2006年1月のみことば |
「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」 (ヨハネによる福音書17章21節) |
昨年末のことです。「夜回り先生」水谷修さんを追ったドキュメント番組から目を離せなくなりました(再放送でした)。番組では、水谷修さん自身からいろいろな子供たちとの出会いと出来事が語られ、カメラは水谷さんを追ってその活動(講演、電話相談、夜回りなど)をつぶさに見せました。 ある高校での講演です。水谷さんは、「自分は一睡もできなくてここに立っている。それは、自分が関わってきた少年が死んだと知らせを受けたから」と、語り始めました。 その少年はいじめを受けて学校に行けなくなった。むりやり学校に行かせようとした親にも心を閉ざした。そして、自分の部屋に閉じこもっていた。あるとき水谷さんの存在を知った。メールで「死にたい、死にたい」とメッセージが送られてきた。彼は電話をかけることができない。それで、水谷さんとメールでのやりとりが始まった。ある日、「いい天気だよ。窓を開けてごらん」と水谷さん。彼は窓を開けてみた。外を見た。「おばあさんがゴミ袋を引きずっているよ」。「行って、手伝いなさい」。彼は外に出た。おばあさんのゴミ袋を持って収拾場所まで運んだ。彼は、とても恥ずかしかったので家に駆け込んだ。「おばあさんが後ろから『ありがとう』って声をかけてくれた。うれしかった」。「それでいいんだよ」と水谷さん。 少年はおばあさんとの交流を通して、少しずつ変えられていった。ところがある日、かつて彼をいじめていた同級生に会った。「何だ、お前まだ生きていたのか」。少年はその言葉に打ちのめされた。「死にたい。死にたい。先生助けて」とメールを送り続けた。ところが、水谷さんは講演で数日間自宅を離れていて、少年からのメールを読めなかった。少年は薬を飲み、自ら命を絶った。水谷さんは、少年の親からその死を知らされた。それが講演の前夜のこと。 「その少年を救えなかった自分は、講演に立つ資格はないと思う」。水谷さんはそう語りながらも、生きるのがつらい子供がいる限り自分は活動する、いのちがどれだけ大切か知ってほしい、と訴えていました。生徒たちは身じろぎもせず、講演に聞き入っていました。 水谷さんは、相談を寄せてくる子どもたちに、「つらかったね、たいへんだね」と言わないそうです。言ったらその子たちが「自分はかわいそうなんだ」と、悲劇の主人公になってしまうから。そうではなく「人のために何かしたことがあるか。何か小さいことでいいから、しなさい。靴磨きでも、何でも。体を動かしなさい」と言います。「命は人のためにある」。「人は太陽の下で生きるんだ」。「闇から逃げなさい。光へ行くんだ」。「いつまでも水谷に頼ってはダメだけど、今は一緒にいるよ」。温かく、きっぱりと言葉をかけます。 水谷さんには、一日に500通ほどのメールが届き、真夜中の電話も絶えずかかってきます。夜回りもしています。全国から講演依頼もひっきりなしにきます。それらに誠実に適確に対応しています。水谷さんは自分だけで何とかしようとしていません。本人の力を引き出し、医療・福祉等社会資源を有効に活用しています。 この番組を見ていて心が揺さぶられました。社会の闇の深さと悲惨を、まざまざとつきつけられました。闇にからみとられていく子供たち。いじめ、リストカット(自傷行為)、タバコ・酒・薬物依存、引きこもり、家出、援助交際、家庭内外の暴力、性病・エイズ、etc。その中で、心が叫んでいる。叫び声が響いている。「死にたい!」は「生きたい!」の裏返し。何のために生きているのか分からない。そんな子供たちが大勢いるのです。 一方でわたしは「うーむ」と唸っていました。それは、水谷さんが子どもたちに語る言葉が、聖書の言葉と重なるからでした。「人のために、何か小さいことでいいからしなさい」というのは愛の実践ではないか。「闇から逃げなさい。光へ行くんだ」。どんなに闇が深くても光は輝いていると、「光の子として歩め」と、聖書に書いてある。「いつまでも水谷に頼ってはダメだけど、今は一緒にいるよ」。共に喜び共に苦しむ交わりを教会は知っているし、人は限りある存在だと知っている、そう思わされました。 だから「教会は何をしているのか」と問われました。生きづらさを抱えている大勢の子供たちが、日夜、水谷さんに助けを求めている。教会は答えを持っているはずなのに。しかし、今のわたしには水谷さんと同じことはできないし、今の西川口教会に子供たちを救う力はないと言わざるを得ません。 さらに、「人は人格的な関わりがなければ生きていけないのだ」と改めて感じました。というのは自分の内側を見てばかりでは決して聞こえない言葉、「あなたは生きていていいんだよ! かけがえのない大切な存在なんだから!」。そういう確かな言葉―外から来る救いの言葉―を、子供たちは待っている。 番組を見終え、しばらくして興奮から冷めたとき、「目を奪われるような悲惨な現実は氷山の一角。その水面下部分、その現実を生み出してしまうところに救いが必要だ」と思いました。 そして、「わたしたちは、本当に健やかで人格的な関わりを持っているか」。そう、自分に問いかけてみました(教会ではその関わりを「交わり」と呼びます)。 人格的な交わりはどのようにして成り立つでしょうか。基本は聴くことです。相手と正面から向き合い、相手の話を本気で聴くこと。そしてその時の自分の気持ちを正しく相手に伝えることです。ですから大切なのは相手の本心が分かるまで聴くことです。しかし、これがなかなか難しい。 あるクリスチャンご夫妻がクリスチャン夫婦のセミナーに参加したとき、一つの実習を課されたそうです。それは、夫婦それぞれが、二人で話したいことを話す。なぜそうなのかをまず夫が説明する。妻が夫の語ったことを自分の言葉で復唱し、自分の理解が正しいか夫の確認を求める。正しく伝わっていることが確かめられたら、今度は妻が説明し、夫が復唱して妻の確認を求めるというもの。「なんとばかげた実習だろう、すぐに終わる」と思ったのに、実際には、参加していた夫婦が殆ど夫婦喧嘩を始めて、お互い相手の言うことを正しく聴いていない現実に直面させられたということです。 わたしも似たりよったりです。そして実は、主なる神との関わりにおいても、語ることを正しく聞いていない現実があります。ですから、主なる神との交わりが浅いのです。 幸いなことにイエス・キリストが、十字架に命をささげる前に、天の父に祈ってくださいました。「父よ、あなたがわたしの内におられ、わたしがあなたの内にいるように、すべての人を一つにしてください。彼らもわたしたちの内にいるようにしてください」(ヨハネによる福音書17章21節)。 主イエスが祈られたように、神の力がなければ、わたしたちは主との人格的な交わりに生きることができません。人は、主なる神との交わりの中で、自分が神に愛されていることを確認し、平安を与えられます。そして、神に愛されていることに気づいた時、他の人にもその愛が注がれていることを認め、受け入れ、愛することができるようになります。 日々聖書を開き、主の本心が分かるまで、静まって主の言葉に聴く、主が語られることを聴いています。その上で、自分の率直な気持ちは何であるかと探り、それを伝えています(それが「祈り」)。 そんな小さな祈りでも、神は聴いています。祈りによってわたしたちは、世界に変化をもたらしているのです。そして主イエスの祈りが聞かれないはずはありません。ですからここに希望があるのです。 |
西川口教会 金田佐久子牧師 (かねだ さくこ) |
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