2004年4月のみことば

神は何でもできる

 さて、一人の男がイエスに近寄って来て言った。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればよいのでしょうか。」イエスは言われた。「なぜ、善いことについて、わたしに尋ねるのか。善い方はおひとりである。もし命を得たいのなら、掟を守りなさい。」男が「どの掟ですか」と尋ねると、イエスは言われた。「『殺すな、姦淫するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい。』」そこで、この青年は言った。「そういうことはみな守ってきました。まだ何か欠けているでしょうか。」イエスは言われた。「もし完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしに従いなさい。」青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。
 イエスは弟子たちに言われた。「はっきり言っておく。金持ちが天の国に入るのは難しい。重ねて言うが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい。」弟子たちはこれを聞いて非常に驚き、「それでは、誰が救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「それは人間にはできることではないが、神は何でもできる。」と言われた。
                  (マタイによる福音書19章15節〜26節)

 私どもは常に問題を抱えています。一つの問題が解決すると、また次の問題がもちあがります。その一つ一つをどう乗り切るかであります。平安とは、問題がなくなることではなく、問題の中に平安があるのです。それは神がともに横にいてくださり、一緒に問題を負って下さるからです。神により頼み、神さま、主イエス・キリストに任せきったとき、おのずから解決されていくものです。事実関係は変わらなくとも、自分が変わり、相手が変わり、条件が変わっていくものです。そのおまかせ、神さまに、委せきるということが大変むずかしい、なかなか出来るものではありません。自分が、我が出てきます。主人公は神であって、自分ではないのです。しかし私どもは、主人公は自分であると思っています。だから自分を捨てることが出来ません。どうしても自分の力を、若さを、頭を頼りにします。

 人間の弱さ、限界を突き抜けるものは神であり、神によってなされるものです。神がして下さり、神が私を造り変えて下さるのです。「人間には出来なくても、神は何でも出来る」とマタイ19章、マルコ10章、ルカ18章で言っています。マタイでは、金持ちの青年で礼拝を守り、献金もし、父母を敬い、やることはきちんと守り、模範的青年が、主イエスのところに来て、永遠の生命を手に入れるのにどんな善いことをしたらよろしいか、何が私に欠けているのですかと聞きました。イエスは完全になりたいのだったら、あなたの持ち物を売り払い、施し、そしてわたしのところに来なさいと言われました。

 青年はたくさんの資産を持っていたので、悲しく立ち去ったとあります。財産を持っていない人は、ハイと言って簡単に行くことができるかと思いますが、たくさんの資産を持っているものは、それを捨てることはなかなかできません。それが私たちです。主イエスの弟子の中の弟子だったペトロでさえ、私は命を捨てて、あなたについていきますと言っていながら、イエスの十字架の前では、私はイエスを知りませんと言って去っていきました。頭の中でそう思い決めていても、いざとなると自分が捨てられないのが人間の弱さです。しかし、ペテロは復活のイエスと会って、イエスによって変えさせられました。新生し伝道で殉教しました。自分の力でなく、イエスによって変えさせられたのです。

 24節で<金持ちが神の国に入るよりも、ラクダが針の穴を通る方がまだ易しい>とイエスは言われました。弟子たちは「それではだれが救われるのですかと聞きました」するとイエスは26節で<それは人間にできることではないが、神は何でもできる>と言われました。人間の力では出来なくても神はお出来になるのです。天地を創造された、無から有をつくられた方、全知全能の神が共におられること、こんな力強いことはありません。

 私が神学校の時、夕拝説教で役員さんが、私に声が割れている、はっきりしゃべって下さいと注意されましたので、医者に行きました処、右の声帯が全然開いてない、片方声帯だけで発声している、モニターを見せてもらいました、私はただ祈りました、聖霊を全身に感じ、聖霊で満たされていると念じ祈っていましたら、のどに風が通り抜けた感じがしました、直感的に開いたと感じ医者に行くと、きれいに両方の声帯が開いているモニターを見ました、医者もおどろかれました。聖霊の力を身体中にいただき祈ると理外の理を得ることを体験しました。聖霊の力が私の自然治癒力を働かせて下さったのでしょうか、主イエス・キリストを信じていくとき、神は力を与えて下さいます。自分を頼りにしていくのではなく、自分を神にゆだねる、自己の主権を神に明け渡すとき、神によって可能となる。「それは人間にできることではないが、神は何でもできる」(マタイ19:26)

 私がキリスト教にふれたのは年齢的に遅かった、それまでは自分にしか自分は守れない、勝ちとるのも負けるのも自分である。自力主義のかたまりの人生でしたが、キリスト教にめぐりあって全てが逆転しました。 神は愛であり、主イエス・キリストに捕らえられたのであります。
菖蒲教会  相良哲生牧師
(さがら てつお)




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