2003年11月のみことば

天の国にはいる鍵

そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、「いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか」と言った。そこで、イエスは一人の子供を呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。「はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない。自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ。わたしの名のためにこのような一人の子供を受け入れる者は、わたしを受け入れるのである。」
            (マタイによる福音書18章節1〜5節)



 最近カラースプレーによる意味不明の落書きが至る所の壁に見られ、困ったことで社会問題のひとつでしょう。落書きで一番痛々しいのが、植物園で樹木に刻んでいるものです。これは消すことが出来ないばかりか、それが傷付けられたまま成長と共に大きくなっているのです。決して許されることではありません。これが植物ではなく、幼い子どもの心に刻まれた傷の場合も同じで、消すことができないのです。刺青のようなものです。幼児体験といいますが、生育の過程で子どもに、それぞれ痕跡が残るのです。それは家庭や社会の中で与えられる感化や影響によるものですが、これにはマイナスとプラスの両方があります。
 マイナス面では例えば幼少期に親が飲酒で醜い姿になったり、言い争いや不道徳なことを見聞きすると、それが幼児体験となって心に刻まれ、精神的な障害を引き起こす要因になります。これを心理学用語で「トラウマ」と呼び、このように説明します。「心的外傷とは、衝撃的な体験が元になり、精神的な病状を現す疾病です。大人になってから事件に遭遇して、心的外傷を引き起こす人もいます。幼児期に父、母から冷たく扱われたり、無視されたり、愛情を充分に受ける事が出来なかったり、暴力的な体罰を受けたり、孤独な環境で育ったり…その様な事が心の奥深くに記憶が刻まれると、何年かの後、何十年かの後に心の病として現われてくる事があります」。これはトラウマではありませんが、幼児体験ということで「キリスト新聞」に、キリスト教ホスピス病院で20年チャプレンをしています沼野尚子さんの記事が載っていました。がん患者とその家族、病院スタッフの精神的・宗教的援助をしていますが、沼野さんには、幼いときに受けた心の傷がある。まだ幼稚園児の頃、楽しみにしている遠足の前日、いつもは友達が何人か自宅に遊びに来ていたが、その日はH君だけが遊びに来ていた。沼野さんは母親と買い物に行きたくて、H君には早く帰って欲しいと思うのだが、なかなか帰ってくれない。腹にすえかねて無理矢理、家から追い出すようにして帰ってもらった。母親と買い物に出かけた沼野さんは、帰り道、ひとりで寂しそうに三輪車で遊んでいるH君を、家の前で見かけたため、道の反対側を通り隠れるようにして家に帰ったのだった。夕食の時、電話を受けた母親が険しい顔をして「H君が交通事故で亡くなった」と沼野さんに言つたが、とっさには、その意味の重大さを理解できなかった。翌日とにかく遠足は行われたが、沼野さんは遠足を楽しめなかった。帰り道、H君の家の前でバスが停まり、彼の写真の前で園児全員頭を垂れ、お別れをしたが、H君の母親が、まるでH君のお棺の中に入ってしまわんばかりの姿で泣き崩れているのを見て、初めて「大変な事が起こったのだ」と分かった。そして、その後、「もし、自分が彼と遊んでいたなら?」と考えるようになり、深い傷が沼野さんの心に残った。これは沼野さんが心の傷が癒されることを願う使命感を与える者にされ、現在の仕事を選択する動機になったというのです。27年後H君の母親と偶然に出会った。母親は5歳で失った息子の思い出を沼野さんに語ってくれた。自分が彼を追い出したことを話していなかったので心苦しく聞いていたが、母親が、「27年たって、やっと息子の死を乗り越えられたように思う」とほほえんだ時、「事実を変えることはできないが、別の面から事実を見ることができる。人の心は癒やされる」と知ることができた。医療関係の仕事を希望するようになったが「幼い頃のあの苦い経験がなかったら、自分は今の仕事を続けることが果たしてできただろうか」と思うことがあると述べています。

 ここに「天の国」の教えがあります。1節「そのとき、弟子たちがイエスのところに来て、『いったいだれが、天の国でいちばん偉いのでしょうか』と言った」のです。ナンバーワンはだれだという問いです。これをピラミッド構造といいます。この世は殆どこのような構造になっています。優劣による上下関係、知的に身体的に経済的に、生存競争の原理が働いています。これで一生懸命に能力を伸ばすということです。大いに問題なのは排他的な自己主義です。勝敗を決め、相手の足を引っ張り押しのけて勝利を得ようとするのです。スポーツにはスポーツ精神があり、ルール(規則)という秩序がありますから、勝敗が決まっても相手と握手をして別れますが、これは健全です。しかしここで弟子たちは「天の国」にまで序列を持ち込んでいるのです。主イエスはこのピラミッド構造を否定されました。
 主イエスは2〜3節「一人の子どもを呼び寄せ、彼らの中に立たせて、言われた。はっきり言っておく。心を入れ替えて子供のようにならなければ、決して天の国に入ることはできない」と言われた。「心を入れ替えて」は、新改訳「悔い改めて」です。ギリシャ語?は「向ける」「返す」「もどす」です。つまり方向転換ということです。旅行者が行く時は列車の右側の車窓から景色を見ていたが、帰りは左側の車窓から全く違った景色を見るのと同じで、別な世界が開けるのです。天の国で一番偉いと思っていたのが、そうではないと判るのです。「決してできない」は二重否定で、どうしても入れませんと強調されています。高慢な野心的な心が転回するのです。
 更に主は弟子たちの質問に4節「自分を低くして、この子供のようになる人が、天の国でいちばん偉いのだ」と答えました。自分を低くしているのは子どもの特性です。子どもは初めから身を低くして生きているのです。自分で生きるという能力がまだありませんから、信頼と依存心で生きています。それは保護と愛情と慰めに頼って生きます。その信頼が依頼心を生みます。母親の懐に抱かれるように、身を任せていきますが、大人にはこのような信頼と相手に任せるということが出来なくなっています。天の国は、このような新しい人間関係が形成されるのです。家庭で信仰の継承を願う時に、そこに言葉や態度が、深く心にインプット・刻み込まれていくことを知り、そのような中で神は御業をなしてくださいます。新共同訳は何故か「幼な子」でなく「子ども」と訳しています。これはユダヤ教社会では年齢が12歳までは同じ表現ですから、こうなっていると思われます。例えば5つのパンと2匹の魚で群衆を養われた時マタイ14章20節「女と子どもを別にして、男が五千人」という場合、子どもは12歳以下です。幼児というより、保護者の許で養育を受けている年齢と言った方がよいのです。

 昨今小学上級生から中学1年が幼児に対して起す犯罪事件がニュースになりますが、要保護の年齢ですから、親の責任は厳しく問われねばなりませんが、人権問題として表面に出てきません。何が原因か、何処に問題があるのか容易に解答は与えられないことですが、加害者の少年も被害者の幼児も、法律論は別として、無知な無力な自立した判断が出来ない子どもとして保護を必要とする事柄なのです。
 このようなマイナス・イメージの事例ではなく、幼児体験から「天の国」に招かれた人々をわたし達は数多く知っています。世界の賀川として知られています賀川豊彦先生は、4歳の時両親を失い、父の郷里鳴門で育ったが、妾の子と蔑まれ、結核に罹って落ち込んでいた中学1年13歳の時マヤス宣教師と出会い、主イエスを受入れました。福音歌手レーナ・マリアさんは生まれながら両腕と右足半分の無い、しょうがい児ですが、幼少時代に母アンナはわが子に「あなたは価値ある者、わたし達はとても愛している」「神様は特別なご計画があるので、他と違う形に造られた」と幾度も語り聞かされて育ったことから、輝いて生きる日々を与えられたと語っています。フェリス女学院長でドイツ文学者小塩 節(たかし)先生は佐世保で幼少時代を育ちましたが、幼稚園の大きな体格の有浦幼稚園長先生から病弱な園児だったわたしを「節くん、君は一度いけないと言われたら、二度としない良い子だね」と褒めてくださった。その言葉から、弱虫で褒められるところはひとつもないと思っていたわたしに勇気と自信が湧いたと述べています。主イエスは、天の国の鍵をペトロや弟子たちではなく、子どものようにイエスを受入れる人に渡そうとされたのです。あなたもこの鍵を受け取ってください。


志木教会  吉仲 將牧師
(よしなか たすく)

※ 吉仲牧師は、2004年4月松永教会(広島県福山市)に転任しました。




今月のみことば              H O M E