2010年7月のみことば

この岩を拠り所として

 イエスは、フィリポ・カイサリア地方に行ったとき、弟子たちに、「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」とお尋ねになった。弟子たちは言った。「『洗礼者ヨハネだ』と言う人も、『エリヤだ』と言う人もいます。ほかに、『エレミヤだ』とか、『預言者の一人だ』と言う人もいます。」 イエスが言われた。「それでは、あなたがたはわたしを何者だと言うのか。」 シモン・ペトロが、「あなたはメシア、生ける神の子です」と答えた。すると、イエスはお答えになった。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。陰府の力もこれに対抗できない。
               (マタイによる福音書16章13節〜18節)


 主の年2010年のこの年に、ドイツのオーバアマガウ村での受難劇鑑賞と主イエス様が歩まれたイスラエル旅行に行くことが出来ました。ドイツには受難劇の鑑賞のためにだけ立ち寄り、受難劇の興奮もさめやらぬ中イスラエルへと向かう旅程は、少々ハードな日程でした。しかし、聖書のことばを体験的に受け止めることによって、また聖書の言葉が心深く、そして新たに体感出来た時となりました。
 イスラエルを訪れるのは2回目です。前回行くことが出来なかった場所に行き、また、うろ覚えの場所や勘違いしていた場所など再度訪れて再確認することが出来ました。

 フィリポ・カイサリヤ地方に、イエス様と弟子たちが行ったときのことが、マタイによる福音書16章13節から記されています。このフィリポ・カイサリヤ地方にも今回行くことが出来ました。
 この地方は、主イエス様の伝道地の中心となっていたガリラヤ湖から、北東40キロほどのところにあります。この聖書箇所は、主イエス様が弟子たちに問いかけをして、シモン・ペトロが信仰を告白する大事な場面です。ですから私は、淋しいところに行ったかのように考えていました。弟子たちと静かに、深く向き合える場所であったのではないかと想像していました。しかし、実際はその反対であったようです。

 この地は、偶像に満ちていた場所でした。特にシリヤの神々の神殿があり、ローマ時代にはパンの神(牧羊神)の神殿があったりした地です。
 それには、当然理由があります。現在も水が豊かに流れています。この水の流れは、ヨルダン川へ流れ下る一つの水源です。「夏になるまで岩山から水が湧き溢れ出てきます。3月頃に行くと、道まで溢れ、その水の冷たさに吃驚。鱒が優雅に泳ぐ姿を川岸から見ることが出来る」とのことでした。この度行った6月上旬にも、澄んだ豊かな水が岩の下から押し出されるように流れていました。水のあるところに、人々は集まります。偶像の神々を信仰する人々、また、北から地中海に出る道の要所にもなっていますから、多くの人々が行き交う地でありました。

 このような地で主イエス様は、弟子たちにご自分のことをお聞きになったのです。
「人々は、人の子のことを何者だと言っているか」(13節)。弟子たちは、『洗礼者ヨハネだ』、『エリヤだ』、『エレミヤだ』とか『預言者の一人だ』(14節)と答えました。これは、前振りでありました。本当に聞きたかったことは、「それでは、あなたがたはわたしを何者だというのか」(15節)との問いかけでありました。
 主イエス様は、弟子たちを訓練しつつ、共に歩むことが出来る日に、限りがありることを知っていました。主なる神より託されていたこと。それは、主イエス様の果たすべき使命である「十字架への道」に向けての準備期間の終わりが、迫って来ていました。弟子たちが主イエスより委ねられる使命を受け継げることができるのか。イエス様にとって大変大事なことでした。そのような大事なことを問う場所としては、ふさわしくないように思えます。しかし、主イエス様は、偶像の神々が満ちている地において弟子たちに問うのです。
 
 これは、今の時代に生き、この日本と言う地、また主イエス・キリストを知らない人々が多数いるわたしたちの生活の場と似ています。主イエス様のことを、他の人がどのように言っているのかを語るのは、簡単です。自分に関係ないこと、責任の無いことですからたやすいことです。しかし、主イエス様は「あなたはわたしのことを何者だというか」(15節)との問いかけをされます。人の世は、《いつも・どこでも》人々がお互いに、無関心な状態であり、自分のことしか考えられない社会です。21世紀においてこの状況は、ますます最悪な状況を深めています。このような社会で、自分の思いや、立場を表明し、その告白を明確にすることは難しく、勇気がいります。

 シモン・ペトロが弟子を代表するように「あなたはメシア、生ける神の子です。」(16節)と答えました。主イエス様の使命を果たすための、弟子たちの訓練は整えられて来ていました。主なる神様ご自身が、シモン・ペトロや他の弟子たちの心に語りかけ、信仰の告白を言い表すことが出来るように導いておられたのです。「シモン・バルヨナ、あなたは幸いだ。あなたにこのことを現したのは、人間ではなく、わたしの天の父なのだ。」(17節)
 わたしたちのいるところがどのような状況下にあっても、主なる神様は「あなたはイエスを何者だと思うか」と問われる方です。

 主イエス様は、引き続きシモンに語られています。「わたしも言っておく。あなたはペトロ。わたしはこの岩の上にわたしの教会を建てる。」(18節c)主イエス様が語られた「この岩」とは、シモン・ペトロの信仰告白を指しています。シモンがこの信仰を言い表せたことは、主なる神様の導きによることです。神様ご自身によって、「主なるイエス様が神の子である」との信仰に立つ霊的な理解を得ることが出来ました。ここに主イエス様とペトロとの間に、大きな岩のような、微動だにしない存在感が生み出されたことでもあります。
 
 旧約聖書には、主なる神様は「岩」とか「山」とか「砦」と言うような言葉を持って、表現されています。イスラエルの国では、岩を良く目にするからこのような表現で主なる神様をあらわしているかと思いますと、その反対です。私たち日本人が「岩」、「山」をイメージするのと同じような環境が、常に目にしやすいと考えるならば、それは間違いです。
 イスラエルの人々が常に目にする「山」とは、山肌がくっきりと見える丘のような山です。また、そこには大きな木が森を造るように生えてはいません。丘と表現する場所に、もう少し高さを加え大きくしたような山々が連なります。その山は、荒れ地で乾期には草も生えていない地です。そびえ立つ山・岩は、フィリポ・カイザイリヤ地方に行かなければ、日本人がイメージする山・岩はないと言って良いと思います。 まさに岩がドッシリと自分を覆い隠すようにそびえ立ち、微動だにすることのない山がわたしを守るように存在している状況を感じ、主なる神様の表現として語っています。

 シモン・ペトロは、神様ご自身の導きにより岩なる神への信仰を告白したことです。自ら告白させて頂いた信仰に立って、岩なる神様の守りがペトロの信仰を成長させ、強くさせ、前進させる歩みとなました。

 スコットランドの海岸に建つある古城に有名な地下牢があります。その牢は固い岩盤をくりぬいて造られたもので、ボトル型地下牢と呼ばれています。深さは1.8bで、入り口の部分は人がやっと通り抜けられるくらいの穴が開いています。地下牢の下の方は円錐形にくり抜かれています。てっぺんまでは恐らく3bはあるでしょう。丸くなった壁は下に向かってえぐられていて、一番底の直径が最も大きくなっています。フラスコのように円錐形に広がった部分はとても深くて、入り口のところまで手が届きません。ですからいったんこの地下牢に落とされると誰も逃げ出すことができなかったのです。
 城主はこの地下牢に投獄した囚人たちがたちまち狂気に陥っていくことに気づきました。ところが例外が一人いたのです。その囚人は何週間もこの地下牢に閉じ込められたのに、なお正気を失うことがありませんでした。看守たちは彼を引き上げてその理由を探ろうとしました。驚いたことに秘密は彼がポケットに入れていた6つの小石にあったのです。

 囚人の話によると、円錐形のような地下牢とそこにある暗闇は正気を支える拠り所を一切奪い取ろうとしました。そこで彼は正気を失いそうになると、隠し持っていた小石を一度に一つずつ片方のポケットから出して、もう片方のポケットに移しながら数えていったのです。手元には6つの小石があります。自分の外側に変わることのない拠り所が確保されたので正気を失わずに済んだというのです。彼の精神が絶え間なく押し迫る悪夢にさいなまされても、自分の外側に確かな拠り所を持っていたいので、そこで心が安らぐことができたと説明しました。
 安心を求めて自分の中に求めていく私たちですが、その自分が如何に頼りない状態、頼れる存在でないことを知ります。たった小石6つが自分と他者との関係を確保することを支えてくれるのものであったのか。小石になることも出来ないものです。自分以外には、私たちはなれません。(「エマオの道で」霊想書 より抜粋  著者:アメリカの合同メソジスト教会教職・旧約学者であるデニス・F・キンロー師)

 続けてこのように書かれています。
 「多くの現代思想の主張とは反対に自我を支える鍵は人間の内側にはないということです。自分の外側に揺れ動くことのない永遠なる拠り所を持たなければ、私たちはすぐにさまよい出て、現実との繋がりを失ってしまいます。このことから考えてみても、私たちが他者との関係に生きるように造られていることが分かります。その絶対的な他者こそ神であられ、私たちをお作りなった方です。」

 シモン・ペトロが弟子たちを代表するように、「主なるイエス様を生ける神の子です。」と言い表した信仰の告白は、私たち一人一人の告白であるべきです。その信仰は、私たち人間の生きる意味と目的を明確にして、神と共に歩むことが最高の祝福であることを教えてくれます。永遠から永遠に変わらない絶対的な他者なる神様との出会いを、今日という日にすべきです。
 
 信仰を言い表したくても、「自信がない」と考えてしまう私たちでもあります。シモンもまた、立派な信仰の告白をしたと賞賛されたかと思うまもなく主イエス様に「サタン、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をする者。神のことを思わず、人間のことを思っている。」(23節)と叱責されてしまいました。まだまだ「主に従って歩む者としてふさわしい者」と言われるにはほど遠い者でありました。しかし、イエス様はその資格がないような者を、造り変えることが出来る方としてこの世に来てくださいました。そして、十字架上の贖いの恵みは、ふさわしくない者をふさわしい者と造り変えてくださいます。この救いの岩なるお方に、守られて歩む日々を送りましょう。 

浦和別所教会 山田称子牧師
(やまだ しょうこ)
※ 写真は上から、「フィリポ・カイザリアの源泉」 「フィリポ・カイザリアの岩山」 「ペテロの再召命の像」  (山田牧師提供)




今月のみことば              H O M E