2003年8月のみことば |
神が用いる迷いの者
聖書箇所 民数記22章22節〜35節 ヘッド・ハンターという人がいるそうです。有能な人を引き抜く人ですね。現代における企業は企業間での競争も熾烈ですし職種も多様、おまけにスピードも要求されます。かつては企業などは人を育てるのにのんびりしていた。入社したての社員を徐々に育てていきました。しかし、今やそのようなことでは間に合わなくなってきたようです。そのようなことをいつまでもやっていたら競争に負けてしまう。そうかといって、今や数々の特殊分野の職種が生まれ高度な専門知識を必要とする時代ですが、でも一朝一夕に必要な人材を育てることができません。そのような時代ですからこそ、ヘッド・ハンターというような人が現れるのでしょうね。有能な人材をスカウトする人とでも言うのでしょうか。 かつては、ヘッド・ハンターに狙われた人は、現在勤めている会社(会社としておきましょう)に恩義を感じて他社に行くことにためらいをあるいは後ろめたさを持ったものだそうです。今やそのような話はあまり聞きません。むしろ、ヘッド・ハンターに狙われた人は組織よりもむしろ自分を活かすほうを選ぶのではないでしょうか。人は自分を高く評価されることを喜びますし、ましてや、さらに多くの報酬が得られるならば組織よりも自分を活かす道を選ぶと思います。 自分がそんな狙われた人の立場だったらどうでしょうか。こんな話を想像して下さい。 自分の研究は基礎研究だがこれを実用化するならばその効果は計り知れない。しかしもし悪用されたら莫大な人を殺傷するかも知れない。そのような状況の時、「あなたは優れています。ぜひ、うちに来て下さい。あなたの能力を十分に発揮して下さい」とヘッド・ハントされたらどうしますか。自尊心をくすぐられる思いになるかもしれません。そして一回の依頼で自分を安く売ることはないと断ったとしましょう。今度は先方からもっと立場の上の人、例えば専務が来て「ぜひ来て下さい。来ていただければ大いに優遇しますし、あなたが言われることは何でも聞きます。どうぞ、あなたの能力を存分に発揮して下さい。」 そう言われたらどうでしょうか。わたしでしたらこう思うかも知れません。「わたしの研究は基礎的研究だ。もしヘッド・ハンティングされた会社に移れば実用性を求められるから兵器に利用されるかも知れない。しかし、わたしの研究をこれほど高く評価してくれる人はいない。さらにこれを進めることができれば世界的に評価されるだろう。ノーベル賞も夢ではない。もちろん、金銭的にも今と比べられないくらい裕福になる。名誉も金も手に入る。かつて人から疎んじられ劣等感に悩まされていたが、やっと彼らを見返すときが来たのだ。しかし、うしろめたさがないわけではない。自分の研究が大量殺傷能力を持つ兵器に利用される可能性があることだ。それがわかれば周りは批判するだろう。このわたしが批判されるのか。とても自尊心が許さない。マスコミもその点について神経質になって、少しでもわかれば騒ぐはずだ。そうなったら名声や金どころではなくなる。良心? 一応もっているつもりだ。しかしこんなチャンス二度とないかも知れない。」 さあ、あなたならどうしますか。 バラムは大いに心が動かされた。わたしはそう思うのです。さて、エジプトの地を脱し、モーセに率いられたイスラエルの民は、40年近い荒野での旅を終わろうとしていたのです。今や彼らは最後の段階に達し、モアブの平野に宿営するのでありました。そこはエリコに近いヨルダン川の対岸で、もうすでに約束の地カナンは目前です。このモアブの地を無事通過させてもらえればほぼカナンに入ったも同然です。 しかしモアブの王バラクは恐れました。彼は対策を練ります。彼はモアブの荒野を放浪する遊牧民のミディアン人と同盟を結びイスラエルの民を追い出そうと計画します。その計画とは、イスラエルを呪うためにツィポルの子バラムを使うことでした。彼はペトルという町に住んでいる占い師として名が知れていました。占い師というのは催眠状態で夢とか幻を見て神の意志を知ろうとする人ですね。モアブとミディアンの長老達は礼物を持って頼みに行ったのです。しかし一度目の依頼に対してバラムは、主が許さないので依頼を引き受けることができないと言います。 バラクは二度目はもっと位の高い人を遣わして、こう頼みました。「あなたを大いに優遇します。あなたが言われることは何でもします」と。この依頼に対してバラムは大いに心を動かされ、「主が何とお告げになるか確かめさせて下さい」と言いました。主は行くことをお許しになりました。 翌朝バラムはロバに乗ってバラクに会いに行きます。さて、バラムは行かないと言っていたのです。どんなにお金を積まれても行かないと言っていたのですが、突然行くことにします。主が言ってもよいと言うから行くのだと言います。ところが、バラクが出発するとそのバラクに主の怒りが燃えあがるのです。わたし達は言うかも知れません。「神さま、あなたは行ってもよいと言ったではありませんか。それなのになぜ怒られるのですか」と。理不尽でしょうか。 神さまは嘘つきなのでしょうか。そのようなことはありません。同じ例は、出エジプト記4章24節にも見られます。神がエジプトのファラオのもとにモーセを遣わそうとします。モーセが、いやだ、いやだと言いながらも、とうとう行かされることになって、出かけますと突然神に殺されそうになります。この危機をモーセの妻ツィポラのおかげで助けられるわけですが。そうなんです。神さまをわたし達はわからないのです。これを別々の資料をくっつけ合わせたので話がつながらないのだと言ってもはじまりません。要は別物がどうしてあそこに入っているのだということになります。神さまとはそのようなものなのだと受け入れるほかないのです。 さて、バラムは神の許しを得てとにかく出かけます。少しも自分の意志が入っていないように見えます。本当でしょうか。話を進めていきましょう。 主の御使いは、ロバに乗ったバラムの行く手を遮ります。御使いは手に抜き身の剣を持っていますのでそのまま行けば殺されるかもしれません。しかし、バラムには見えません。ロバには見えました。ロバはまっすぐ行かず道をそれました。バラムはロバを叩き、まっすぐ行くように命じます。同じことが三度ありました。三度目に両側が壁になった狭い所に入りこみ行く手をまたもやみ使いに遮られたので、ロバはとうとううずくまってしまうのです。バラムは激高し再びロバを杖で打ちました。この時ロバが話をしバラムを咎めます。バラムの目が主によって開かれました。ロバに見えたものはバラムには見えなかったのです。 なぜ見えなかったのでしょうか。バラムの心が欲と野望とでいっぱいになっているため偏見で目が見えなくなったのです。ロバに見えたものが見えなかったのです。でも、神さまはよいと許してくださった筈ですと反論があるかも知れません。確かにそうです。しかし、神さまが許したのはあまりにもバラムの行きたいという願望が強かったから許したのです。バラムは内心ひそかにバルクの誘惑に心が動かされていたのです。ですから行ってはならないと言われながらも行きたい願望をおさえられなかったのです。 神はご存知なのです。バラムの抑えきれない欲と野望を。ですから神は、ではやってみなさいという臨機応変さを示されたのです。人間の誤りを承知しつつ人間の意志にまかせます。人間がロボットとなって神に服従することを神さまはお喜びにならないからです。 今や主に目のおおいを取り除けてもらい周囲が見えるようになりました。バラムは主に謝ります。「わたしの間違いでした」と。しかしここでバラムは何を間違いだと言ったのでしょうか。御使いがいるにもかかわらずロバを打ち叩いたことが間違いだと言っているのでしょうか。それとも我欲と野望とに目がくらんで見えなくなって、主に逆らった道を強引に進もうとしたことが間違いだったのでしょうか。つまりerrかsinかということになります。単なる誤認なのか、それとも人生が180°ひっくり返るくらいの悔い改めを伴うくらいの誤りなのかということになります。 バラムの「間違い」はどちらにもとれます。バラムは巧みです。主は結局行かせます。主はご存知でした。バラムが自分の内心を隠すために宗教的手段を使って、自分を「間違い」と言ったことを。「ユダの手紙」11節にこう書かれています。 「不幸な者たちです。彼らは『カインの道』をたどり、金もうけのために『バラムの迷い』に陥り、『コラの反逆』によって滅んでしまうのです。」 ペトロも我欲に落ちた者の姿をこう語っています。「その心は強欲におぼれ、呪いの子になっています。彼らは、正しい道から離れて、さまよい歩き、ボソルの子バラムが歩んだ道をたどったのです。」(ペトロの手紙U2章14〜15) 主は異邦の民バラムが最初から欲の心を捨てきれないことをご存知でしたが、あるいは主に対する悔い改めも何か見せかけにすぎないように見えようとも、主はバラムに主の御言葉を語る特権を与え神の祝福を宣べるよう導いたのでした。主は未だ自分の心の中に主を受け入れない異邦の者であっても悔い改め、真実に神の民としてふさわしい者となるように待たれているのです。 主イエスの福音を信じるわたし達も、神の子としての特権を与えられているのですから倦まずたゆまず福音を宣べ伝える者として用いられたいと願うと同時に、たとえ主に敵対する力があろうとも主は最悪なものをも積極的によきものへと用いられるということを信じていきたいと思います。 |
鳩山伝道所 藍田 修牧師 (あいだ おさむ) |
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