2010年2月のみことば

私の目にあなたは高価で尊い

 わたしの目にあなたは値高く、貴く
 わたしはあなたを愛し
 あなたの身代わりとして人を与え
 国々をあなたの魂の代わりとする。
               (イザヤ書43章4節)

【はじめに】
 自分にとって「宝物」は何でしょうか?誰かからもらったものだったり、昔から大切にしているものだったり、誰しもが自分にとって特別な意味を持つ「宝物」を持っていることでしょう。それも一つとは限らず、たくさん「宝物」があるかもしれません。私にとっても宝物はいろいろあって、一つ選べと言われたら難しいのですが、明治37年出版の講壇用聖書が宝物です。

 明治37年を西暦で言うと1904年になりますので、今から100年以上も前のものになります。古い聖書と言えば文語訳聖書を思い浮かべますが、これは文語訳より前の「明治元訳」と呼ばれる聖書です。1873年(明治6年)ごろから翻訳が始められ、1887年(明治20年)に全書簡の翻訳が終わり、出版に至りました。この翻訳には今から150年前(1859年)に来日したヘボン宣教師が深く関わっています。

 ちなみに今で言う「文語訳聖書」の成り立ちは、まず1917年(大正6年)に新訳のみが翻訳し直されました。それは「大正改訳」と呼ばれます。旧約部分も改訳が進められていたのですが、戦争なども相まって完成には至りませんでした。その「大正改訳」と「明治元訳」の旧約部分が合わさったものが今日では「文語訳」と呼ばれる聖書になっています。

 話がわき道にそれましたが、この聖書を見るとき、歴史の重みを感じます。しかし、私にとって大切な宝物であったとしても、他の人からすれば全く価値がないものである場合もあります。私がこの聖書を入手するきっかけになったのもそのようなことでした。

 この聖書はある方から譲り受けたのですが、その方も誰かからもらったらしく、「古くて大きくてじゃまだから捨てようと思っていた」との事だったので、古いものにロマンを感じるところの私は、早速その聖書が捨てられてはもったいないと思い、譲り受けました。そんな出来事を経て、この聖書は私の手元にきたのでした。以後、宝物として大事に持っています。

【聖書箇所の概要】
 今日開かれた聖書は予言者イザヤによって語られた、イスラエルへの救いの約束、バビロン捕囚からの解放の予言です。天地万物をお造りになった真の神様が、イスラエルの民に語りかけます。「私はあなたを買い取った、私はあなたの名を呼んだ、あなたは私のものだ」と。自国イスラエルからバビロンへと連れ去られていたイスラエルの民を、神様は代価をもって買い取り、奴隷の身分から解放させ、自由な身分とし、自国へ連れ戻すと約束をしているのです。それは神様の愛のなせる業です。神様は全ての民の中でもっとも小さく弱いイスラエルの民をお選びになり、大きな犠牲を払ってでもあなた方を助けると約束してくださるのです。

【内容】
1.神様が価値を与えてくださる

 「わたしの目にあなたは価高く、貴く」とあります。神様が私たちに価値を与え、価値を見いだしてくださるのです。小さく弱い民イスラエル、そして罪人であり、神様に背く私たちですら、神様は愛してくださり、私たちを宝物として扱い、価値を見いだしてくださるのです。

 わたしはコレクションとして、ジュースの空き缶や、空きペットボトル、紙パックなどを集めています。高校2年生の頃から集めており、相当の数が集まっています。あまりたくさんあるので、現物はおいておかず、写真を撮っています。おそらく3000〜4000種類ぐらいはすでに集まっているでしょう。単純計算で12〜13年の間に1日1本のペースで集めてきたことになります。

 「そんなことをしてなんになるのか」と思われるかもしれません。しかし集めてみるとなかなかおもしろいのです。どこかに旅行などに行ったときにはその土地ならではのジュースを探してみるのはもちろんの事、身近なコンビニでも新商品がでればそれを買いますし、中身は同じなのにパッケージだけが違うものがあったりもします。おそらく地域でデザインを分けているのだと思います。時々は以前買ったことを忘れて同じものを買ってしまい、えもいわれぬ悔しさを味わったりします。そんな感じですので、自分ではおそらくこれは観察力を養うトレーニングにもなっているだろうと思っているのですが、普通の方には何ら価値のない空き缶でも、わたしにとっては価値があります。

 神様から見た私たちの価値も、もしかしたらそれと似ているのではないかと思うことがあります。私たちは弱く、小さく、罪人で、偉大な神様の前では虫けらほどの価値もない存在です。けれども、その偉大な神様が、「あなたは高価で尊い」と語りかけてくださるのです。その証拠に、私たちを罪からあがなうために、独り子の命を代償にして、私たちを救いへと招いてくださいました。神様が私たちに付けてくださる価値は、「神様の子供」であるということです。全知全能で天地万物を造られた真の神様の子供として歩めることは、ほかの何者によってもえられる価値ではありません。

2.自分の価値に気づこう
 私たちは、神様が与えてくださる価値に目を向けたいものです。自分の欠点や弱さ、過去の数々の出来事に目を向けるとき、どうしても落ち込んだり、自己嫌悪に陥ったりすることがあります。反対に、自分の才能を誇ったり、地位や名誉に固執して高ぶり、自分を大きく見せようと思ったりもします。どちらにしても、本当にあるべき自分の姿を見失っています。神様が愛してくださる本当の自分、等身大の自分の姿に気付きたいものです。

 聖書学校の事務をしている姉妹は、美術品関係の仕事にも携わっておられる方ですが、品物の価値を見る目をもっている方です。ある時厨房に陶器の器が置いてありました。わたしが見てもただの皿にしか見えないのですが、その方が見たときには「これは備前ね」とか、「これは値打ちのあるものよ」と、品物の本当の価値を見抜くことができます。そして、その価値を知る前は何の変哲もない皿、普通の皿として何気なく見、扱っていたとしても、本当の価値を知った後は、「大切に扱わなくてはならないな」という気持ちになります。

 私たちへの神様の取り扱いもそうです。神様が「あなたは高価で尊い」と、私たちを取り扱ってくださいます。自分で自分を卑下する必要はありません。神様が与えてくださる価値に目を向けましょう。神様は私たちを宝物としてくださいます。

3.減らない価値
 「ビンテージ」と聞いたならなにを思い浮かべるでしょうか?わたしはギターや楽器類、ジーパンなどが浮かびます。そのほかに「ビンテージ」と呼ばれるものには、家具や骨董品などいろいろなものがあります。もともとはワインのためのブドウの収穫や醸造、瓶詰めまでの行程を表す言葉だったそうです。その年によって収穫されるブドウの質だったり、醸造の仕方だったりが異なるため、ワインの味が異なります。当たり年のワインを「ビンテージ・ワイン」と呼ぶようになり、そのようなワインは高値で取り引きされますから、「ビンテージ・ワイン」とは高級ワインの代名詞となり、転じて「年代もの」であるとか「質のよいもの」という意味も含められて「ビンテージ」という言葉は現代で用いられています。

 「ビンテージ」と呼ばれる品物に共通することは、「古い」事です。現代ではおおむね作られてから10年以上すぎていれば「ビンテージ」と呼ぶそうですが、時を経るごとに価値が減るのでなく、むしろ価値が増えていきます。作られてすぐのものは「ビンテージ」ではないのです。

 わたしが使っているギターも「ビンテージ・ギター」と呼べるものです。父が使っていたものですので、おそらく1970年代に作られたもの、作られて30年以上たっています。わたしよりも年上です。ほかにも1980年に作られた、自分と同い年のギターも使っています。

 自分と同い年の品物がビンテージと呼ばれるという事は、自分もビンテージなのだろうか、と考えてみたりするのですが、人間や生き物には「ビンテージ」という言葉は当てはまらないような気がします。ですが、「信仰」はどうでしょうか?時を経るごとにますます神様が価値を増し加えてくださる、まさに「ビンテージ」と呼ばれるにふさわしい取り扱いを受けているのではないでしょうか。今日ここにいる方で、信仰を持ってすでに10年以上たっている、という方はおられるでしょうか?その方は「ビンテージ・クリスチャン」と言っても差し支えないでしょう。

 現代の私たちは、時が経るごとに価値を失っていくものに囲まれて生活しています。消耗品や使い捨てのものはもちろん、電化製品や建築物に至るまで、多くのものがそうです。そのような中にいるとき、私たちは自分の価値を見失ってしまいやすいのではないでしょうか。

 神様が私たちに与えてくださる価値はそうではありません。最高の価値であり、その価値を日々増し加えてくださいます。私たちはそのことに信仰を持って応えなくてはなりません。私たちの身代わりとして主が命を捨てられたことを覚え、神様から与えられる恵みによって日々成長したいものです。神様はあなたに減らない価値、年月がたつごとに加えられる価値を与えてくださることが出来ます。

 神様がわたしたちを宝物として扱ってくださることを覚え、歩みたいものです。
東京聖書学校吉川教会 片平貴宣牧師
(かたひら たかのぶ)




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