2005年2月のみことば

砂漠のような人生を送る人々への聖書のメッセージ

 さて、イエスがヨハネよりも多くの弟子をつくり、洗礼を授けて おられるということが、ファリサイ派の人々の耳に入った。イエスはそれを知ると、――洗礼を授けていたのは、イエス御自身ではなく、弟子たちである――ユダヤを去り、再びガリラヤへ行かれた。しかし、サマリアを通らねばならなかった。それで、ヤコブがその子ヨセフに与えた土地の近くにある、シカルというサマリアの町に来られた。そこにはヤコブの井戸があった。イエスは旅に疲れて、そのまま井戸のそばに座っておられた。正午ごろのことである。
     
 サマリアの女が水をくみに来た。イエスは、「水を飲ませてください」と言われた。弟子たちは食べ物を買うために町に行っていた。すると、サマリアの女は、「ユダヤ人のあなたがサマリアの女のわたしに、どうして水を飲ませてほしいと頼むのですか」と言った。ユダヤ人はサマリア人とは交際しないからである。イエスは答えて言われた。「もしあなたが、神の賜物を知っており、また、『水を飲ませてください』と言ったのがだれであるか知っていたならば、あなたの方からその人に頼み、その人はあなたに生きた水を与えたことであろう。」女は言った。「主よ、あなたはくむ物をお持ちでないし、井戸は深いのです。どこからその生きた水を手にお入れになるのですか。あなたは、わたしたちの父ヤコブよりも偉いのですか。ヤコブがこの井戸をわたしたちに与え、彼自身も、その子供や家畜も、この井戸から水を飲んだのです。」イエスは答えて言われた。「この水を飲む者はだれでもまた渇く。しかし、わたしが与える水を飲む者は決して渇かない。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠の命に至る水がわき出る。」女は言った。「主よ、渇くことがないように、また、ここにくみに来なくてもいいように、その水をください。」
 イエスが、「行って、あなたの夫をここに呼んで来なさい」と言われると、女は答えて、「わたしには夫はいません」と言った。イエスは言われた。「『夫はいません』とは、まさにそのとおりだ。あなたには五人の夫がいたが、今連れ添っているのは夫ではない。あなたは、ありのままを言ったわけだ。」女は言った。「主よ、あなたは預言者だとお見受けします。わたしどもの先祖はこの山で礼拝しましたが、あなたがたは、礼拝すべき場所はエルサレムにあると言っています。」イエスは言われた。「婦人よ、わたしを信じなさい。あなたがたが、この山でもエルサレムでもない所で、父を礼拝する時が来る。あなたがたは知らないものを礼拝しているが、わたしたちは知っているものを礼拝している。救いはユダヤ人から来るからだ。しかし、まことの礼拝をする者たちが、霊と真理をもって父を礼拝する時が来る。今がその時である。なぜなら、父はこのように礼拝する者を求めておられるからだ。神は霊である。だから、神を礼拝する者は、霊と真理をもって礼拝しなければならない。」女が言った。「わたしは、キリストと呼ばれるメシアが来られることは知っています。その方が来られるとき、わたしたちに一切のことを知らせてくださいます。」イエスは言われた。「それは、あなたと話をしているこのわたしである。」

         
 (ヨハネによる福音書4章1節〜26節)

 「渇き」は、夏の日だけの生理現象ではありません。あなたも人生という「砂漠」で、耐えられない「渇き」を覚えたことはありませんか。どこを見ても失意と落胆の大砂漠。自分の行く先も見出せず、ただ重たい足を引きずって歩み出しますが、すぐに不安と困惑に押し潰されてへたり込む。しかしそこには容赦ない人々の批判と批評という熱線と熱気の直撃。そこで更に落ち込んでしまう。
 そのような人生を送っておられる人々に、2000年前の一人の女性の生涯をご紹介しましょう。彼女は「サマリアの女」としか聖書には書かれていません。けれども彼女の体験は、きっとあなたの「人生の渇き」を癒すヒントとなるでしょう。

 それは、中東のパレスチナでの出来事でした。当時、イエス様はユダヤ民族が祈り待ち望んだ「メシヤ」ではないかと考えられていました。けれども、当時の形式主義一辺倒の宗教勢力でありましたファリサイ派の干渉と攻撃を回避するために(1-3)、ユダヤから北部のガリラヤ地方に向かっておられました。その旅路は緊急性の高いもので、普段は通らないサマリアを抜ける道を使わざるを得ませんでした(4)。イエス様は途中のサマリヤの地で旅路に疲れ渇きを覚えられ、シカルの町から1.5キロメートルも離れたヤコブの井戸の傍らに座り込み、休まれたのです(5-6)。多分、井戸水を求められたけれども、汲む物がないので(11)飲めなかったのでしょう。

 そこにサマリアの女が水汲みに来たのです。普通、当時の女性の水汲みは夕方で、その井戸端は噂話で持ちきりです。しかし、正午頃(昼間)は人気(ひとけ)がありません。町から遠く離れたこの井戸に、しかも真昼間に水を汲みに来たのには、理由がありました。彼女は世間から後ろ指を指される日陰を歩む女性だったのです(7,18)。
 イエス様は、この女性の「人生の渇き」を知り、それが癒される道に導くため、あえて「水を飲ませてください」と言って、会話の糸口をつかまれました。
 この時女性は、不仲のユダヤ人で、しかも教師らしい男性から声を掛けられたのです。当惑するのも当然です(9)。これに対しイエス様は、彼女の人生の「渇き」が癒される真実な救いに導くために、聖書に記された「生きた水」について話されました(10)。しかし彼女は、地下からこんこんと湧き出る「湧き水」と理解しました(11-12)。彼女は目先の事(御利益)に囚われ、水汲みの重労働から開放される「湧き水」を連想しました(16)。それでイエス様は「(私達の人生の真の解決を与えてくださる神様との交わりが回復する)永遠の命に至る水」を与えると仰ったのです(13-14)。しかし、このままでは、会話は物質界と信仰の世界の境界で永遠に食違ったままに終わります。

 イエス様は、彼女が信仰の世界(全てをご存知の神がおられるという霊の世界)に気づくようにと、彼女の隠している夫の事を露にされました。それは彼女の信仰の目を開いて神の前にいる自分を悟らせるためでした(16-19,29,39)。
 彼女の今までの罪深い生活は、彼女から全ての幸福を奪い去ったのです。彼女は、自分を不幸にするこの「罪」の解決のために、以前ゲリジム山の神殿に行き自分の罪を贖うため、犠牲を捧げて神様を礼拝しました。しかし、彼女には赦された確信がありませんでした(20)。「私を不幸にする罪の解決のために、どこで礼拝したらいいのでしょう?」それが彼女の最大の関心事でした。
 イエス様は、罪の贖いのための礼拝に目覚めたこの女性に対して「婦人よ(女の方:女性への最高の敬称)、わたし(イエスキリスト)を信じなさい」(21)と仰いました。そして「霊と真理をもって礼拝する」(22-24)事を教えたうえで、御自分がメシア(罪からの救い主)だと宣言されたのでした(26)。

 自分の罪の解決を与える「真の礼拝」を知り、礼拝すべき真の救い主であるイエス様を信じることは、あなたを「砂漠のような」干からびた人生から救い出します。そして「生きた水」、永遠の命に溢れた「霊的な湧き水」を飲むことになるのです。そうすれば、あなたも渇きを知らない確かな人生を歩み始めることが出来ます。
 「わたしを信じなさい」と仰る主(イエス・キリスト)を信じ、あなたもこの歩みに進みましょう。
 
深谷西島教会  竹内紹一郎牧師
(たけうち しょういちろう)




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