2008年1月のみことば

わたしたちのただ一つの慰め

 
 主がわたしの助けとなってくださらなければ わたしの魂は沈黙に伏していたでしょう。「足がよろめく」とわたしが言ったとき 主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。わたしの胸が思い煩いに占められたとき あなたの慰めが わたしの魂の楽しみとなりました。
              (詩編94編17節〜19節)

 そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望み、聖霊が彼にとどまっていた。そして、主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを聖霊から受けていた。シメオンが“霊”に導かれて神殿の境内に入って来たとき、両親は、幼子のために律法の規定どおりにいけにえを献げようとして、イエスを連れて来た。シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり/この僕を安らかに去らせてくださいます。わたしはこの目であなたの救いを見たからです。これは万民のために整えてくださった救いで、異邦人を照らす啓示の光、/あなたの民イスラエルの誉れです。」父と母は、幼子についてこのように言われたことに驚いていた。シメオンは彼らを祝福し、母親のマリアに言った。「御覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人を倒したり立ち上がらせたりするためにと定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。 ――あなた自身も剣で心を刺し貫かれます――多くの人の心にある思いがあらわにされるためです。」また、アシェル族のファヌエルの娘で、アンナという女預言者がいた。非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた。彼女は神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていたが、そのとき、近づいて来て神を賛美し、エルサレムの救いを待ち望んでいる人々皆に幼子のことを話した。

             (ルカによる福音書2章25節〜38節)
 私たちの人生にはいろんなことがあります。思いもよらない病気になったり、どうにもならない人生の壁にぶつかったりします。突然裏切られたり、逆に自分が相手を裏切ったり。差別や戦争など、人と人との憎み争い。また突然の自然災害、台風や地震などで、今も生活困難な人々を覚えます。このような思いもよらない人生の出来事の中で、私たちは初めて、自分の弱さを知らされます。そしてもはや自分の力の及ばない人生の壁にぶつかるとき、私たちは何とか生きる力を、希望を得ようと求めるのではないでしょうか?

 詩編の御言葉は語ります。
 詩94:17-19主がわたしの助けとなってくださらなければ わたしの魂は沈黙に伏していたでしょう。「足がよろめく」とわたしが言ったとき 主よ、あなたの慈しみが支えてくれました。わたしの胸が思い煩いに占められたとき あなたの慰めが わたしの魂の楽しみとなりました。
 「慰め」というと、なんだか単なる気休めの言葉として受け取られがちです。何の根拠もない、口先だけの慰めや甘い飴のような慰めとして、軽率に語られることが多い。しかし聖書の語る慰めは、どんなときも私たちを生かす力、「わたしの魂の楽しみ」私たちの魂への配慮に生きてくださる方が共にいるということです。

 人は何によって生きるか?
 コリント前書13章「信仰と望みと愛と、この三つのものは限りなくのこらん。しかしてそのうち最も大いなるは愛なり」。
 私たちは信頼し、希望し、愛する人格関係の中にあって、初めて信実に生きる力を得るのではないでしょうか。その関係が断ち切られるとき、私たちは絶望し、生きる力を失います。
 聖書の語る慰めは、私たちにとこしえに変わることのない信仰と望みと愛を与えてくれる。しかして最も大いなる慰めの力は愛である。
 愛が枯渇すると人は死にます。そのことを象徴する出来事として、以前自分の状況を「あいうえお」であると訴えた少年がいたそうです。「あいうえお」、愛に飢えた男という意味です。世の中には、このように愛に飢えた男、愛に飢えた女が沢山います。この世界中の愛に飢えた「あいうえお」のためにこそ、私たち一人ひとりのためにこそ、救い主イエスさまは来られた。

 イエス様は言われました。「わたしは良い羊飼いである。良い羊飼いは羊のために命を捨てる」。イエス様は、私たちが信仰と希望と愛に信実に生きるために、ご自分の命を私たちひとり一人に差し出してくださった。そればかりかこの方の命によって、私たちに、とこしえに変わることのないただ一つの慰めが与えられる。
 私たちの人生のただ一つの慰めは、どんなときも私たちを生かす力、「わたしの魂の楽しみ」私たちの魂への配慮に生きてくださる方が共にいてくださること。

 ハイデルベルク・カテキズムと呼ばれる教会の古い信仰問答書では、その最初の問いに「生きる時も、死ぬ時もあなたのただひとつの慰めは何ですか」とあります。その答えは「イエス・キリストが共にいて下さる慰め」。人生の極み、「死」を迎えるにあたっても、キリストが共にいてくださる。クリスマス、神はその独り子を、わたしたちのただ一つの慰め、救い主として賜わってくださった。
 神の御子キリストは、十字架によって私たちすべての死に伴う痛みや苦しみをご自分の身に引きうけて死んで下さいました。また同時に死せる私たち人間のどうにもならない罪を贖って、神と共にある信実な命をもたらしてくださいました。この私のために、皆さん一人ひとりのために、価なくして神は御子の命を与えて下さった。ここに私たちに対する神の深い愛があります。この方を私たちの人生の救い主として迎えることこそクリスマスの本当の喜びです。

 今日の聖書に登場するシメオンとアンナも、わたしたちのただ一つの慰めとなってくださる救い主を迎えた人たちです。シメオンとアンナは、その若い時代から、救い主イエス様の誕生を神様から知らされて何年も、何年も待ち望んだ人たちでした。やがて待ち望みつつ、年老いてゆきました。そしてとうとう待望の救い主イエス様に出会うことができたのです。
 シメオンはヨセフとマリアに連れられて神殿にやってきた赤ん坊のイエス様を腕に抱き、神をたたえて言いました。「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます。 わたしはこの目であなたの救いを見たからです」。

 シメオンはイエス様を見る前から、聖霊によってイエス様を人生のただ一つの慰めとして、神の民イスラエルの慰めとして信じて、待ち望んでいました。そしてとうとうこの日が来た。「私たちの慰め、救い主イエス様を見ることができた。ああこれで私は安心して死ぬことができる」シメオンは赤ん坊のイエス様をその腕に抱き、この日が人生最後の日となってもよいと思うほどの慰めを与えられたのでした。
 私たちも人生の中で、最高に素晴らしい出来事に合うとき、もうこれで死んでもいい!なんて叫ぶことはないでしょうか。まさにシメオンは人生最高のときでした。私たちのただ一つの慰めとなってくださる救い主と出会えたのですから。
 アンナもその長い人生の中、いろんなことがあったと思います。結婚して早くに夫を亡くし、その後女預言者として神殿を離れず、その悲しい時も、嬉しい時も、いつもイエス様を、救い主、慰め主として待ち望んだのです。まさに生きる時も死ぬ時もただ一つの慰めとして、イエス様と出会った人でした。
 このシメオンとアンナの様子を見たヨセフとマリア。それまでも天使から知らされていましたが、この時、本当に「イエス様は救い主である。これにまちがいない!」と確信させられたのでした。
 
 私自身も教会のシメオンとアンナのような信仰の先達からイエス様を救い主として知らされました。最初に父母に連れられて教会へ導かれ、教会の先達の祈りによってイエス様を救い主として信仰告白するに至りました。嬉しいとき、悲しいとき、どんなときもイエス様が私の人生に共にいてくださる。そのことをシメオンやアンナのような教会の信仰の先達の生き方を通して、また死にゆく様を通して確信させられました。どんな時も、「死」を迎えるにあたっても、キリストが共にいてくださる。もはやわたしが私自身のものではなく、体も魂も、生きるにも死ぬにも、わたしの真実な救い主イエス・キリストのものとされている。それは私たちの人生のただ一つの慰めです。
 パウロは「わたしは福音を恥としない」「キリストの十字架を恥としない」と言いました。教会はキリストの十字架の執成しに裏打ちされた福音の慰めを恥としないのであります。

 日本では、困った時の神だのみで、慰めは勇気のないことを表していると受け取られがちです。これは真の神を知らないからでしょう。真の神を知らないので、真の慰めも知らない。
 真の神の慰めは私たちに真の力を与え、私たちに生きる勇気を得させてくださる。なぜなら、主なる神の慰めには、キリストの十字架の力が裏打ちされているからであります。真の強さと勇気は主の慰めによってこそ与えられる。
 そのことはたとえ幼い魂であっても知ることができます。
 「どんなときでも、どんなときでも 苦しみにまけず、くじけてはならない。イエスさまの、イエスさまの愛を信じて。
 どんなときでも、どんなときでも しあわせをのぞみ、くじけてはならない。イエスさまの、イエスさまの愛があるから」。
 この詩は、骨肉腫のため、わずか七歳で天に召された高橋順子という女の子が、その苦しい闘病生活の中で歌った詩です。今では「こどもさんびか」の中に入っており、教会学校やキリスト教学校で広く歌われています。
 この讃美歌には、真の祈りが込められている。本当に苦しい中で、どんなときも、どんなときも、イエスさまに祈った女の子の信仰が伝わってきます。どんなときも、イエスさまの愛が女の子に注がれ、生きる勇気を与えていた。この一人の女の子の信仰が、讃美となり、世界中の教会にキリストの愛を注いでいます。それこそ、本当の強さであり、力ではないでしょうか。

 ナチスの獄中で殉教した牧師が死を目前に次のように語ったそうです。「その人の一生に愛と光、真実が照り輝いたなら、その人生は意味あるものであった」と。人生が、長かろうと、短かあろうと、その人生にキリストの愛と光、真実が照り輝いたなら、その人の人生は充分意味あるものとされていることを知らされます。
 一体、私たちの人生に愛と光、真実が照り輝く時とはどんな時でしょう。それはこの世的には苦難の時ではないでしょうか?光は暗闇の中でこそ、その輝きが輝きとして発揮するように、キリストの光も、この世の闇、人生の苦難の時にこそ照り輝く。人生の最も暗い時とは、人生の終わり、死を迎える時。死とはその人の人生が総括されて現される時でもあります。葬儀においてその人の人生が浮き彫りにされるのはそのためでしょう。キリスト者は死という最も深い闇に差し掛かったとき、最も光を放って生きることが許されている。その輝きは、もはや人の力を超えた主のもの。
 主は湖に沈むペトロに手を伸ばしてくださったように、人生の荒波の中に沈みそうな私たち一人ひとりにも手を与え給う。主の十字架の御言こそ、私たちを救う主の御手であり、主の杖であります。主なるイエスさまが「既にわたしは世に勝っている」と現された神の国。「もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない」神の国の喜び。その喜びの向こうから差し出される主の杖、主の御手に支えられて、私たちは死の陰の谷を歩む時も、なお人知を超える神の国の喜びに包まれて生きる。そのことが許されている。それはこの世では計り知れない慰めであり、勇気を与えられる出来事であります。

 私たちは皆、苦難や死の陰の谷を歩むことを逃れ得ない人間です。しかし死を越えた方、罪に打ち勝たれた命の神が私たちの主としていてくださるからこそ、この方に「助けて下さい」と呼ぶことが許されている。私たちそれぞれの苦難の時、死の陰の谷を行くときにこそ、最も近くに、共にいてくださる神。イエス・キリストこそ、わたしたちのただ一つの慰めです。
 私たち教会もシメオンやアンナのような多くの信仰の先達によって、キリストが共にある信仰が今日まで継承されてきたことを覚えます。そしてこれからも私たちはシメオンやアンナのようにイエス様を救い主として信仰告白し、私たちのただ一つの慰めをお互いのために、子どもたちや求道者のために、これから迎えるすべて人のために祈り続けます。 

 私たちは日本基督教団信仰告白で次のように告白します。
「教会は主キリストの体にして、恵みにより召されたる者の集いなり。教会は公の礼拝を守り、福音を正しく宣べ伝え、バプテスマと主の晩餐との聖礼典を執り行ひ、愛のわざに励みつつ、主の再び来たりたまふを待ち望む」。
 この信仰告白の歩みの中で、「生きる時も、死ぬ時もあなたのただひとつの慰めは何ですか」。その答えは「イエス・キリストが共にいて下さる慰め」です。

上尾使徒教会  松本のぞみ牧師
(まつもと のぞみ)




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