味している言葉により表現され、後の者の『休息』は他の言葉により表現されていて、そこから彼は『ノア』と名づけられているが、ノアは元来『休息』を意味しているのである。

 

 

 

天界の秘義896

 

「ノアは箱舟の蔽いを取りのけて見た。」

 

これはいくたの誤謬が除かれると、信仰の諸真理の光が存在し、それを彼は承認し、またそれに対する信仰を持ったことを意味することは、蔽いを除くことの意義から明白であり、それは光をさえぎっているものをとり去ることである。『箱舟』により再生することになっていた古代教会の人間が意味されているため、『蔽い』により天界を、または光を見させないようにさえぎり、妨害しているもの以外には何ものも意味されるはずはない。妨げたものは誤謬であった。それでかれは『見た』と言われている。聖言には『見る』ことは理解し、信仰を持つことを意味している。ここではそれはその人間が諸真理を承認し、その諸真理に対する信仰を持ったことを意味している。真理を知ることはそれを承認することとは異なっており、それに対する信仰を持つこととはさらに全く異なっている。知ることは再生の最初の事柄であり、承認することは第二の事柄であり、信仰を持つことは第三の事柄である。知ることと承認することと信仰を持つこととの間にいかような相違のあるかは以下の事実から明白である、すなわち、ユダヤ人やもっともらしい理論により教義的な物を破壊しようと試みる者のように、最悪の人間でも知ることはできても、承認しないのであり、信じない者でも承認して、ある状態では説教もし、確認もし、熱意をもって説きつけさえもするが、しかし信者でない者は一人として信仰を持つことはできないのである。

 

 

 

天界の秘義896[2]

 

信仰を持ち、知り、承認し、信じる者たち、これらの者は仁慈を持っており、良心を持っている、それ故信仰はたれにもこれらの事柄がその者に真のものとなっていない限り、属性づけられることは決して出来ないのであり、即ち、彼は信仰を持っているとは言うことは出来ないのである。それ故このことが再生することである。単に信仰に属したことを知ることは、その者の理性からも同意されなくては、人間の記憶に属したものである。信仰に属したものを承認することは或る原因により、また或る目的のために生まれた合理的同意である。しかし信仰を持つことは良心に属している。すなわち良心を通して働かれる主に属している。このことは他生にいる者達から非常に明白である。単に知るに過ぎない者の多くは地獄にいるのである。承認している者の多くの者もまたそこにいるのである。それは身体の生命の中では彼らが承認したのは或る状態の中にいた時のみのことであって、他生で彼らがかつて他の者に説教し、教え、説きつけもした事柄が真であることを知ると、非常に驚き、それが彼らが前に説教したところのものとして、その記憶によみがえる時にのみそれを承認するためである。しかし信仰を持っていた者たちは凡て天界にいるのである。