2011年5月のみことば |
そこで、彼らが、「主よ、そのパンをいつもわたしたちにください」と言うと、イエスは言われた。「わたしが命のパンである。わたしのもとに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者は決して渇くことがない。しかし、前にも言ったように、あなたがたはわたしを見ているのに、信じない。父がわたしにお与えになる人は皆、わたしのところに来る。わたしのもとに来る人を、わたしは決して追い出さない。わたしが天から降って来たのは、自分の意志を行うためではなく、わたしをお遣わしになった方の御心を行うためである。わたしをお遣わしになった方の御心とは、わたしに与えてくださった人を一人も失わないで、終わりの日に復活させることである。わたしの父の御心は、子を見て信じる者が皆永遠の命を得ることであり、わたしがその人を終わりの日に復活させることだからである。」 (ヨハネによる福音書6章34節〜40節) |
今日は、「わたしが生命のパンである」(35節)と、主がおっしゃったその御言葉を中心にして、この大事なお言葉の前後もドラマにして、お話をしてみたいと思います。 先ず第一幕は、タプハという村で、五つのパンと二匹の魚で、五千人の大衆を満腹させられた奇蹟であります。 タプハは、ガリラヤ湖の北西岸にあります。七つの泉が湧き出ていたのが、その村の名の由来なのです。 時は、ユダヤ教の三大祭りの一つ、過越祭が近づいた、早春であります。 タプハの野は、すでに緑の草でおおわれています。赤や黄色の様々な野の草花も見られました。ガリラヤ湖を近くにして、正に一幅の絵でした。 その日はもう午後。今日も今日とて、主イエスの御前には、大群衆であります。彼らは主の名声を聞いて、遠近各地から、主のなさる癒しの奇蹟や、各自の耳にこだまするその名説教にありつこうと、やって来ているのでした。 主イエスはこの大群衆を見て、弟子のフィリポに言われます。 「この人々に、どうやってパンを食べさせようか。」 驚いて、フィリポが答えます。 「二百デナリの量のパンがあっても、こんなに大勢では、ひとかけらずつにも足りないでしょう。」 そばにいた弟子のアンデレが口を出しました。 「この少年が、彼の弁当を先生に差し上げる、と言っていますよ。」 「それは、有難う。」 主イエスは弟子たちに命じて、群衆をその青草の上に座らせました。 そして、少年が差し出した大麦のパン五つと、干し魚二匹を手に取ると、天を仰いで父なる神に感謝し、自らそれらを裂いて、弟子達に渡し、弟子達は群集にとどけました。 その結果は正に驚異でした。五千人以上の群集は、一人残らず満腹して、口々に驚嘆して叫び出しました。 「大いなる預言者が、われらの中に起こった。もしやこの人こそ、約束されたあの人、メシヤではあるまいか?!」 第二幕は、カファルナウムの路上での会話であります。 このカファルナウムの町は、昨日のあの大いなる奇蹟がなされたタプハの村から東3qにございます。 ガリラヤ湖の北岸の中心地であるこの町は、当時はかなり繁栄した港町でした。 交易のための税関所があって、東方の国々から、上ヨルダン川を越えて来る商人たちから税を徴収していました。 それで、ローマ軍の軍隊も常駐しておりました。素晴らしい会堂(シナゴーグ)が、何と駐留軍の敬神の隊長から、寄進されて建っていました。(ルカ7:4.5) さて、カファルナウムの安息日の朝は、まだ静かでした。先方に、主イエスと弟子たちを見つけた幾人かの一人が、不平そうに、主イエスに近づいて言います。 「ラビ(先生)、いつここにおいでになったのですか。」(昨日は、わたしたちを煙にまいて、雲隠れなさったのに) 主イエスは、その彼にきっぱりとおっしゃいました。 「はっきり言って置きましょう。あなたがたがわたしを捜しているのは、しるしを見たからではなく、パンを食べて満腹したからだ。朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子(わたし)が、あなたがたに与える食べ物である。わたしは父なる神から全権を委ねられてきたのだから。」 それに対して彼らは言いました。 「神の御心に添うためには、何をすればよいのでしょうか。」 主イエスは答えられた。 「神のつかわしたもうた者を信ずること、これがいちばん神の御心に添うことだ。」 「では、あなたは何か証拠を見せて下さいますか。わたしどもがそれを見て、あなたを信ずることができるような。 わたしどもの先祖は荒野でマナを食べました。聖書にも、『彼は天からパンを降らせて彼らに食べさせた』(詩78.24)と書いてあります。」 それに対して、主イエスはお答えになります。 「モーセの事を言っているようだが、荒野で先祖たちにパンを与えたのは、彼ではない。それをなさったのは、天におられるわたしの父だ。 そしてわたしは、この世に命を与えるために、父が天からつかわされた生命のパンである。だから、このパンを食べる者は、決して死ぬことはなく、永遠の生命を得るのだ。」 「だったら先生。そのパンを今、わたしどもに与えてください。」と彼らは言うのでした。そしてふと気付くと、彼らの目の前は、シナゴーグ(ユダヤ人たちの会堂)でした。 第三幕は、シナゴーグ内での激しい論争です。そしてそれは、残念にも悲劇となったのです。 カファルナウムのシナゴーグに、若き預言者イエスが来られたと知るや、満堂のユダヤ人たちは道を開けて、主イエスと十二弟子らを聖壇の前へと導きました。満堂の会衆も彼が来たからには、何か珍しい奇蹟を見せてくれるに違いないと、期待をはずませたからであります。 ところが、今回だけは、物の見事に期待外れとなりました。それは開口一番に、主イエスが言われた御言葉によってであります。 主イエスは、満堂の会衆を見渡すと、おっしゃいました。 「わたしはあなたがたのところに天からくだって来た生命のパンです。このパンを食べる者は、だれも決して死ぬことはないのです。」 ああ、それは何と会衆の意表を突いた、大胆な言葉であり、また宣言であったことでしょう。 早速に、聖壇近くの、会堂の上座に居たパリサイ派の学者たちから、「ノー、ノー」との抗議が飛び出しました。しかし、会衆はまだその時は沈黙していました。 「もう一度言って見ろ。わたしは天から下って来た生命のパンである。」と。 「この若造!われわれは、お前の素性を知っている。お前はあのナザレ村の大工ヨセフの倅ではないか。お前の母はマリヤ。お前の兄弟たちも、妹たちも知っているぞ。どうして、わたしは天よりくだって来たなどと言うのか。」 「そうだ、そうだ。」と言う者もあったが、主イエスは、その抗議は意に介せずに、つづけて言われます。 「わたしは生命のパンである。わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、だれでも決して死ぬことはない。」 「何て、けがらわしい事を言うのだ。おれたちユダヤ人は、血をすすることは厳禁されているぞ。」 「そうだ、そうだ。」 「もう、こいつの話など聞く必要はない。」 「そうだ、そうだ。」との声が再び上がった。 と、その時に、「こいつを会堂からつまみ出せ」との声が起こった。 すると、会衆はなだれを打って、主イエスに迫ろうとした瞬間、主イエスは身をひるがえして、会堂を出て行かれた。十二弟子も、その後について出て行きました。 第四幕は、人影なき寂しい場所での、主イエスと弟子たちとの会話であります。 その前に長い沈黙があったが、沈黙を破ったのは、主に愛されたあの若い弟子ヨハネだった。彼は、主を慰めるかのように言った。 「主よ。あんな奴ら、まったく気にしなくても平気ですね。でも、あんな連中を恐れて、主から多くの者たちが離れてしまうのは、残念でなりません。」 主イエスは、その時に十二弟子を見渡して、おっしゃいました。 「あなたがたも離れて行きたいのか。」 驚いて、シモン・ペトロが言いました。 「主よ、わたしたちはだれのところへ行きましょうか。あなたは永遠の命の言葉を持っておられます。あなたこそ神の聖者であると、わたしたちは信じ、また知っています。」 すると、主イエスは言われました。 「あなたがた十二人は、わたしが選んだのではないか。ところが、その中の一人は悪魔だ。」これは、イスカリオテのシモンの子ユダのことを言われたのである。このユダは、十二人の弟子の一人でありながら、イエスを裏切ろうとしていた、とヨハネは書いておりますね。 皆さん。このヨハネの証言の言葉は、代々にわたって、すべてのクリスチャンたちに対して、警告の言葉になっております。この前の太平洋戦争が起ころうとしている時でした。日本中は、断固米英を撃つべしと、熱気がみなぎっていました。 その時、浅草公会堂において、「基督教撲滅大講演会」が開催されました。キリスト教会は、米英のスパイの温床であるとの檄文が、立て看板には書かれていました。わたしは一週間、毎夜、隅田川公園のベンチで、この講演会が、取り止めになるように祈りました。が、いよいよその講演会が、満堂の聴衆の下に始まって、その半ばとなった時、元救世軍大尉が、万雷の拍手をあびて壇上に立ち、そして落ちつき払って言いました。 「万堂の諸君。わたしはもと救世軍大尉だった。だから、救世軍を悪く言うつもりはない。ただ、この日本が可愛いのだ。だから、救世軍を叩き潰せ。教会を叩きつぶせと言うのだ!」 たくみに会衆の愛国心に火をつけたからたまりません。そうだ。そうだとの声が上がったその時でした。主は、「いま立ち上がれ」と、わたしの心を突き上げられました。 幸いにわたしは、講壇の直ぐ下の前列の椅子にかけていました。主につき上げられて救世軍の軍服を着ていたわたしは立ち上がりました。そして会衆に向かって、手を振りながら言いました。 「皆さん。今度はわたしが話しましょう。わたしに話をさせてください。」と。 一瞬、公会堂内は、水を打ったように静まったかと思うと、急に、 「何を言う。この国賊。売国奴。こいつを叩き殺せ!」 という叫びと共に、バタバタと幾人もの者が、わたし目がけて、通路をかけて来ました。 あわやわたしが彼らの餌食になろうとした時でした。どこにいたのか、警官らがわたしを取り囲んだのです。そして言いました。 「この人に手を触れるな。手を触れた者は検束する。離れろ!」 今や騒然となった講演会は中止となり、わたしは別室で守られ、人々は静かに公会堂を去りました。だれが予測していたでしょうか。そうなると。 神が直接お働きになるときは、人は無力なものなのです。生ける命の主こそ、ひとりほめまつるべき御方なのであります。 ところで皆さん。わたしは先日、礼拝で若い人々に奨めました。 それは、「主イエス・キリスト様を信じたなら、この御方と約束しなさい。わたしはどんなことがあっても、あなたをお慕いして、ついてまいりますと。」 わたしも青年時代にそうしたからです。 弟子のペトロは、そのような約束を主にした人でした。でも途中でくじけてしまいました。主が彼におっしゃったように、ニワトリが二度鳴く前に三度、主を知らないと言ってしまい、主との約束を思い出して、外に出てさめざめと泣きました。もしペトロが、主と何の約束もしなかったら、ペトロがあれほど激しく泣くことはなかったと思います。 でも、主は、ペトロがかつて御自身に約束してくれたことを、決してお忘れにはならなかったのです。だから、悔い改めたペテロを再び立ち直らせて、ペトロを愛し、信頼し、引き立てて、お用いくださったのです。 若いみなさん。信じたら、主と御約束をして置きなさい。どんな事があっても、わたしは主を愛してついてまいりますと。主はあなた方の人生を必ず保証してくださいます。」 主は、わたしたちのために天から下って来た生命のパンとして、十字架上で、みずからの尊い御体を裂き、御血を流されたほど、わたしたちみんなをお愛しくださっているのです。それを心に銘記いたしましょう。アーメン。 |
埼玉新生教会 中村忠明牧師 (95歳) (なかむら ただあき) |
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