2005年12月のみことば


クリスマスメッセージ

 クリスマスは、イエス・キリストの降誕(誕生)を祝う祭日です。クリスマスの中心は約二千年前にユダヤのべツレヘム村でお生まれになった神の子イエスであります。マリヤの子として生まれたみどり子イエスを中心に、祈りをささげ拝むのが正しい祝い方なのです。この赤ちゃんは、神様の愛、罪の赦し、新しきいのちなどの恵みをもたらすためこの世においでになった尊いお方であります。
 ですから、私たちはこの機会にイエス・キリスト様を御紹介して、少しでも皆様に知っていただきたいと思います。彼がどのようなお方かについては、色々な紹介の仕方があると思いますが、今回は彼のプロフィールをスケッチするような仕方でそれをしたいと思います。ここでは、彼の行動を表現する動詞を用いて説明したいと思います。

来 る
 まず、彼は自分の方から私たちのもとにおいで下さるお方です。この私に出会い祝福を与えるために、わざわざ神の座を降りて、遠くの異国とでも言える人の世においでになりました。クリスマスの夜に全く無防備な赤ちゃんとして、神の子がこの世においでになったのです。王座から降り、小さくなり、栄光のかがやきを隠して、私たちの最も近くに来られ同じ場に立つ者となられました。彼は長じて後、弟子たちを友だちとも兄弟姉妹とも呼び、最も身近な見方、仲介者となられました。

共に居る
 自分を大切にして下さる人が共に居ると言うことは、人にとって大きな助けとなります。たとえば、異国で言葉も習慣もわからない人に対して、「わたしはあなたがわたしを必要とする限り、時間を取って一緒に居てあげるよ」と言われたら、それは何と大きな助けと安心になることでしょうか。孤独や孤立は人間を病気にし、心身共に弱らせてしまいます。共に居る人が居るからこそ人間は人間であることが出来るのに、誰も寄り添う者が居なければ、とうていまともな生き方は出来ませんし、成長することも不可能です。実はイエス様は、またの名を「神われらと共に居ます」と言います。彼の名には深い意味があるのです。そのお名前からして、他の人々の隣人となり、共に居られるためにおいでになったことを表わしています。まさに名は体をあらわすとはこのことです。

与える
 今日では、私に電話をかけて来たり、会いに来たりする人々は、私たちから何かを得ることや受けることを期待していることが多いように思います。ひどい場合には、だましたり取ったりすることさえもする人々が私をうかがっていることさえあります。よきものを私に与えて、高め、より尊い者とするために来ることは少ないのです。ところが、イエス様がおいでになられたのは、よきものをお与えになるためであり、限界まで与え尽くすためでありました。これはもう人間業ではありません。神の子であられたから可能なことであったのです。彼は自分の生命さえ、この世の人々にお与えになりました。
 キリスト教では十字架が至高のシンボルでありますが、それは彼が自分のいのちをこの世の人々(そのなかにはあなたも私も含まれています)のために全く見返りなしに捧げられたしるしなのです。失礼なことを言うかも知れませんが、これをアクセサリーとして意味も知らずにかけているのはいかがなものかと思います。十字架はこの上なく神聖なものなのです。
 十字架は、神の子イエスが神の子として持って居られるすべてのよきものをこの私に与え尽くした上で、私につきまとっている諸悪、諸罪、死に至る病いなどすべての負荷を自分のものとするためのものでありました。なぜそんなことが起きたのか、不思議極まりない話です。しかしそれを解く鍵の言葉は、「愛」であります。この愛は恋愛や性愛の愛ではなく、愛される者を生かし高めてすべてを与える愛なのです。これが神の愛であり、すべての人々を生かす真実の愛なのです。この愛は赦す愛、生命を与える愛であり、すべて存在するものの源である愛であります。生きとし生けるもの、存在するすべては神の愛から出て、神の愛に帰るのです。

開 く
 「開く」の反対は何でしょう。もちろん閉じる、閉めるですが、それを用いた言葉は、口を閉ざさず、心を閉ざす、門戸を閉ざす、道を閉ざすなど、限りなくあります。何となしに暗く消極的な感じがします。しかし「開く」を用いれば、明るく積極的な感じがします。口を開いて語る、心を開く、門戸を開く、道を開くなどのよい表現があります。クリスマスはまさにこの「開く」に関係しています。クリスマスには、神が人間の救いの道を開き、今まで隠されていた奥義について口を開いて語られ、生命に至る道を開かれたのです。
 我々人間も、口を開いてやさしい言葉を語り、神を賛美して感謝と祈りをささげ、閉ざされた心を開いて神を受け入れると共に人を赦し、愛する者や困窮している人々にプレゼントをするために財布を開き、人を受け入れる道を開くなどするのが、クリスマスにふさわしい行動でありましょう。それが、平素行われるなら、一層すばらしいことです。
 クリスマスは神が御自身のすべてを開かれ、愛のすべてを示されたが故に、人間もそれにならって自らを神に向って開き神を受け入れ、隣人に対しても心と手を開くのです。

見つける
 聖書には、見つけるという表現がよく用いられています。例えば、「求めなさい、そうすれば与えられる。探しなさい。そうすれば、見つかる。」という聖句があります。高価なものや、失った大切なものを見つけるには、一所懸命探さねばなりません。
 クリスマスの夜、お生まれになったイエスを見つけたのは、熱心に探した人々でした。ことに東の国からイエスを拝みに来た三人の星占いたちは、生命をかけた旅の挙げ句にイエスに出会い彼を拝み、自分たちの労が報われたことを喜び合いました。神の子イエスが自ら私たちのもとにおいでになられたのですから、こちらも彼の方に向って出掛ける考えがあった方がよいのです。
 人間社会でよきもの、例えばよい友人や仲間、最善の進路などは熱心に、しかもあきらめることなく、ねばり強く探した方が良い結果を得ることが出来ます。私共のところには、キリスト教主義の社会福祉施設がありますが、そこには毎年2〜3人のドイツ人ボランティアが一年間の奉仕をします。彼らは勿論子どもたちや老人のために働くのですが、大切なことは、そこで本当の自分探しをして、それを発見することなのです。彼らはここに来るまでは、自分は何を学び、何を職業とすべきかは皆目検討がついていません。しかし一年間児童、老人そして職員や地域の人々と一所懸命ふれ合うなかで、何が人々の役に立ち、また自己の成長に役立つのか見つけて、故国での学業の方向を決めて行くのです。

 やはり、熱心に労し探さねば真の生命に至る道は見つかりません。そのために、これをお読みの皆様方が、クリスマスには教会の門をたたくことをおすすめします。教会に来るにはそれなりの努力が必要ですが、労することなく何か手に入れることは不可能です。どうか今年のクリスマスには、今迄に経験したことのない、イエス様とのよき出会いがありますようにと祈ります。

 
愛泉教会  森田弘道牧師
(もりた ひろみち)




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