2004年7月のみことば |
ところで、今はあなたがたも、悲しんでいる。しかし、わたしは再びあなたがたと会い、あなたがたは心から喜ぶことになる。その喜びをあなたがたから奪い去る者はいない。その日には、あなたがたはもはや、わたしに何も尋ねない。はっきり言っておく。あなたがたがわたしの名によって何かを父に願うならば、父はお与えになる。今までは、あなたがたはわたしの名によっては何も願わなかった。願いなさい。そうすれば与えられ、あなたがたは喜びで満たされる。」「わたしはこれらのことを、たとえを用いて話してきた。もはやたとえによらず、はっきり父について知らせる時が来る。その日には、あなたがたはわたしの名によって願うことになる。わたしがあなたがたのために父に願ってあげる、とは言わない。父御自身が、あなたがたを愛しておられるのである。あなたがたが、わたしを愛し、わたしが神のもとから出て来たことを信じたからである。わたしは父のもとから出て、世に来たが、今、世を去って、父のもとに行く。」弟子たちは言った。「今は、はっきりとお話しになり、少しもたとえを用いられません。あなたが何でもご存じで、だれもお尋ねする必要のないことが、今、分かりました。これによって、あなたが神のもとから来られたと、わたしたちは信じます。」イエスはお答えになった。「今ようやく、信じるようになったのか。だが、あなたがたが散らされて自分の家に帰ってしまい、わたしをひとりきりにする時が来る。いや、既に来ている。しかし、わたしはひとりではない。父が、共にいてくださるからだ。これらのことを話したのは、あなたがたがわたしによって平和を得るためである。あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている。」 (ヨハネによる福音書16章22節〜33節) 友達の言葉にはきびしさを感じることが多いものだが、優しさや愛が込められているので、素直に受け止めなければならないと思うこのごろである。というのは、2年前のこと、クリスマスや新年を迎えるための準備に追われていたときのこと、K氏から、「風間さんも一度ガン検診を受けなさい」と勧告調の電話を受けたのです。年末の忙しいときにと、なかば上の空の返事でやり過ごしたのですが、新年になってもそのすすめの言葉が脳裏から離れませんでした。 1月なかばに近くの病院でガン検診を受けたところ、なんと「兆候あり」の判定でした。「精密検査を受けるように」と、他の専門医を紹介されました。再検査の結果、「初期の前立腺ガンと膀胱ガン」と宣告され、早期の手術を勧められました。 一昔前の「ガン宣告」は、「死」を覚悟させるものでしたが、日に日に進歩している医療により、おびえる家族に「簡単な手術ですよ」と、安堵させてくれました。 繰り返される検査や手術は、体にも心にも疲れや痛みを重ねるものでしたが、そんな中にあっても、自分の生命は神が創造され、導き守ってくださっていることを再確認させてもらうことができました。 言葉(文字)では理解していたのですが、病気を初め、この世界にある種々の痛みを支配されておられるのは聖書の神であることを今回発覚した病気を通して教えられました。健康管理にも、医療の力にも限界があります。神さまはその限界を超えた所をも支配されておられることを知らされて、不思議な平安に満たされました。 ヨハネによる福音書16章16節から、主イエスの「送別説教」が記されている。「死」を意識したときから、「自分の葬儀・最後」を真剣に考えるようになりました。それとともに、どんな死に方をするか(死ぬ原因)が大切なのではなくて、生きていること、生かされていることの喜びや感謝に満たされることの価値を知るようになりました。 今は、再発を防ぐための投薬やホルモン注射、医者からの指導を受けながら毎日を過ごしていますが、神さまから許される限り、残された日々を神と人に仕えることを続けて、神さまから豊かな楽しみをいただいて過ごしてゆけることを祈り、願っています。 |
七里教会 風間直次郎牧師 (かざま なおじろう) |
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