2008年8月のみことば |
被造物がすべて今日まで、共にうめき、共に産みの苦しみを味わっていることを、わたしたちは知っています。被造物だけでなく、“霊”の初穂をいただいているわたしたちも、神の子とされること、つまり、体の贖われることを、心の中でうめきながら待ち望んでいます。わたしたちは、このような希望によって救われているのです。見えるものに対する希望は希望ではありません。現に見ているものをだれがなお望むでしょうか。わたしたちは、目に見えないものを望んでいるなら、忍耐して待ち望むのです。同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。人の心を見抜く方は、“霊”の思いが何であるかを知っておられます。“霊”は、神の御心に従って、聖なる者たちのために執り成してくださるからです。 (ローマの信徒への手紙8章22節〜27節) |
「強さも腐敗する、そして弱さも腐敗する エリック・ホッファー」(2006年4月3日天声人語)は、コラムニスト小池民雄の絶筆だった。 「強さ」を追求することがおしなべて悪でもなければ、反対に「弱さ」を衒(てら)って「弱さ」のなかに美徳を見ようとしても、それまた一般化すれば邪悪さへの転落を免れない。「強さ」も「弱さ」も邪悪さを引き出してしまうという希有な洞察に感動した。 「わたしは弱いときにこそ強い」(2コリ12:10) と語ったパウロの置かれていた弱さは決して「弱さ一般」ではあり得ない、どうもキリスト教が「弱さ」を逆説的な意味ではあるが、ある種の「徳」のように世間に広めてしまったような気がして、そのせいだろうか「弱さ」を価値であるかのようにみなす通俗的な誤解が流布(るふ)してしまったように考えるのは私だけであろうか。内容の吟味を抜きにした用語法はいずれにしても過(あやま)ちと言うべきだろう。 ロマ書8章で、パウロが「 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(8:26)と語る場合、「弱いわたしたち」とはどういう状態なのか。ここでは明らかに自分では「どう祈るべきかを知らない」状態を「弱い」と表現している。この「弱さ」は聖霊(新共同訳では”霊”)によって助けていただかねばならない対象であって、どう考えても積極的な評価とはいえない。ロマ書7章で「 わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。」(7:24)と慨嘆せざるを得ない自己の悲惨さの言い換えと言ってよいだろう。人間は一人の例外なく、この罪の法則の奴隷状態にあるのだ・・・・、というのがキリスト者パウロの人間理解である。このような呻きにも似たパウロの叫びは一転して「喜び」への謳歌に変わる。この信仰の消息こそがわたくしたちの信仰の内実にとって重大な関心事である。 「わたしはなんと惨めな人間なのでしょう。死に定められたこの体から、だれがわたしを救ってくれるでしょうか。わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。」(7:24 〜8:1) なんという転換なのだろうか。しかしながら、この転換を訝る必要はない。これこそが福音信仰の真骨頂ではないのか。主イエスご自身が語っているではないか。 「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」(ヨハネ16:20) 悲嘆が歓喜に転ずると主イエスは保証された。この信仰内容をわたくしどもは信じているのかどうなのか、キリスト者を自認する自分自身に問いたいと思う。わたくしたちの現存在(Dasein=そこにある)というソドム的状況に在るこの「わたし」がいかにして歓喜に変えられるというのであろうか。この転回をわたし自身がどのように信仰理性的に理解しているかどうかということは、とてつもなく重大な事だと私は考えている。 新共同訳のヨハネ福音書は「聖霊」を「弁護者」と訳す。ロマ書の聖霊はソドム的現存在の状態に置かれたわたくしどものために〈執り成しの弁論〉を遂行する弁護者として神の法廷で振る舞ってくださるというが、あのロマ書8章のリアルな消息を語っている。聖霊信仰によってしかわたくしどもの信仰はあり得ない。人は誰もがやがては「裁判」の席に立つのだ。わたくしどもの弁護者たる聖霊がわたくしどもの無罪を審判主たる神に主張する根拠は主イエスの十字架だけなのである。主イエスご自身はわたくしどもの罪の代償として贖いの代価として十字架上で神の処罰を受け給うた、この代価なくしては私どもは無に帰してゆく他はない。 弁護者は言い尽くせない悲嘆・悲哀・苦悶・呻吟をもって裁かねばならない父なる神の痛みを熟知しながら、主イエスの十字架上の痛みを知りながら、執り成しをしなければならない「わたくし」のために神の神たる「正義」のゆえに、神に哀訴し給うのだ。 「その兄弟のためにもキリストが死んでくださったのです。」(1コリ8:11)」 このように執り成してくださる神の力によって、わたくしたちの「弱さ」(現存在)は神の自己否定によって罪を問われることなく、消滅するという。 「従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」(ロマ8:1 〜8:4) かくしてわたくしどもが、主イエスの十字架を見、そして仰ぎ、その贖罪の力を信じさえすれば、わたくしどもに内在する罪は十字架の代価によって消滅する。この時、ヨハネ福音書の御言葉が成就する。 「その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。 今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(16:23〜24) 主イエスが「願いなさい」と命じておられるのは、その前提として〈わたくしが願うその願いそのもの〉が、主イエスの御心にかない、父なる神の願いにかない、聖霊なる神の願いにかなうような願いに、決定的に変化していなければならない。 ソドム的現存在において湧出する邪悪な願望は呪いであったり、底意地の悪い自己正当化であったりする、そのような願いをそのままにどうして主イエスが「願いなさい」と命ずるであろうか。主イエスの御名によって祈り、願う事柄は、願いそのものが聖なる願い、聖化された願いなのである。 〈願うその願い〉の根源が聖霊の執り成しによって、あの原罪に起源する罪の法則から分離され、区別され、自由にされ、独立したものとされているのである。このような〈願い〉はその起源が聖霊なる神の悲哀によって父なる神の創造の御業が決断されることに発する。 「 同様に、“霊”も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、“霊”自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです。」(ロマ8:26) 「はっきり言っておく。あなたがたは泣いて悲嘆に暮れるが、世は喜ぶ。あなたがたは悲しむが、その悲しみは喜びに変わる。」(ヨハネ16:20) 聖霊がわたくしどものために〈言葉に言い表せない呻き〉をもって執り成してくださることによって三一なる神の贖罪の愛がわたくしどもの魂に刻印されるとき、わたくしどももまた感謝のうちに、悲嘆・慷慨に暮れるのである。あのパウロの悲嘆・慷慨を、そのようなものとして灰をかぶり「悔い改める」者のみが、あの一転した感謝を神に向けることが許されるだろう。 「わたしたちの主イエス・キリストを通して神に感謝いたします。このように、わたし自身は心では神の律法に仕えていますが、肉では罪の法則に仕えているのです。従って、今や、キリスト・イエスに結ばれている者は、罪に定められることはありません。キリスト・イエスによって命をもたらす霊の法則が、罪と死との法則からあなたを解放したからです。肉の弱さのために律法がなしえなかったことを、神はしてくださったのです。つまり、罪を取り除くために御子を罪深い肉と同じ姿でこの世に送り、その肉において罪を罪として処断されたのです。それは、肉ではなく霊に従って歩むわたしたちの内に、律法の要求が満たされるためでした。」(ロマ7:25〜8:4) 主イエスによって聖化された聖なる願いを願うわたくしどもに変えられるときに、わたくしどもは悲嘆・慷慨を通過した歓喜へと導かれるというのである。 またこの悲嘆・慷慨を通過しない神への歓喜はありえないのとも言えるであろう。わたくしどもが悲嘆に暮れるときに、この世(コスモス)は喜んでいる(ヨハネ16:20)。主イエスが語られるこの対比は聖なる願望へと約束された者の願いとこの世の願いとがまったく逆方向を示している事実を予言しているのだ。 この世的な願望が密やかな邪悪な喜びを神に隠れて喜ぶときに、約束された者たちは悲嘆・悲哀に暮れているというのである。しかしこの悲嘆・悲哀に暮れるという〈しるし〉こそが約束の〈しるし〉であり神への確かな歓喜の予兆なのではないのか。 悲哀を通過した者のみが賜与される神への歓喜、これが福音の真骨頂なのである。神の愛をもって愛する者は、神の愛によって聖なる呻きをもって愛する者と変えられる。福音信仰に生きる証人たちは、神の愛に従うがゆえに、その十字架の苦難の道をも喜んで従うように変えられてきた。わたくしどももその道の途上にある事実を日々確認しているではないか。今悲嘆・悲哀に在る事実をかように受けとめ感謝しようではないか。 主イエスが父なる神のみもとへ行くという事柄は、とりもなおさず、わたくどもの傍らに聖霊なる神を遣わし、わたくしどもの父の御前で〈執り成し〉てくださるためであった。この〈執り成し〉の道にわたくしどもも従うのである。毎週の礼拝は、まさに悲嘆・悲哀・慷慨を御前に告白し、このような者として神に歓喜する者へと変えられている事実を通して神に愛と従順をもってお応えする時なのである。 「願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」(16:24) |
行田教会 清水与志雄牧師 (しみず よしお) |
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