2003年10月のみことば |
絆
「わたしはまことのぶどうの木、わたしの父は農夫である。わたしにつながっていながら、実を結ばない枝はみな、父が取り除かれる。しかし、実を結ぶものはみな、いよいよ豊かに実を結ぶように手入れをなさる。わたしの話した言葉によって、あなたがたは既に清くなっている。わたしにつながっていなさい。わたしもあなたがたにつながっている。ぶどうの枝が、木につながっていなければ、自分では実を結ぶことができないように、あなたがたも、わたしにつながっていなければ、実を結ぶことができない。わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。 (ヨハネによる福音書15章1節〜5節) ![]() ところで「きずな」ってなんでしょう。漢和字典を引くと「きずな」と読む字が8つもあります。絆・紲・絏・緤・縻・駆・他2つ(革へんに半・革へんに幾という字、PCでは表示できませんでした)。絆の項には「人を束縛する義理、人情のたとえ」「しばって自分に行動できなくすること」「犬や馬をつなぎとめておくひも」とあります。 義理、人情にしばられていた古い体質から解放されて、自由に行動するようになった日本人に、絆意識が希薄になっているのは当然かもしれませんね。糸へんのきずなと革へんのきずな。糸へんの絆はひも、革へんの“革へんに半”は革ひも、どちらも意味は同じですが強度が違うのでしょうか。ちなみに家族のきずなは糸へん、きれやすい方です。紲の項には「犬や馬、罪人をつなぐ綱」とあります。 字こそ違いますが、きずなには、罪人をつなぎとめておく意味があるというのです。家族・友情のきずなが堅いということは、お互いにしばり合い、つなぎとめて自由に行動できなくしているだけでなく、ひもでつながれている罪人は罪を犯すことができないのと同様、罪を防ぐ力があるということでしょう。 人間は元来、罪深い存在です、「閑人、独居して、不善をなす」と古諺の人は言いました。「ひまな人が、ひとりでいると、ろくなことはしない」といった意味合いでしょうか。ひとりでいることはよくないこと、家族・友人、誰かと堅いきずなで結ばれ、つながりをもつことが大切なのではないでしょうか。 きずな感覚がなくなって、一見、自由に行動できて、活き活き生きられるように思うのですが、お互いをしばっていた絆が減った分だけ犯罪者が増えたように思うのです。罪を犯す可能性のあるわたしたち人間は、家族・友人・同僚・・・誰かと堅い絆、いや糸へんより革へんのキズナでしっかり結ばれていることが大切なのではないでしょうか。 もっとも、泥棒仲間にも仲間としての義理・人情・切っても切れない絆があるようです。ということは、誰と堅い絆で結ばれているかが問題です。義理・人情にしばられていた古い絆を断ち切って、ひとりになって自由に生きれば、罪を犯しかねない、だからといって、誰かれ構わず絆を結べばよいものでもない。では、どうしたらよいのでしょうか。 聖書に「わたしにつながっていなさい、そうすれば、わたしはあなたがたとつながっていよう」と言われたキリストのことばがあります。また、キリストの弟子パウロは「自由を得させるために、キリストはわたしたちを解放して下さったのである。」と書いています。キリストにつながれて、キリストによって一切の義理・人情から解放されて、自由に生きる不思議な感覚・感動、それが、キリストを信じて生きることにほかなりません。 |
シャロンのばら伝道所 鈴木一義牧師 (すずき かずよし) |
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