2009年7月のみことば |
その日、風の吹くころ、主なる神が園の中を歩く音が聞こえてきた。アダムと女が、主なる神の顔を避けて、園の木の間に隠れると、主なる神はアダムを呼ばれた。「どこにいるのか。」彼は答えた。「あなたの足音が園の中に聞こえたので、恐ろしくなり、隠れております。わたしは裸ですから。」 (創世記3章8節〜10節) しかしあなたは、わたしの教え、行動、意図、信仰、寛容、愛、忍耐に倣い、アンティオキア、イコニオン、リストラでわたしにふりかかったような迫害と苦難をもいといませんでした。そのような迫害にわたしは耐えまし。そして、主がそのすべてからわたしを救い出してくださったのです。キリスト・イエスに結ばれて信心深く生きようとする人は皆、迫害を受けます。悪人や詐欺師は、惑わし惑わされながら、ますます悪くなっていきます。だがあなたは、自分が学んで確信したことから離れてはなりません。あなたは、それをだれから学んだかを知っており、また、自分が幼い日から聖書に親しんできたことをも知っているからです。この書物は、キリスト・イエスへの信仰を通して救いに導く知恵を、あなたに与えることができます。聖書はすべて神の霊の導きの下に書かれ、人を教え、戒め、誤りを正し、義に導く訓練をするうえに有益です。こうして、神に仕える人は、どのような善い業をも行うことができるように、十分に整えられるのです。 神の御前で、そして、生きている者と死んだ者を裁くために来られるキリスト・イエスの御前で、その出現とその御国とを思いつつ、厳かに命じます。御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。とがめ、戒め、励ましなさい。忍耐強く、十分に教えるのです。だれも健全な教えを聞こうとしない時が来ます。そのとき、人々は自分に都合の良いことを聞こうと、好き勝手に教師たちを寄せ集め、真理から耳を背け、作り話の方にそれて行くようになります。しかしあなたは、どんな場合にも身を慎み、苦しみを耐え忍び、福音宣教者の仕事に励み、自分の務めを果たしなさい。わたし自身は、既にいけにえとして献げられています。世を去る時が近づきました。わたしは、戦いを立派に戦い抜き、決められた道を走りとおし、信仰を守り抜きました。今や、義の栄冠を受けるばかりです。正しい審判者である主が、かの日にそれをわたしに授けてくださるのです。しかし、わたしだけでなく、主が来られるのをひたすら待ち望む人には、だれにでも授けてくださいます。 (テモテへの手紙二 3章10節〜4章8節) |
人間は一人で生きていくことは出来ません。生まれた時から無人島で、一人で生活するなら自分が何であるかを知ることはないでしょう。 母親はわたしたちがこの世に生まれて初めて知る他者です。母親は赤子の名を呼び、抱きあげ、見つめます。それによってその子の人生が始まります。仰向けに寝るのは人間の子だけだそうです。母親の愛情を全身で受けるのです。赤子は母親と愛で結ばれて初めて健全に成長します。人格は正しく形成され情緒の安定に繋がります。反対に何らかの理由で母親の愛情が充分に注がれることがなかった場合、心に傷として残ることになります。成長期に母親から拒絶され、棄てられることは自らの存在の意味を見失い、自らを否定的に見ることになります。母親の愛こそ「我」と「汝」の関係の出発点です。 「我」と「汝」の関係は成長するに従って母親以外に広がります。子供の頃は遊びをとおして他者との関係が育てられます。声を掛け合い、様々なふれあいと温かい眼差しによってお互いを尊重し、守るべきルールを知るようになります。他者との関係は学校、職場、そして世界に出ることでより広範囲なものとなります。しかしながら今日の社会は過度の競争と利益中心の社会となっています。そのため人に何らかの価値を求めます。子供の頃の勉強だけの遊びのない生活から、正しい人格を形成するのは難しくなります。 人は健康で働いていても、何時、会社が倒産したり、事業が行き詰まるか分かりません。また、事故や病気、あるいは加齢によって社会に貢献できなくなるかも知れません。自分の価値を見失った人が生きることが出来るようにと様々な自己啓発、暗示、占、癒しが盛んに行われ、商売として成り立っています。教会もまたこのような風潮に影響され、心の癒しに答えるのを使命としているところがあります。しかし、主イエスの癒しはあくまで神の国の先取りであって、このことが主イエスの来臨の目的ではありませんでした。 今日の社会では他者との間に声を掛け合うことも、触れ合うことも、温かい眼差しで見詰め合うことも少なくなっています。その結果、他者を自分と同じ人格を持った者としてより、物としてしか見ることが出来なくなります。「我」と「汝」の関係は容易に「我」と「それ」の関係に変わるのです。 「我」と「汝」の関係は「汝」が「神」になるときに変わります。 主イエスはわたしたちに言葉を掛けられます。あなたは「どこにいるのか」、この問い掛けは自分が自分に対してするのではなく、主イエスからの問いかけです(創世記3:9)。それ故に、そのお方に正しく答えられるまで続きます。わたしたち人間は神に似せて創られたものとしての応答責任があるのです(同、1:26〜27)。 主イエスの呼びかけに「ハイ」と答えるとき、はじめて神との間に人格関係が生まれます。創造者、超越者、絶対的主権者であられるお方と被造物であるわたしとは決して対等ではありません。そのことを認めることが何よりも大切です。このようにして神に結ばれたとき、決して動くことのない岩に碇を下ろすことになります。人と人との関係だけでは自らの存在の意味、すなわち「どこから来て、どこに行くのか、何をしなければならないか」に決して答えを出すことはできません。主イエスとの関係が正しくされた時からわたしたちは聖書の御言葉に耳を傾けることができるようになります。この言葉によってわたしたちの心は成長するのです。 神の言葉に応答することによって初めて神との触れ合いが生まれます。ヤコブは神と格闘しました。「祝福してくださるまでは離しません」、このヤコブの言葉はそのままわたしたちの言葉となります(創世記32:27)。主は「お前の名はもうヤコブではなく、これからはイスラエルと呼ばれる。お前は神と人と戦って勝ったからだ」と言われました(同、29)。イスラエルとは「神との格闘」という意味で、教会もまたイスラエルなのです。 そのような日々の触れ合いをとおして神の温かい眼差しが絶えずわたしたちの上に注がれているのを知るようになります。神はわたしたちがどこにいようとも、何をしていようともご存知で、一日一日を導いてくださいます。 わたしたちは赤子のようになって、この神の愛を全身で浴びることで、健全な人格が形成されるのです。 「御言葉を宣べ伝えなさい」とのパウロの言葉はわたしたちにこのような「我」と「汝」の関係にある主イエスを宣べ伝えることに他なりません。それによって神の命が他者に伝えられるのです。その命はこの世でわたしたちを生かすだけでなく、永遠の命に生きるようにするのです。 |
川越教会 木ノ内一雄牧師 (きのうち かずお) |
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