2007年12月のみことば

神からの誉れ

 
 預言者や夢占いをする者があなたたちの中に現れ、しるしや奇跡を示して、そのしるしや奇跡が言ったとおり実現したとき、「あなたの知らなかった他の神々に従い、これに仕えようではないか」と誘われても、その預言者や夢占いをする者の言葉に耳を貸してはならない。あなたたちの神、主はあなたたちを試し、心を尽くし、魂を尽くして、あなたたちの神、主を愛するかどうかを知ろうとされるからである。あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わねばならない。その預言者や夢占いをする者は処刑されねばならない。彼らは、あなたたちをエジプトの国から導き出し、奴隷の家から救い出してくださったあなたたちの神、主に背くように勧め、あなたの神、主が歩むようにと命じられる道から迷わせようとするからである。あなたはこうして、あなたの中から悪を取り除かねばならない。
              (申命記13章2節〜6節)

 わたしは、人からの誉れは受けない。しかし、あなたたちの内には神への愛がないことを、わたしは知っている。わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。わたしが父にあなたたちを訴えるなどと、考えてはならない。あなたたちを訴えるのは、あなたたちが頼りにしているモーセなのだ。あなたたちは、モーセを信じたのであれば、わたしをも信じたはずだ。モーセは、わたしについて書いているからである。しかし、モーセの書いたことを信じないのであれば、どうしてわたしが語ることを信じることができようか。」

             (ヨハネによる福音書5章41節〜47節)
 私たちは日々の生活や仕事において、人から評価されたり、褒められたりすると、やる気が湧き、積極的に物事に取り組むようになります。それは、大人だけではなく、子ども達も同じです。親や先生、友人たちから褒められることにより、やる気が湧き、日々を過ごすのが楽しくなるのです。このやる気を引き出すのには、様々なテクニックがあるとされています。そして会社の管理職や学校の先生など、人を指導する立場の人たちには、部下や生徒をやる気にさせるテクニックを磨くことに余念がないのです。このように人々は、褒められ、ある時はおだてられ、自分のやる気、モチベーションを高めていくのです。それは、人から認められたいという、社会に属している私たちの要求であるとも言えるのです。反対に、けなされ、叱られてばかりいたならば私たちは、やる気が失せていくのです。そして、そのことがきっかけで自分の殻に閉じこもってしまうことすらあるのです。わたしたちは、褒められ、認められること、そのことで、私たちは生きる活力を得ているのです。

 今日与えられました聖書の箇所は、安息日に病気の人を治したことに対する、ユダヤ人たちの批判に対して、主イエスが御自身が救い主であり、神の御子であるという、証しを話される箇所の続きです。 主イエスは、「わたしは、人からの誉れは受けない」と言われます。私たちは、人から認められ、ほめられることにより生きる希望を得ています。それを生きる力にしている面があるのです。しかし、主はその人からの誉れ、人の褒めることや、賞賛を受けないというのです。何とも寂しいことではありませんか。主イエスこそ、神の御子として褒め称えられる方であるはずですのに、その誉れを受けないと言われるのです。先週も申し上げましたように、ユダヤ人たちは、バプテスマのヨハネは預言者と認めようとしたのに、主イエスのことを救い主とは認めようとしませんでした。その様なユダヤ人たちに向けられて語られたのがこの、「人からの誉れは受けない。」と言われた言葉なのです。ここで主イエスは、救い主を救い主と認めないような人々の誉れは受けないと言う意味で、人からの誉れは受けないと、はっきり言われたのです。私たちも、神を信じない人々のよこしまな考えによる誉れ、栄誉に注意しなければなりません。このような一見、気持ちの良い、褒め言葉というのは、私たちを油断させ、その信仰を弱くする恐れがあるのです。人の褒め言葉というのは、気をつけていないと、自分がたいそうな、立派な人であると錯覚させるのです。そのような間違った考えを自分の心の中にもたらします。そして、その様な褒め言葉は、心からの場合もあるのですが、そうでない場合もあることを私たちは知っています。相手を油断させるため、相手の気をそぐために、気持ちの良い褒め言葉を並べている場合があるのです。ですので、私たちは、ここで、罪深い私たちの存在について考えなければならないのです。いくらこの世の人々が、自分を褒め称えようとも、私たちは神から見れば、罪に汚された、一人の小さな者なのです。そのことを覚え、神にすべての栄光をお返しする気持ちが必要なのです。そのことを主イエスは「人からの誉れは受けない。」というみ言葉で、私たちに教えておられるのです。

 ユダヤ人たちの心の中には、神への愛が無いことを知っていると、主は言われます。御子は神の身分であったわけですから、その御子を認めようとしないユダヤの人たちは、その様に言われても仕方がなかったのです。主イエスは律法の中で最も大切な掟について、神を愛することと隣人を愛することを示されました。彼らユダヤ人たちは、この神を愛することをしなかったのであり、その点で、神に従うことをしなかったのです。

「わたしは父の名によって来たのに、あなたたちはわたしを受け入れない。」(ヨハネによる福音書5:43)と主イエスは言われます。このことは、ユダヤ人たちに御自身を示されるこの箇所で、何度となく繰り返されています。御自身が父の名によって来られたのは、父である神が主を遣わされたことによります。そして、主イエスはこの父の命令に忠実であられたのです。御子が父に忠実であられたのは、私たちも知っているとおりです。栄光ある神の御子であるという地位を捨てて、十字架の上で私たちの身代わりになって死なれるまで、父である神に良く従われたのです。この主イエスの神に従われたことを私たちは覚え、それに倣う必要があります。そのことを思うとき、自分自身を高くして、大人物のように見せ、威張っているような牧者が教会にいたならば、私たちはそれを拒まねばなりません。その様な人は、自分を大きく見せることに熱中し、自分のことをまず第一に考え、主イエスに倣っていないからです。

 神に従わない、神の御子を受け入れない人々に主は続けて言われます。
「もし、ほかの人が自分の名によって来れば、あなたたちは受け入れる。」(ヨハネによる福音書5:43)
 もはや、主イエスを神の御子と認めず、御子を心から愛していないユダヤ人たちは、主によって自分以外の人が、救い主を語り、現れたならば受け入れるだろうとまで言われてしまいます。本当の救い主は受け入れることが出来ないが、ニセ救い主、ニセ預言者ならば受け入れると主は言われるのです。ユダヤの人々が、本当の救い主に目を向けず、神の御子を崇めない様子は、偽物を受け入れてしまうとまで、主イエスに言わせてしまうのです。

 先ほど読みました、旧約聖書の申命記において、その記者はニセ預言者たちが現れ、他の神々に従うように誘ったとしても、それらの者に耳を貸してはならないと言います。そして、神が、そのことを通じて、人々が、心を尽くし、魂を尽くして、神を愛しているか試されるからだと言うのです。申命記の記者は私たちに勧めます。
「あなたたちは、あなたたちの神、主に従い、これを畏れ、その戒めを守り、御声を聞き、これに仕え、これにつき従わなければならない。」(申命記13:5)
 信仰に生きている私たちは、このように、神を愛し、神に従うことが必要です。間違っても神に従わず、神に背くような事があってはならないのです。また、このユダヤ人たちのように、主自らに、このように言わせてしまうような不信仰ではいけないのです。救い主ではない人を救い主として受け入れるようなことがあってはならないのです。

 続いて主イエスは言われます。
 「互いに相手からの誉れは受けるのに、唯一の神からの誉れは求めようとしないあなたたちには、どうして信じることができようか。」(ヨハネによる福音書5:44)
 主イエスはここでユダヤ人たちに、信仰を妨げるものを明らかにしています。彼らは人間的な野心、欲望のために、神に従うことを二の次にしてしまっていると言うことであります。始めに申し上げましたように、確かに私たちは、人から認められ、場合によっては褒められることを、仕事や勉強を進める上での生きる力としている面があります。そのことを否定するものではありません。しかし、そのことだけに心を奪われ、信仰が二の次になってしまったなら、信仰が疎かになってしまったならば、それは、神からの誉れを受けようとしないで、この世の誉れ、相手からの誉れを受けることにだけ、熱心であると言わざるを得ないのです。また、このことは、何も世の中のことばかりではありません。教会の中でも、人に見せるために、自分を高く見せようとする、熱心に見せようとする、この人に見せようとする、という行いが、信仰の歩みを邪魔していることになるのです。それは、牧者であっても信徒であってもあり得るべき事なのです。そして、世の中のことよりも、教会の中での、野心や欲望の方が、より信仰の妨げになることを、私たちは覚える必要があります

 主イエスは宮清めの出来事の時、神の家である神殿を、利益を求める欲望の場所にしてしまった商人達に言われました。
「わたしの家は、祈りの家でなければならない。ところが、あなたたちはそれを強盗の巣にした。」(ルカ19:46)
 例え教会で商売をして、必要以上の利益を懐に入れなかったとしても、心の中で神を敬わず、自分の野心を満たそうとするならば、それはキリストの体である、教会を強盗の巣にしていることになるのです。
 教会の中の偽善者たちは、神の前で自分を低くするのではなく、自分を高く見せようとするのです。それは、主イエスが非難したファリサイ派や律法学者の偽善的な態度にも繋がるものです。そして、教会の人々の前で常に野心的に振る舞うのです。そのような人々に注意する必要があるのです。

 では、神からの誉れとは何か?神からの誉れとは何を示しているのでしょう?まずここで、私たちが考えなければならないのは、神から誉れを受けるのはどの様な人であるかと言うことです。そのことを考える上で、主イエスのこの世でのご生涯は、私たちに道標を与えます。モデルを示しているのです。フィリピの信徒への手紙には、主イエスがなぜ神の栄光を受けるものとなったのか記されています。
 「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした。このため、神はキリストを高く上げ、あらゆる名にまさる名をお与えになりました。」(フィリピ2:6?9)

 パウロはこのような主イエスの、この世でのご生涯を模範としなさい、そのような主イエスの歩まれた道に倣いなさいと勧めているのです。神の誉れはこのような主イエスがこの世で歩まれたように歩む者に与えられるのです。もちろん、私たちは神ではありませんので、すべてを主イエスのように行うことは不可能です。しかし、主の歩みに倣うこと、主の歩みに近づくことは出来るのです。そのためには、神の前で自分を偽ることを止めることです。神はすべてをご存じであられますので、その様なことは無駄なことですし、神の前にさらに醜い自分をさらけだすことにもなるのです。そして、自分を生きた供え物として神の前に差し出すのです。生きた供え物として差し出すと申しますと、何か大げさな、たいそうなことのように聞こえますが、私たちがそんなたいそうなことを出来ないのは、神御自身が最もよくご存じです。パウロも言っておりますように、ただ主イエスを、ただ一つの神として信じる、救い主として信じること、それも本当に信じること、それに尽きるのです。そして、本当の栄光、神から来る栄光だけを求めるのです。そうする人は、自分の罪深さを認め、神の前に謙虚に歩むことが出来るのです。その様な人は、神からの誉れ、栄光を受けて神の国に入ることが出来るのです。

 45節では、主は救い主を認めないユダヤ人たちを訴えるとすれば、それは主御自身ではなく、モーセである言われます。ユダヤ人たちが希望とし、大切にしている律法を記したモーセがユダヤ人たちを訴えるというのです。なぜならば、彼らはモーセの律法を大切にしていると言いながら、その律法の目指すところを読み取っていなかったからです。そして彼らの神の御子を認めようとしない行いそのものが、心を尽くし、魂を尽くして神を愛せという律法の掟に反していたのです。モーセの律法に反していた彼らは、モーセにより訴えられると主は言われるのです。さらに、主はモーセを信じているはずなら、わたしをも信じたはずだと言われます。その理由として、モーセはわたしについて書いているからだと言われます。 ヘブライ人への手紙には次のように記されています。
 「モーセが神の家全体の中で忠実であったように、イエスは、御自身を立てた方に忠実であられました。家を建てる人が言えそのものよりも尊ばれるように、イエスはモーセより大きな栄光を受けるにふさわしい者とされました。」(ヘブライ人への手紙3:2?3)
 
 すなわち、この箇所でモーセは教会を治める者として記されていますが、キリストは教会の建物全体を建てる者として例えられています。そして、建物を建てる人の方が建物を治める人よりも、尊ばれるとされています。モーセは人々を治めてはいたけれども、彼もまた神の僕だったのです。モーセは神の僕として、神の示された掟を人々に伝えたのです。その掟の目的は、人々が神に従うならば、幸いな生活を神は約束されるというものでした。従って主イエスの福音は、民が幸いな生活を送るために、神が民に示された新しい約束だったのです。にもかかわらず、モーセの律法を良く研究していた彼らでさえ、そのことが分からずに頑なになってしまったのです。

 主イエスはこの箇所を通じて、御自身のことよりも、モーセの権威について多く触れられています。それは、ユダヤ人たちに分かり易く御自身のことを伝えるためであったのです。彼らは神からの律法を何よりも大切に考え、聖なるものとしてきました。ですので、モーセの権威をお話になり、そのことと関わらせる中で、御自身を証しようとなされたのです。しかしながら、彼らは頑なに主イエスを救い主とは認めようとしなかったのです。 私たちには終わりの時、裁きの時は、それがいつかについては明らかにされていません。主イエスは、このことについて、私たちに教えておられます。
 「だから、目を覚ましていなさい。あなたがたは、その日、その時を知らないのだから。」(マタイ25:13)

 十人の乙女が灯火を持って花婿を迎えに行くたとえで、主が教えられたことです。私たちは目を覚ましている者として、日々を過ごしたいと願います。人からの誉れより、神からの誉れを喜びとする日々を送りたいと願うのです。その日の備えとして私たちがなすべき事は、ただ神を信じる生活を送ることです。神を信じ、謙虚に神の御旨を尋ね求めること、そのことの積み重ねが、その日、その時の備えになり、神からの誉れをいただく事になってゆくのです。
熊谷教会  布村伸一牧師
(ぬのむら しんいち)




今月のみことば              H O M E