2008年11月のみことば |
わたしたちには金や銀はないが、持っているものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。 (使徒言行録3章6節) |
世界的な経済不況の中で、多くの人々が生活苦にあえいでいます。金銀に対する人々の依存度がますます高くなっているのではないでしょうか。しかし、お金の力だけですべてが解決するわけではありません。教会には、よくホームレスの人や失業した人が、食べ物やお金を求めて訪ねてきます。できるだけ話を聞いて、必要に応じて、家にある食べ物や衣類、わずかばかりのポケットマネーなどを差し上げるようにしていますが、しばしば矛盾を感じ悩むことがあります。そのような行為が、少しもその人にとって本質的な解決にはならないし、その人の自立を妨げる結果にもなりうることを知っているからです。そのようなとき、いつも思い起こすのが、上に掲げた「わたしには金や銀はないが、持ってるものをあげよう・・・」と言ったペトロの言葉です。![]() この足の不自由な男は、いつしか自分の力で立って歩く努力を諦め、すっかり他者に依存する生き方に慣れてしまったのです。確かに彼の足は不自由でしたが、手や目・耳・口は自由でしたし、頭を働かすこともできたはずです。しかし彼は不自由な足だけを見つめて、自分は何も出来ないダメな人間と思い込み、人生を諦めてしまっているのです。このような場合、どのような支援が必要なのでしょうか。 ペトロとヨハネは、この男から施しを乞われたとき、彼をじっと見て、まず「わたしたちを見なさい」と命じました。当然、男は何か貰えると期待してペトロたちをじっと見つめたのですが、そのときペトロの口から出た言葉は、「わたしには金銀がない・・・」というものでした。男は一瞬がっかりして、からかわれたのかと思ったことでしょう。ペトロはなぜ相手の期待に直接応えられないのに、「わたしたちを見なさい」と言うことができたのでしょう。彼らの何を見よと言うのでしょうか。 ペトロたち自身には人前に誇示できるようなものは何もなかったはずです。彼らはかつて、師であるイエスを見捨て、3度もイエスを否むような過ちと挫折を経験しました。その過ちを思い起こすたびに彼らの心は痛み、自分たちは弟子としても人間としても「失格者」だと思ったことでしょう。その心の傷だけを見つめていると、自分たちも立ち上がれず、前に向って歩くこともできない。しかし、主イエス・キリストが自分たちの罪を赦し、すべての重荷から解放してくれた。このキリストがいつも共にいて、わたしたちを支えてくださる。だからわたしたちはこうして自分の足で立って歩くことができるのだ。<あなたもわたしたちにならってほしい!> このような思いが「わたしたちを見なさい」との叫びかけの中に込められていたのではないでしょうか。 「わたしには金や銀はない」と言い放ったペトロは、続けて「わたしにあるものをあげよう。ナザレ人イエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい」と命じ、男の手をとって立ち上がらせたのです。すると今まで自分は立てない、歩けないと思い込んでいたこの男の足やくるぶしがしっかりして、彼は躍り上がって立ち、歩き出したのです。ペトロたちの内に宿り、彼らを立ち上がらせた主が、この足の不自由な男にも宿り、彼をも立ち上がらせたのです。 ![]() |
所沢みくに教会 最上光宏牧師 (もがみ みつひろ) |
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