2004年1月のみことば

夜のうちに

       
  
 日本には美しい四季の彩りがあります。風景や旬の食物など様々なものから季節を感じることが出来ます。実は、教会の中にも季節があることをご存知でしょうか。ただし、教会の暦は聖書朗読の仕方と深い関連があって、季節の移ろいなどの自然の周期と結びついてはいません。教会暦ではレントを迎えるまでの期間を「降誕節」と呼び年末年始を過ごすことになりますが、クリスマスの喜びの中で影に潜んでしまっているような二つの物語をここにご紹介したいと思います。

                 「夜のうちに」

占星術の学者たちが帰って行くと、主の天使が夢でヨセフに現れて言った。「起きて、子供とその母親を連れて、エジプトに逃げ、わたしが告げるまで、そこにとどまっていなさい。ヘロデが、この子を探し出して殺そうとしている。」ヨセフは起きて、夜のうちに幼子とその母を連れてエジプトへ去り、ヘロデが死ぬまでそこにいた。それは、「わたしは、エジプトからわたしの子を呼び出した」と、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。
               (マタイによる福音書 第2章13〜15節)

  私がよく聞くアーティストの中に中島みゆきがいます。学生時代、受験勉強をしながら某局の深夜放送を聞いていたのがきっかけですが、最近「地上の星」という曲を聴いて、こともあろうにマリヤの夫、ヨセフを思い出してしまったのです。


  ヨセフの妻のマリヤは、信仰の対象として崇められたり、絵画の中ではとても美しく描かれたりしています。クリスマスの物語の中で、マリヤはなくてならない存在です。しかし、夫のヨセフはどうでしょうか。聖書には、彼がダビデの血筋であること、「正しい人」であったということ、生業が「大工」であったくらいのことしか記されていません。
  「マリヤに赤ちゃんができた!」身におぼえがない妊娠を知った時のヨセフの驚きと怒りはいかばかりであったかと思います。そのことが噂として広がったならば、彼の面目は丸つぶれ、当時の決まりによって、公衆の面前でマリヤは石で打たれるのです。彼は、主の天使の命じた通りに、マリヤを妻としました。イエスの誕生の後も、彼は、羊飼いや見知らぬ学者の突然の来訪を受けました。捧げられた贈り物を一つ取ってしても、彼には当惑を与えるものでしかなかったはずです。そして、一息ついた後に、主の天使が再び夢にあらわれて「エジプトに逃げよ」と命じたのです。生まれて間もない乳飲み子と、産後まだ日もたたない妻を連れて、砂漠の道を旅することは、決して容易な事ではありません。車や電車や飛行機に乗って移動するわけではありませんから、躊躇して当たり前でしょう。

  聖書に記された物語を「もし〜ならば」と考えることは全く意味のないことです。しかし、主の天使が命じたその時々に、ヨセフが怒りを爆発させたり、疑問をいだいたり、反問したり、呟いていたとしたら、クリスマスの出来事は成立していたでしょうか。このように考えてみると、神様がヨセフに負わせられた仕事は、決して容易なものではなかったと思えます。ヨセフは神様から与えられた命令に、恐らく当惑もしながらも、すぐに応答し、従順にその務めを果たして行きました。ヨセフは教会の歴史に埋もれた人物です。勇者として称えられたり、芸術の題材になることはなかったかもしれませんが、ヨセフの信仰による勇気と決断がなければ、マリヤは「メシアの母」となることもなく、幼子イエスがヘロデ王の虐殺から逃れることはなかったのではないかと思わされます。
  私どもと等しく、神様のなさるみ業に参与するものとして選ばれた普通の人。ヨセフこそ正しく「地上の星」ではありませんか。神様のみ言葉に応答し、思慮深く、しかもすぐに決断して行動に移すヨセフの信仰に倣いたいものです。


           
 「激しく嘆き悲しむ声」

さて、ヘロデは占星術の学者たちにだまされたと知って、大いに怒った。そして、人を送り、学者たちに確かめておいた時期に基づいて、ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺させた。こうして、預言者エレミヤを通して言われていたことが実現した。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、/慰めてもらおうともしない、/子供たちがもういないから。」
               (マタイによる福音書 第2章16〜18節)


  マタイによる福音書は、イエス誕生の記事に続いて、虐殺されたべツレヘムの幼子のことを記しています。クリスマスは喜びの時です。私たちに希望と癒しと慰めを与えるものです。しかし、その背後に、「慰めてもらおうともしない」深い嘆き悲しみがあることを私たちは安易に捉えてはならないでしょう。慰めを拒むほどの深い悲しみを誰が癒すことができるのでしょうか。

  このべツレヘムの幼児虐殺事件の中に、神のみ旨を探ることは出来ないでしょう。ヘロデ王にのみその責任を問い、非難することも正しいこととは思えません。人類の歴史の中には、人々を「慰めを拒むほどの深い悲しみ」に落とし込む数々の事件が起こっています。ごく最近も、バグダッドで道路脇に仕掛けられた爆弾が爆発し、イラク人の子ども2人が亡くなりました。尊い命が失われ、遺された者に深い悲しみを与える事件に、神のみ旨があろうはずはありません。「慰めを拒むほどの深い悲しみ」は、人間の同情や慰めでは決して癒されないのです。

  イエスは、ヘロデの虐殺から逃れるために、生まれるとすぐにエジプトに逃避しなければなりませんでした。そして、後に自分のためにたくさんの幼子が虐殺されたことを告げられたと思います。「多くの人の過ちを担い/背いた者のために執り成しをしたのは/この人であった。」という旧約聖書の預言者の言葉を思い起こします。癒しがたい痛み悲しみを自らの痛み悲しみとして下さるために、ご自身の責任として痛むために、イエスは人の世に来られました。

  『キリストが飼葉おけに生まれられたことを、その生涯と死とから切りはなして考えてはならない、飼葉おけと十字架とは、その本質において同じものだ。』

  求道中の私を導いて下さったI 牧師に教えていただいた言葉です。イエスの降誕の意味は恐らくここにあるのでしょう。クリスマスの喜びと共に、ラマであった「慰めを拒むほどの深い悲しみ」を、主イエスが十字架によって担われたということをもう一度確認したいと思います。



草加教会  谷脇正紀牧師
(たにわき まさき)




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