2008年9月のみことば |
主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現しわたしの恵みの業が現れるのは間近い。 (イザヤ書56章1節) |
この夏、青少年が集うバイブル・キャンプに参加する機会が与えられて、日光の「オリーブの里」に行ってきました。豊かな自然の懐に抱かれるようにして3泊4日を過ごし、若い人たちと共に、「この人を見よ」というテーマのもとイザヤ書をじっくりと読み、黙想し、講師の先生方からのメッセージを傾聴し、またそれぞれが示されたところを分かち合うことも出来て、感謝な一時でした。 中でも、今年の3月に神学校を卒業し、ピカピカの伝道師1年生をスタートしたばかりの私にとって、特にイザヤ56章は、4月からの4か月間の私のための預言書のようで驚きでした。神学校での4年間を私にとってのバビロン捕囚に例えるならば、就任した教会に来ましてからの4か月は、まさにバビロン捕囚からの帰還であり、「この人」からの叱咤激励の日々であったと思えたからです。 イザヤ56章に記されていることは、イスラエルの民がバビロンの捕囚生活から開放されてエルサレムに戻り、破壊された神殿を再建した頃と言われています。バビロン捕囚については、改めて言う事もないと思いますが、紀元前586年、ユダ王国のエルサレムが新バビロニア王国に征服されて、エルサレム神殿も徹底的に破壊されてしまい、ユダ王国の主だった支配者、知識人、また技術者などがバビロンへ強制連行されたしまったという、ユダヤの歴史における最大の危機でありました。しかしその後、そのバビロニアが、今度はペルシャのキュロス王によって紀元前539年征服されて、それとともに、半世紀近い捕囚生活を送っていたユダヤ人たちも解放されて、エルサレムへと帰って行きました。「ナニニ(前722年に北イスラエル王国滅亡)、ゴヤム(前586年に南ユダ王国の滅亡)バビロン捕囚、ゴーサンキュウ(前539年)と帰ってきた」とその年号をおぼえましたが、まさにイザヤ56章から66章は、(通常第三イザヤと呼ばれております)この時代に書かれたものです。 ところでエルサレムに戻ってきたものの、彼らの現実は非常に苦しいものでありました。エルサレムの荒廃は彼らの予想をはるかに上回っていましたし、その地に住んでいたサマリヤ人や異邦人たちの激しい反対運動にあって、神殿は再建されず、十数年も停滞してしまいます。そして、そうした中でようやく再建された神殿ではありましたけれども、しかし以前の神殿に比べると見るかげもない粗末なものであった様です。また神殿は復興したけれども、エルサレムの城壁の石は崩れたまま、門は壊れたままで放置されておりました。エルサレムに帰りさえすればという彼らの夢は無惨に破れてしまい、疲れきってしまった彼らの信仰も危機に瀕してしまいます。 このように意気消沈してしまっている彼らに、神はイザヤを通して語りかけられます。「正義を守り、恵みの業を行いなさい。私の救いが実現し、私の恵みの業が現れるのは間近いのだから」と。そしてまた、ただ慰められるだけではなく、慰めては責め、慰めては責め、慰めては責められて、神はチャレンジされます。この56章では、1節から8節までが、「悲しむ者には平安あれ!」という神の慰めが記されているのに対して、9節から12節までは、「安息日を守らず、それを汚し、悪事に手をつけていながら何ら自戒することもない者に、幸いはない!」と激しく叱責されているのであります。 さて、バイブルキャンプのテーマは、「この人を見よ」でした。イザヤ書を通してイエス・キリストがどの様なお方であるのかを見ていったのですが、このテーマを最初に見たとき、驚きとともにうれしくなって、讃美歌の121番を思わず歌ってしまったものです。 馬ぶねのなかに、うぶごえあげ、たくみの家に、ひととなりて、 貧しきうれい、生くるなやみ、つぶさになめし、この人を見よ。 私の一番の愛唱讃美歌であります。「この人」とは、もちろんイエス・キリストであります。この讃美歌からも、悲しんでいる者たち、しいたげられている者たち、差別されている者たち、病気で苦しんでいる者たち、弱く貧しい者たちを訪ね、心をくだいて慰められる主イエスのお姿が見えてきますが、イザヤ56章3節では、「主のもとに集ってきた異邦人」に対して、「主はご自分の民とわたしを区別されるなどと言うな」と言われています。頑固でかたくなな国粋主義者的ユダヤ人たちは、外国人、異民族といった人たちを排斥し、全く受け入れようとしなかった。そのために、受け入れられないで異邦人と呼ばれた人たちは、自分たちの運命について絶望し、「主は、私たちは差別されている」と言っているわけですが、その嘆き悲しんでいるに者に、主は「そんなことを言うな。」と言われているのです。 また宦官に対しても、「わたしは枯れ木にすぎない」と言ってはならないと言われます。「宦官」とは、去勢させられた男子のことで、生殖能力のない者です。多くの子供を持つことが、神の祝福を受けた徴として見られた時代のことですから、子供を持たない者は神の祝福から見放された不幸者であり、まして生理的に子を産む力のない者は、神からのろわれたる不幸中の不幸者と軽蔑されていましたから、自らも「私は枯れ木にすぎない。役立たず者だ。」と悲観しているのです。 しかし神は、彼ら宦官を慰めて、「わたしの安息日を常に守り、私の望むことを(宦官が)選び、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らのために、とこしえの名を与え、息子、娘を持つにまさる記念の名を、わたしの家、わたしの城壁に刻む。(そして)その名は決して消し去られることがない。」と言われるのです。 また異邦人に対しても、「主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、私の祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す。」と言われるのです。 神は民族的差別待遇などをなさらない。神は全ての民族の神であり、世界の神であります。神の宮はすべての民族の祈りの家であります。異邦人のささげる焼き尽くす捧げ物といけにえは、ユダヤ人の捧げ物と等しく神は受け入れられ、神殿はすべての者に開かれていると言うのです。パウロが「もはや、ユダヤ人もギリシャ人もなく、奴隷も自由人もなく、男も女もない。あなたがたは皆、キリスト・イエスにあって一つだからです。もしキリストのものであるなら、あなたがたはアブラハムの子孫であり、約束による相続人なのです」と言っている通りです。 さて見てきましたように、1節から8節までのイザヤの預言は、主の慰めと救いにあふれております。しかし次に続く9節からは、神を恐れぬ者に対して実に厳しい、恐るべき神の攻撃と審判の右手がのばされます。ここに出てきます「犬」は、羊の番犬のことで、イスラエルの民の精神的指導者を指しています。 野のすべての獣よ、森のすべての獣よ、食べに来るがよい。見張りはだれも、見る力がなく、何も知らない。口を閉ざされた犬で、吠えることができない。伏してうたたねし、眠ることを愛する。 「伏してうたたねし、眠ることを愛する犬」とは、私自身のことを言われているようで心苦しいのではありますが、彼らは民の堕落の危険に、まっ先に気づいて、警告の声を挙げるべき任務があるにもかかわらず、安楽をむさぼり、泥棒が投げつける一片の肉に心を取られ、かじりついては吠えることを忘れ、また惰眠をむさぼっている。「吠えない番犬、叫ばない預言者だ」と言うのです。 この激しい、厳しい叱責の言葉は、神殿から商人を追い出された時の、烈火のごとく怒られた主イエスの姿を思い起こさせます。いわゆる主イエスの宮清めの記事ですが、これは四つの福音書すべてに記されているところからも、弟子たちにとって忘れることのできない強烈な出来事であったと思われます。ヨハネの福音書から、その時の主イエスを見ますと・・・・・・ ユダヤ人の過越祭が近づいたので、イエスはエルサレムへ上って行かれた。そして神殿の境内で牛や羊や鳩を売っている者たちと、座って両替をしている者たちを御覧になった。イエスは縄で鞭を作り、羊や牛をすべて境内から追い出し、両替人の金をまき散らし、その台を倒し、鳩を売る者たちに言われた。「わたしの父の家を商売の家としてはならない。」(ヨハネ2:13−16) 誤解のないように言っておきたいと思いますが、ここで主イエスは、商売をすることが悪いとか、お金儲けがいけないことだとは決して言っておられないということです。先日、キリスト教書店に行った時に、『お金ではなくいのちです』という題名のついた本を見つけて、立ち読みしていたのですが、結局買って帰り読みました。MKタクシーというタクシー会社を立て挙げた青木秀雄という韓国の社長の書いた本です。「お金に誘惑されてはいけない」という小見出しに続いて、こんなことが書いてありました。 お金は悪くも良くもありません。お金は悪魔でもなく天使でもありません。ただ、お金を使う人たちによって悪魔にもなり天使にもなるのです。・・・お金をよく稼いで、上手に使うことよりもさらに大切なことは、お金に誘惑されてはならないということです。世の中がお金中心に回っていて、お金さえあれば不可能なことは何もないかのように見えます。家を買い、自動車を買うように、お金で博士号も買い、国会議員の議席も買い、はなはだしくは愛情も買うといいます。今やお金は大きな存在となってしまいました。お金に還元できない価値は無価値なものになってしまいました。そのために、お金の威力から自由であることがほんとうに難しくなってしまったのです。今や、お金が稼げるとなれば、何でもするという世の中になってしまいました。甚だしくは、わずかの金のために人のいのちを奪うことまでします。お金に覆われて人間が見えなくなっています。神様も見えなくなっています。お金の力が強くなることで、神様の顔も見えなくなります。 主イエスも、お金の持つ力については、よくご存知でした。聖書に、主イエスが四十日間荒れ野にとどまった後、サタンから誘惑を受けられたときのことが記されています。 更に、悪魔はイエスを非常に高い山に連れて行き、世のすべての国々とその繁栄ぶりを見せて、「もし、ひれ伏してわたしを拝むなら、これをみんな与えよう」と言った。するとイエスは言われた。「退け、サタン。『あなたの神である主を拝み、ただ主に仕えよ』と書いてある」そこで、悪魔は離れ去った。すると、天使たちが来てイエスに仕えた。(マタイ4:8−11) 最後に一つ、あえて誤解を恐れずに、お証をして終わりにしたいと思います。冒頭でもお話しましたが、私は、浦和別所教会に引越しをして、荷物も運び入れた後で、招聘状をいただき、その時初めて自分がどれだけの謝儀をいただくのかを知りました。前から期待はしておりませんでしたけれども、しかしその数字を見たときに、一瞬頭を横切ったことは、「これで、やっていけるのかなぁ」という不安でした。牧会の現場に立ったら、これだけの専門書は必要であろう、運転免許も必要であろうからと、いろいろと予定していたことを、キャンセルせざるを得ないと思いました。 以前、私と同じように学校の先生をしていた知人が、学校を辞めて、社会福祉施設への転職を考えていた時、彼はその給料の少なさに迷って、決断できずにいたのですが、その彼に、「恐れなくてもいいよ。必要なものは神様がちゃんと与えてくださるからね。」と大言壮語していたこの者が、現金なもので、自分のことになると、もういけません。お金に覆われてしまって何も見えなくなるのです。卒業式の後の祝会の席上で吐いたあの気炎は、どこかに消え去り、悶々とした日々を送ることになりました。 そんな時でしたが、大阪の姉から電話があった時に、それが愚痴になって口から出てしまったようです。心の隅っこで、「すぐに大阪に帰っておいで」と言ってくれるのを期待していたと思います。ところが意に反して、「あんた、何言ってんの。お金を貯めるために、その道を選んだわけじゃないんでしょ。それに、あんたは、前から清貧の生活にあこがれていたのやから、ちょうどいいやないの。」と、私には二人の姉がいますが、クリスチャンでない方の姉に、そう言われたのです。確かに姉に言われたとおり、清い生活を送りたいという思いを常に持っておりました。ホーリネスでありたいと強く願っておりました。それが、姉から指摘されて、「カエサルのものはカエサルに、神のものは神に返しなさい」と言われる主イエスの言葉となって聞こえてきたのです。と同時に、自分が聖職を食い物にしようとしていたことに気付かされたのです。11節、12節にある通りです。 この犬どもは、強欲で飽くことを知らない。彼らは羊飼いでありながら、それを自覚せず、それぞれ自分の好む道に向かい、自分の利益を追い求める者ばかりだ。「さあ、酒を手に入れよう。強い酒を浴びるように飲もう。明日も今日と同じこと。いや、もっとすばらしいにちがいない。」 強い酒に酔っ払い、「明日も今日と同じこと。いや、もっとすばらしいにちがいない」と、うそぶく者と変わるところがない自分であったことを、主の前に悔い改めた次第です。そしてこれでは、神様の祝福をいただくことはできない。聖なる山に導かれることも、主の祈りの家の喜びの祝いに連なることは許されないことを知らされたのです。 先ほどの讃美歌121番の3節は、次の通りです。 すべてのものを あたえしすえ、死のほかなにも むくいられで、 十字架のうえに あげられつつ、敵をゆるしし、この人を見よ。 主イエスは、「焼き尽くす献げ物といけにえ」となって、私(私たち)の罪のために十字架につけられました。それ故に「わたしの祭壇で、わたしはそれを受け入れる。わたしの家は、すべての民の祈りの家と呼ばれる。」と、神は約束してくださいました。またそれ故に、主イエスは「死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐したまえり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」のであります。 主は、宦官に、異邦人に、そして、悩み疲れ果てている「あなた」に呼びかけられて言われます。「主に仕え、主の名を愛し、その僕となり、安息日を守り、それを汚すことなく、わたしの契約を固く守るなら、わたしは彼らを聖なるわたしの山に導き、わたしの祈りの家の喜びの祝いに連なることを許す」と。主は、無限大の祝福へと私たちを招いてくださっているのです。 「主はこう言われる。正義を守り、恵みの業を行え。わたしの救いが実現し、わたしの恵みの業が現れるのは間近い。いかに幸いなことか、このようにおこなう人、それを固く守る人の子は。安息日を守り、それを汚すことのない人、悪事に手をつけないように自戒する人は。」 |
浦和別所教会 井上博子伝道師 (いのうえ ひろこ) |
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