2007年1月のみことば |
だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古いものは過ぎ去った。見よ、すべてが新しくなったのである (コリントの信徒への手紙2 5章17節) |
以前、テレビだったかあるいは何かの雑誌だったか忘れたが、「人には変身願望がある」という言葉を耳にしたことがある。それは自分に対するコンプレックスから来るのか、それとも向上心の表れか、はたまた自分が抱く目標と現実の自分との差が生み出すものなのか…。それは人夫々であろうが、誰しも「今の自分でないものに憧れる思い」はあるのだというべきであろう。日本人は美容整形を良しと考えない傾向が強い、と云われている。「親から貰った顔を変えるとは…」という理由が大きいとの事だ。これが中国や韓国に行くと、「美しくなるのだから、結構なことではないか」と整形手術をして変身することを大いに認めている。これも、変身願望の現われだろう。 さて、上記の聖書の言葉に注目しよう。「コリントの信徒への手紙2」という書の名前からわかるように、「コリントの信徒への手紙」と題する書は二つある。「2」があるのだから、「1」もある。「1」に於いては、著者パウロが、コリントの町にいるキリスト者を愛をもって叱っている。というのも、折角キリストの十字架の愛に触れて信仰の告白をし、救われたコリントの町のキリスト者たちが、「指導者の誰につくか」ということで割れているということを、パウロが耳にしたからである。『わたしはパウロにつく』『わたしはアポロに』『わたしはキリストに』と。そこでパウロは、「コリントの信徒への手紙1」で、「救い主は、キリスト唯お一人である」ことを再三にわたり教え、「信仰の土台は、キリストのみでなければならない」ことを強く、愛をもって書いている。 では、何故また「2」を書く必要があったのか?先の手紙を送ったことで、教会に生じた問題の全てが解決したのではなかった。逆に教会の信徒同士の亀裂は激しさを増し、中にはパウロを攻撃する者まで出てきた。コリントの教会を愛し、様々な苦労をコリントの教会の為に捧げてきたパウロにとって、コリントの信徒達のパウロ攻撃がどれほど辛いものであったかは、想像するに余りある。 これは、かつての不信仰な人たちに限ってのことだ、とは云えない。人間というものは、弱く、脆く、不確かで、また愚かなものである。「そんなことはあるものか!!」と怒られた方も、いるかと思う。世間には立派な人もおられるわけで、「不確かで、愚かな」と云われると腹立たしい思いすらされる方もおありだろう。しかし、人間は本当に不動なのだろうか?信念を貫き通す人もいる。けれども、悩むこともあったはずだ。へこんでしまうこともあっただろう。愚痴をこぼしたいこともある。 弱さを持たない人は、逆を考えると、本当の強さにも出会えないのではないであろうか。弱いからこそ、立ち止まって考える。不確かだからこそ、確かなものは何か?と思いを馳せる。愚かだからこそ、本当に賢いものの存在に気づき、「自分こそが一番」と信じ込むことの恐ろしさを実感できるのでなかろうか。 この「弱さ、脆さ、不確かさ、愚かさ」と云った、一見人間のマイナス面と思われることが神様との出会いを起こしてくれる。 しかしある時には、このマイナス面がキリスト者を不信仰に陥らせることがある。「弱いからこそ、目に見えない神様を信じる」という一面があったかと思えば、「弱いからこそ、目に見えない神様を見失うときがある」のである。神様を信じている者でさえ、時に神様を見失うときがある。余りに苦しい時、苦しさの余りに「神様はどこにいるのか?」という言葉が口を出ることがある。逆に、余りに何事も無いときにも、神様に頼る必要が無くなるが故に、神様に真剣に向き合わなくなる。それも又、見えないからこそ見失うという人間の弱さである。人はどこまでいっても、弱く愚かな一面を持っている。 イエス様は、私達の為に十字架にかかってくださって、私達の罪を赦してくださった。「神様を神としない生き方が、本当の生き方ではないのだ」ということを、十字架の死を通して私達に教えてくださり、「神様を信じる本当の生き方へと軌道修正させてくださった」のだ。イエス様はご自分の命を投げ打って、私達に‘本当の生き方’を教えて下さった。「神無しで生きて当然」という私達の罪を赦すために、十字架の上で惨めでむごたらしい死を負って下さった。イエス様の十字架の赦しに心を打たれた時から、私達は新しい生き方への転換が始まっている。『だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である』という聖書の言葉は、「イエス様の十字架の赦しによって人生の軌道修正させて頂いた者は、誰もが新しい人生を始めさせて頂いている」ということである。 美容整形や転職や人生のやり直しの‘何か’をしなくとも、神様を信じることで‘人生の根本’を変えることが出来る。これは、一時的な変身や外見の変化に終わらない。‘私の存在の根本’が変わるのだ。神様の愛に打たれたならば、愛される喜びに生きる者に変えられる。これこそが、究極的な変身と云える。『古いものは過ぎ去った』という言葉には、「既に滅びうせた」という意味がある。「過ぎ去った」過去のものとしてどこかにあるのではなく、「滅びうせた」のだ。過去のものとしても、今や、存在しないのだ。だから、過去の私をまた繰り返すことは無用。不確かな私は滅びうせ、神様という強力な方が私の内部から支えてくださる。だからわざわさ過去の私を繰り返して、不確かさの中で思い迷うことは要らない。古いものが滅びうせた私の中にあるのは、『すべてが新しくなった』そのものなのだ。過去の弱さを振り返る必要はない。かつての自分の愚かさを振り返っては、ため息をつくことはもう必要ない。私の中は、すべてが神様によって新しくなっている。神様を信じるということは、最大級の変身なのだ。 コリントの教会のキリスト者が救われたのにも拘わらず、見える指導者を信じていくという姿は、「新しくなった私が、再びかつての私に戻っていく姿」に見える。しかし滅び去った自分は、もはや存在しないのだ。キリスト者として生きることは、見えないけれども確かな神様を仰いで生きることだ。新しい自分として生きる目の前には、確かな神様の人生の案内板が常にある。もう迷わなくてもいいのだ。 『すべてが新しくなった』人生は、難しいことではない。自分を神様にお任せしてしまえばいいのだ。弱さを感じた時には、神様にすがればいい。苦しみを味わっている時には、神様に助けを求めればいい。喜びに満ちている時には、神様に感謝して讃美すればいい。私達が神様から離れそうになったとしても、神様は私達を見捨てはなさらないのだから。見えないお方を見つめて生きることは、常に‘神様の愛の御手が、自分を抱きしめていて下さっている’ということを感謝して生きること。本当に愛された者は、変わって来る。欠けがえのない自分として生かされていることは、自信と喜びと責任を与えてくれるのだ。 愛された者は、愛する者へと変えられて生きる。『すべてが新しくなった』。神様は、‘変身’をかなえさせてくださる最高の名手である。さあ、皆さん、本当の変身をしよう!! |
初雁教会 町田さとみ牧師 (まちだ さとみ) |
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