2009年2月のみことば |
神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。 (創世記1章27節) |
昔、こんな落語を聞いたことがあります。 小学生の男の子と父親の会話という設定です。 子「おとうさん。何のために勉強するの?」 父「そうだなぁ。テストで良い点を取るためだなぁ。」 子「良い点を取ったらどうするの?」 父「そうだなぁ。良い学校にいくためだなぁ。」 子「良い学校に行ったらどうするの?」 父「そうだなぁ。良い会社に就職するためだなぁ。」 子「良い会社に就職したらどうするの?」 父「そうだなぁ。会社で昇進するんだなぁ。」 子「昇進したら、どうするの?」 父「そうだなぁ。適当な時期に結婚するんだなぁ。」 子「結婚したらどうするの?」 父「そうだなぁ。自分の家を建て、子どもを育てるんだなぁ。」 子「そうしたらどうするの?」 父「そうだなぁ。やがて年を取って死ぬんだなぁ。」 子「それじゃ、死ぬために勉強するのか!」 いささかピントがずれた親子の会話ですが、「何のために」という目的が定まらない生き方は、場当たり的なものになってしまうのではないでしょうか。 旧新約聖書の最初は、「創世記」という書巻です。創世記の1章27節に、このように記されています。 「神は御自分にかたどって人を創造された。神にかたどって創造された。男と女に創造された。」(新共同訳) 聖書の人間観は、神(創造主)によって創られた存在であると述べています。そこには、偶然ではなく神の意図があるというのです。この聖書が語る人間観・世界観に立ちますと、私たちの人生は目的をもってきます。 人生の目的とは何かを聖書的人間観・世界観から見ますと、次のように捉えられるでしょう。 @ 人は神の作品である。 私たちが、偶然にこの世に存在するとは空しい人生観ではないでしょうか? 人間が物を作るとき、必ずといっていいほど作り手の意志・目的があります。 その物を何に使うか、用途に合わせて作るわけです。聖書は、神の意志が働いて、私たちを創造してくださったという人間観を提供しています。何となく生きるのではなく、創造者の意志を受け止めたとき、歩む方向が見えてくるのではないでしょうか。 A創られたから目的がある。 私の人生を歩む目的が見いだせた時、人は安定した歩みができるのではないでしょうか。 B目的に従って生きるのが人生。 人は創られた存在であるという聖書の世界観に立った時、造られたからには必ずその目的があります。そうであるならば、造られた方の声を聞く必要があるでしょう。その声を聞くために、私たちに与えられた聖書に「心の耳」を傾けて頂きたいと願います。 聖書は、神から与えられた命・人生の意味、そして、どのように生きたら良いかを教え、示してくれるでしょう。 |
春日部教会 白石多美出牧師 (しらいし だびで) |
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