2005年6月のみことば

死の恐怖からの解放

 というのは、多くの子らを栄光へと導くために、彼らの救いの創始者を数々の苦しみを通して完全な者とされたのは、万物の目標であり源である方に、ふさわしいことであったからです。事実、人を聖なる者となさる方も、聖なる者とされる人たちも、すべて一つの源から出ているのです。それで、イエスは彼らを兄弟と呼ぶことを恥としないで、
「わたしは、あなたの名を
  わたしの兄弟たちに知らせ、
集会の中であなたを賛美します」
と言い、また、
 「わたしは神に信頼します」
と言い、更にまた、
 「ここに、わたしと、
   神がわたしに与えてくださった子らがいます」
と言われます。ところで、子らは血と肉を備えているので、イエスもまた同様に、これらのものを備えられました。それは、死をつかさどる者、つまり悪魔を御自分の死によって滅ぼし、死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放なさるためでした。
            (ヘブライ人への手紙2章10節〜15節)
 
 わたしは昨年4月に鴻巣教会に赴任して参りました。それからおよそ1年をかけて主日礼拝で、「ヘブライ人への手紙」から御言葉を語って来ました。この手紙を礼拝で連続講解として語ったのは、わたしが説教者として講壇に立つようになってから40年になりましたが、実は初めてのことでした。そうして説教者自身、この手紙から、とても多くの御言葉の恵みにあずかることが出来ました。

 2章11節に、「事実、人を聖なる者となさる方(=御子キリスト)も、聖なる者とされる人たち(=キリスト者たち・教会員)も、すべて一つの源(御父)から出ているのです。それで、イエス(神の独り子)は彼ら(キリスト者たち)を兄弟と呼ぶことを恥としない(=否定しない・否認しない・告白する)・・」と記されています。
 わたしたちは、審判者である「主なる神」の前に出ると、「罪人」であり、「不信仰者」であるわけです。が、それにもかかわらず、御子キリストによって「主の兄弟・姉妹」と呼んで頂いているわけです。主イエスと「主にあって」生きているわたしたち信仰者たちは、御子なるキリストの「兄弟・姉妹」であるということです。それほどに密接な結びつきをわたしたちは主にあって与えられています。

 12節は、詩編22編23節を「70人訳ギリシャ語聖書」によって引用しています。「わたしは、あなたの名を、わたしの兄弟たちに知らせ、集会(教会)の中であなたを賛美します。」とあります。また13節aは、イザヤ書8章17節、13節bは、同8章18節を引用して、御子キリストがわたしたち信仰者と、父なる神との間の仲保者となっていて下さることを明らかにします。

 14節に、「ところで、子らは血と肉とを備えている」とあります。それは「わたしたち」が、「血と肉を備えた生身の存在である」ということです。ですからわたしたち人間は、「弱い存在、死に向かって歩き続けている存在」ということになります。 「イエスもまた同様にこれらのものを備えられました。」
 御子もわたしたちと全く同じ「血と肉」を備えられました。キリストは生身の人間、弱い存在、死すべき方となられました。彼は「罪を他にしては」わたしたちとまったく同じ存在となられました。それは永遠者であるあのお方が、一人の「マコトのヒト」となられてこの世に受肉されたということです。この著者はあえて「血と肉」と、「血」を先にあげて、御子が十字架上で犠牲の血を流されたことを想起させるのです。このことはまた、聖餐の恵みを想起させます。 

 14節bー15節で、「それは(御子の死は)、・・解放なさるためでした」と言っています。「マン イズ モータル(人間とは死ぬ存在)」ということ、わたしたちが「必ず死ぬ」という事実は、本当に恐ろしいことです。だれも本能的に死にたくはないのです。
 わたしたちの周囲ではしばしば、「死」を「縁起の悪いこと」として忌み嫌います。「縁起の悪いこと」だから口にもしません。死についてはできるだけ考えないようにします。死ということについては「どうせ考えても分からないから考えない」と言います。「死は怖いから考えないようにしている」と言う人もいます。
 でも最近ではインフォームド・コンセプトということで「癌告知」がしばしばなされるようになりました。そこから人間への「死の教育」が必要であるということも言われるようになり、人はいかにして「死を受容」するようになれるのかということも考えられるようになりました。

 実は、そこにこそ「宗教の出る幕」があるのではないかとわたしは考えます。その場合東洋的な「無」の思想にすがろうとする立場の人もあるでしょう。それに対してわたしたちは、このテーマを、聖書の信仰、教会の告知する「命の御言葉」に聴くことへと導かれて来たのです。
 わたしたちはたしかに、「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たち」であります。わたしたちにとって、「死」という現実には、単に生物学的に存在が無に帰するという説明を聞いただけでは納得できない切実な感情が起こります。そのことを聖書は「死をつかさどる者」が実在するからであると説明します。それを「悪魔」と言い換える場合もあるでしょう。

 聖書によると、人間にとって死が不安であるのは、自己の罪に対する神の裁きがあるからだと言うことです。悪魔が私たちの良心を責めさいなむためです。それでわたしたちは「一生涯、死の奴隷の状態にある」ということです。
 しかし、わたしたちには、キリストの福音によって、その「死の奴隷の状態」から解放される唯一の道が備えられています。   
 神の御子が、御自分の受難、十字架の死によって、「死をつかさどる者、つまり悪魔を滅ぼして」下さいました。それによって、「死の恐怖のために一生涯、奴隷の状態にあった者たちを解放」してくださったのです。

 イエス・キリストの受難の御苦しみを映像化した「パッション」という映画が先般興業されて話題を呼びました。
 日本人は人間の死を「縁起の悪いこと」として忌み嫌い、死体を映像化したりすることを好みませんが、西洋絵画や映像、また音楽などでは、主イエスの磔刑像、降架風景や、埋葬風景を、これまでに無数の人々が表現して来ました。主イエスの屍の像だけでありません。人間の死の事実を包み隠すことなく表現した映像や作品がたくさんあります。デスマスクを残すのも一つのケースです。いつか「メメント・モリ」(ラテン語で「死を覚えよ」の意味)という主題の絵画展が開かれましたので、鑑賞するために出かけたことがありました。

 キリスト教的な文化においては基本的に、神の御子イエス・キリストが復活されたことによって、彼を信じて生きる信仰者たちにも、復活の生が約束されているとの信仰が前提として存在していますので、人々は「死への奴隷」の状態から解放されているのだ、と言えます。

 

 ジョルジュ・ルオーの作品「深き淵より」は、一人の男性がベッドの上で息を引き取った瞬間を絵にしています。安らかな死に顔です。死者自身も死を受容しているように思われます。死体のベッドの手前には、その妻と少年が座っています。それは、その家族にとってもっとも悲しい瞬間であるはずです。その妻も息子も、死別の悲しみや、これからの生活の不安などが幾重にも重なって、のしかかっているはずです。それなのに、妻は夫の死を、息子は父の死を受容していることが伺えます。ベッドの上にはキリストの十字架が架かっています。窓からはかすかな光が射し込んでいます。そこにはもっとも悲惨な事態であるはずの、「愛する人の臨終」の間際であっても、この家族には、信仰によって、死の奴隷の状態から解放されているということ、そこにはある種の安堵と平安が存在することを、この一枚の絵画は物語っているように思われます。

 キリストの復活を信じるわたしたち「主の民」には、「死は勝利にのみ込まれた。・・わたしたちの主イエス・キリストによってわたしたちに勝利を賜る神に、感謝しよう」とのパウロの感謝の言葉が響いてきます。(コリント一、15章55節〜56節)

 
鴻巣教会  篠原愛義牧師
(しのはら やすよし)




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