2005年11月のみことば |
聖書箇所 ペトロの手紙T 1章1節〜12節 |
聖書によりますと、初代教会の誕生はペンテコステの日でありました。その日、ペトロの説教を通して、3千人が父と子と聖霊の聖名によって受洗し会員となったとあります。 ペトロの手紙T1章1節から見ますと、これらの人々はポントス、ガラテヤ、カパドキア、アジア、ビティニアの各地に離散して仮住まいをし、聖霊降臨を心から待ち望んでいた人々であり、2節には「父である神があらかじめ立てられた御計画に基づいて、"霊"によって聖なる者とされ、イエス・キリストに従い、また、その血を注ぎかけていただくために選ばれたのです。」とあります。そして、3節後半においては、イエスキリストの復活によって、生き生きとした希望が与えられ、4節では「あなたがたのために天に蓄えられている、朽ちず、汚れず、しぼまない財産を受け継ぐ者としてくださいました。」と、書かれています。何とすばらしいことではありませんか。私たちもゆるぎない強い信仰を持って進んでゆく時に、神の恵み、平安、豊かな望みを頂くことができると言われているのです。 しかし、6、7節では「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、」とあります。私たちは信仰を持ったからと言っても、神さまからのお守りや平和を頂いても、喜んでばかりはいられないのです。生きてゆくときにはいろいろな試練にあうこともあります。でも、その苦しみに打ちひしがれて、再び立ち上がれなくなるようなことは決してありません。私たちがその試練だけを恐れ、神様とのつながりを忘れてしまったら、どん底に落ちてしまいます。そのような時にはいっそう神さまとのつながりを持って、神に近づく祈りを積まなければなりません。讃美歌312番「いつくしみ深き」の2節にありますように、「われらの弱きを知りて憐れむ。悩み悲しみに沈めるときも、祈りにこたえて慰めたまわん」と、私たちの弱さも悩みもそして苦しみも、すべてを神さまは知っておられるのです。心の中をからにして真剣に祈り求めてゆく時、神さまの選びにあずかっている私たちに恵と平和が豊かに与えられ、生き生きとした希望へと主はいざなってくださいます。 今日は、私たちの教会の創立記念日です。初代教会の誕生はイースターから50日目の聖霊降臨日(神様によって聖霊が与えられた日)でありました。主イエス・キリストの十字架の死によって大きな打撃を受け、壊滅的な状態に陥った弟子たちでしたが、聖霊降臨によって、どんな力も阻止することができないキリスト教会が誕生したのです。「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています(8節)」とあります。私たちの日野原記念上尾栄光教会は初代教会の誕生から約2千年の時が経過した1963年の聖霊降臨日の翌週(5月22日)に設立されました。誠に意義深いものを感じます。 この教会は旧大宮市の郊外の今羽に建てられましたが、新幹線の建設にともなって現在の地に移転しました。教会設立準備当時から今日までの過程を3つに分けて紹介いたします。 1.設立までの準備 日野原善輔牧師は「自分が建てる最後となる教会を関東教区に建てたい」という願いを叶えるため、ゆり夫人と共に、新会堂建設の資金計画を達成すべく、米国メソジスト教会のモーア監督、ベレー牧師、パールモア牧師のお助けを頂き渡米しました。1957年4月のことでありました。ジューク大学に客員教授として籍を置き、週末には夫妻で伝道旅行、諸集会の問安をし、「我今日あるは神の恵みによる」と題して精力的に伝道活動をいたしました。しかし、いよいよ帰国という直前に善輔牧師は病に倒れ、お世話になった方々へほほえみを持って感謝しつつ神様のみもとに召されたのでした。 その後、ゆり夫人は夫善輔牧師の遺志を継ぎ、関東の地に教会建設を志し、牧師となるために日本聖書神学校の3年に編入し、卒業後、米国での募金と日野原重明先生の応援を得て、1963年5月22日に今羽の地に大宮北伝道所が開設されたのです。この地は当時の大宮教会谷川真海牧師が探してくださったもので、その後も国内募金時には発起人となってくださり、現在も大宮教会が親教会となっていてくださることにつながっています。 2.大宮北伝道所時代 開所時は、家庭の一部屋で礼拝をしていました。畳の部屋でオルガンと黒板があり、家庭礼拝的でした。その後、2度の国内募金をすることにより、多くの教会・個人の献金によってモダンな教会堂を建てることができました。日野原ゆり伝道師は、主日礼拝、教会学校、祈祷会、婦人会と諸集会のために精力的に働かれました。当時、月に1回は主日礼拝に埼玉地区宣教師上川嬰児先生ご夫妻がご奉仕くださり、午後にバイブルクラスをいたしました。上川夫人によって料理教室が始められると、婦人会が盛んになり、伝道所は少しづつ成長して行きました。 1965年には、ゆり伝道師が米国において学んだ幼児教育を推進するため「ひかりの園幼児クラス」が開設され、小さいときから一人ひとりを紳士淑女として取り扱い、キリスト教の精神をもとに幅広い人間性豊かな教育をモットーに運営されました。1970年、同師は按手礼を受け正教師となり、10人近い洗礼者が与えられています。そのころから上越・東北新幹線計画が浮上し、現在地への移転となります。 3.現在地での教会建設 ゆり牧師は病身となりながらも宣教に励み、1978年3月15日に土地415坪の現在地に、教会堂・牧師館・教育館を完成させました。善輔牧師の「関東教区内に教会を建て宣教したい」という遺志を実現させ、日野原記念上尾栄光教会が誕生したのです。しかし、ゆり牧師は長い療養生活に入り、数人の信徒によって教会の礼拝を守るようになり、ゆり牧師は病が癒えず召され、無牧師状態となりました。困難はつづき、土地区画整理問題が浮上し、教会は2800万円もの負担を求められることになりました。信徒であった私は、大腸ガンを身に受けていましたが、召命を受けて、日本基督教団教師試験を受け、主の深いあわれみと導きをいただいて、按手礼を受けるにいたりました。 このように、この教会の歴史を振り返ってみますと、試練は次から次へと押し寄せてきましたが、神様が本当にいつも共にいてくださって、どんな試練の中にあっても私たちの祈りにお応えくださり、困難の中にも生きて働いてくださっていたことを実感させられるのです。 現在、私の体調は決して十分とは言えませんが、教勢は二桁に増え、土地区画整理の課題も会員たちの祈りと努力の積み重ねによって乗り越えることができました。6節に「今しばらくの間、いろいろな試練に悩まねばならないかもしれませんが、あなたがたの信仰は、その試練によって本物と証明され、」とありますように、本物の信仰を目指して、また主の大いなる恵と愛とを覚え、感謝をもって福音を共に宣べ伝える教会としてこれからも進んでゆきたいと思っています。 |
日野原記念上尾栄光教会 千葉 厳牧師 (ちば いわお) |
※ 千葉厳牧師は、2006年3月隠退されました。 |
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