2011年4月のみことば |
愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです。神はわたしたちに、御自分の霊を分け与えてくださいました。このことから、わたしたちが神の内にとどまり、神もわたしたちの内にとどまってくださることが分かります。わたしたちはまた、御父が御子を世に救い主として遣わされたことを見、またそのことを証ししています。イエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまります。わたしたちは、わたしたちに対する神の愛を知り、また信じています。神は愛です。愛にとどまる人は、神の内にとどまり、神もその人の内にとどまってくださいます。こうして、愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。この世でわたしたちも、イエスのようであるからです。愛には恐れがない。完全な愛は恐れを締め出します。なぜなら、恐れは罰を伴い、恐れる者には愛が全うされていないからです。わたしたちが愛すのは、神がまずわたしたちを愛してくださったからです。「神を愛している」と言いながら兄弟を憎む者が入れば、それは偽り者です。目に見える兄弟を愛さない者は、目に見えない神を愛することができません。神を愛する人は、兄弟をも愛すべきです。これが、神から受けた掟です。 (ヨハネの手紙T 4章7節〜21節) |
2011年3月11日午後2時46分、巨大地震が東日本を襲いました。マグニチュード9.0を記録し、甚大な被害をもたらしました。さらに地震による津波は多くの尊い人命と家屋を呑み込みました。また、原子力発電所の事故も加わり、不安の中にある方々、避難している方々や愛する家族の安否が分からない方々等、悲しみと恐れと苦しみがたくさんあります。「神はわたしたちの避けどころ、わたしたちの砦。苦難のとき、必ずそこにいまして助けてくださる。わたしたちは決して恐れない、地が姿を変え、山々が揺らいで海の中に移るとも、海の水が騒ぎ、沸き返り、その高ぶるさまに山々が震えるとも。」(詩編46:2〜4)。 日本に対する、神の偉大な愛が始まります。神は皆さんを愛しておられます。もう一度日本にリバイバルを与えて下さい。日本の魂を起こして下さい。神の愛を分からせて下さい。「心配しないで良い。わたしがあなたとともにいる。わたしがあなたを助ける。」といわれる神の名前を呼べば良いのです。神、わたしの心にいらっしゃって下さい。今の日本を助けてくださいと祈りましょう。日本に対する神の心は愛です。 「執り成しの祈りが出来ますように、主よ、力を下さり聖霊に満たして下さい。いつも愛し信じます。」賀川豊彦牧師の中国人を愛する心からのお祈りです。賀川牧師は中国で生活しながら貧しい人や病の人達のためイエスの愛を持って神の栄光のために自分を犠牲にしました。いつも自分より隣人を愛し助けました。日本が中国を侵略して多くの中国人を殺したことや過ちを犯したことに対して涙を流しながら中国人のため悔い改めの祈りをしました。また、ハンセン病の人たちの面倒を見ました。自分の舌で膿をなめて治療しました。それで中国人に信頼を受けました。そして第二次世界戦争が終って中国にいる日本人が日本に帰るとき、中国人達は一人の日本人も日本に帰れないように殺そうと言いましたが、中国のジャンケソク総督は、確かに日本人は我らの敵だ、しかし我らのために今も熱い涙を流しながら祈る賀川豊彦牧師を思うと、わたしは彼を憎むことが出来ないと言いながら、一人の日本人も怪我させず日本に帰るように命令をして、200万人の日本人が無事に日本に帰ったそうです。これがイエス・キリストの愛です。「悔い改め」はギリシャ語で「メタノイア(μετανοια)」と言います。これを逆に読むと「アイノタメ」です。今、日本人が巨大地震を通して一つになります。互いに愛し助け合います。神の愛が実現されます。世界の国がイエス・キリストの愛で一つになります。日本の国のため心から祈り支援しボランティアの人たちがたくさん来ています。 使徒ヨハネは「愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。」と言います。愛である「神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。」また、「わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。」とおっしゃいます。使徒ヨハネは、神は愛だと言いました。愛は信徒の生きる方向を決める倫理の根幹なのでいつも信徒の生活を通じて現わされなければなりません。ヨハネは、愛さない者は神が分からないと言いました。新郎と花嫁の関係が愛の関係のように神とわたしたちの信徒たちの関係も同じく愛の関係です。聖書の二つの言葉は神の愛と隣人の愛です。そしてこの二つは絶対に別の物ではありません。「わたしを愛する人をわたしも愛し、わたしを捜し求める人はわたしを見出す。」(箴言8:17) 使徒ヨハネは「愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。」(ヨハネT 4:11)と言いました。神は愛だから神の子である信徒たちは互いに愛さなければなりません。わたしたちの人生のすべての不幸と紛争の根本原因は、互いに愛さなくて憎むことにあるからです。互いに愛する所には平和と自由と祝福があります。しかし互いに憎む時、紛争と破滅と呪いがあります。また愛は神の恵みです。「あなたがたに新しい掟を与える。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさいと書いてあります。」(ヨハネ13:34)愛は、一緒に歩むことです。愛は、心を分かち合うことです。愛は、喜びをともにすることです。愛は、永遠に残るものです。愛は、いつも変わらずあなたとともにいます。 使徒ヨハネはイエスが神の子であることを公に言い表す人はだれでも、神がその人の内にとどまってくださり、その人も神の内にとどまりますと言いました。イエスが神の子であることを公に言い表すのはキリストの神性を告白することです。「だから、だれでも人々の前で自分をわたしの仲間であると言い表すものは、わたしも天の父の前で、その人をわたしの仲間であると言い表す」と言いました。(マタイ10:32)「あなたがたがわたしにつながっており、わたしの言葉があなたがたの内にいつもあるならば、望むものを何でも願いなさい。そうすればかなえられる」とおっしゃいます。(ヨハネ15:7) 愛がわたしたちの内に全うされているので、裁きの日に確信を持つことができます。人がこの世の中に生きながら恐れることは、世の危険がいつ来るか知らないからです。しかし神の愛の中にいる信徒たちは一生恐れないで生きて行くことができます。「死の陰の谷を行くときも、わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」(詩編23:4)。聖書に言及された神の多くの祝福はわたしたちのためです。 先にわたしたちを愛された神の愛は、わたしたち信徒がこの世の中で実践しなければならない愛の規準を提示しています。兄弟姉妹と隣人に対する愛は神の命令です。したがって神から受けた掟を信徒たちは従順に従う力を付ける事です。神の御心に対してわたしたちは順従になることだけです。新約においてはキリスト教の愛を現わすために、ギリシャ語で普通書かれる四つの愛とは、エロス(性的な愛)、ストルーゲ(家族・血族に対する愛)、フィリア(友人に対する友情の愛)、アガペー(神の愛)です。ヨハネ福音書3:16に、「神は、その独り子をお与えになったほどに、世を愛された。独り子を信じる者が一人も滅びないで、永遠の命を得るためである」とアガペーの愛が示されています。 使徒ヨハネは「神は愛です」と言いました。「こころ」は、だれにも見えないけれど「こころづかい」は見える。「思い」は見えないけれど「思いやり」はだれにでも見えると言うように、神の愛はイエス・キリストを通じてわたしたちに立証されました。このようにわたしたちの愛も行いによって立証されなければなりません。いくらわたしたちが神を信じて愛すると告白しても行いによって立証されなければそれは偽りです。だからわたしたちは偽りのない愛、真実の愛を実践する信徒たちにならなければなりません。神の愛がいつまでも日本の国と皆さまにありますように心から祈ります。 「人に神を信じる心があることは、木に根があることのようで、愛すること憐れむ心がなければ、その木の根が枯れたようだ。愛する心は水のようで根を豊かにする。秋と冬に木の葉が落ちても、その根が枯れない。いつも春のようで芽が生えて花が満開で、その葉も繁茂している。神を敬って御言葉を信じれば、花が咲いて、枝ごとに実を一杯に結び、その実は深みがあって甚だしく甘い。その胴体は松や五葉松のように、雪と霜が来ても萎むようなことがない。」(同志社大学の創立者新島襄牧師の生家にある李樹廷先生の遺品の中で。)「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いをささげ、求めているものを神に打ち明けなさい。そうすれば、あらゆる人知を超える神の平和が、あなたがたの心と考えとをキリスト・イエスによって守るでしょう。」(フィリピ4:6〜7)今の苦難と試練と絶望を乗り越えますように、神を知らない人々が真のイエス・キリストを信じますように、愛であるイエス・キリストに心から祈りましょう。 |
大宮教会 許 昌範伝道師 (ホウ チャンボム) |
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