2002年8月のみことば

 

流血の町

 

災いだ、流血の町は。

町のすべては偽りに覆われ、略奪に満ち、

人を餌食にすることをやめない。

  鞭の音、車輪の響く音、

  突進する馬、跳び駆ける戦車、

  騎兵は突撃し、

  剣はきらめき、槍はひらめく。

  倒れる者はおびただしく、

  しかばねは山をなし、死体は数えきれない。

  人々は味方の死体につまずく。

                  (旧約聖書 ナホム書3章1〜3節)

 

 8月!

 8月は、あの太平洋戦争を思い起こすときです。8月だけが戦争を思い出すときとは限らないのですが、でもやはり、1945年8月15日に日本が敗戦した”記念”のときをどうしても思い出さざるを得ません。

 現在の私は、今の若い方々から見ると”おじん”ですが、あの敗戦のときは旧国民学校(現在の小学校)の3年生、紅顔の少年でした。少年時代の体験は、人生の中でずーっと記憶されていて人生におけるものの考え方や生き方の基盤となるものですね。それはあらゆることについて言えることではないかと思います。あのとき、少年の私は、家族と共に日本の旧植民地であった朝鮮の京城(現在の韓国のソウル)に住み、そこで敗戦を迎えたのです。

 

 1945年の春、沖縄における悲惨な地上戦が戦われ、8月、広島と長崎に原爆が投下されたました。真夏の太陽のもとで、綿入れの防空頭巾をかぶって、汗をダラダラと流しながら、校庭に掘られた防空壕に飛び込む練習ばかりさせられていた子供たちの耳にも、内地(朝鮮では日本本土のことを”内地”と呼んでいました。いまでも北海道の人たちが本州のことを”内地”と言います。)に特殊爆弾が落とされ、朝鮮が独立するのではないかという大人たちの会話が聞こえ、何となく戦争に負けるようだという不安を感じていました。

 そして迎えた8月15日、正午の敗戦の詔勅の特別放送を母と一緒に聞きました。何のことかは分かりませんでしたが、戦争に負けるのではないか、という不安が現実のものになったのだ!という直感がしました。戦争中、私の父が司牧していた教会の1階は軍に接収されて、軍用の通信機器を作る工場になっており、日本人技術者のほか、数人の韓国人青年が働いていました。敗戦の詔勅が放送されたとき、彼らも勿論この放送を聞いたのです。放送の直後、突然彼らは一斉に”マンセー!、マンセー!”と叫びながら両手を広げて、工場から駆け出してきたのです。マンセーとは韓国語で”万歳”のこと、彼らは喜びに溢れ、踊るようにして職場を放棄し、どこかに行ってしまいました。翌16日からは連日のように、戦勝と独立を祝うデモ行進が続きました。日の丸は韓国の大極旗に塗り替えられました。あの青年たちもこのデモ行進に参加していたに違いありません。昨日まで支配者として朝鮮人を見下げ、侮辱し、さげすみ、差別してきた日本人たちは一転敗北者になりました。この激しい変化は、こどもであった私の心にも、とげのように突き刺さりました。今でもあの激変の情景を忘れることが出来ません。

 

 その後、成人して日本の植民地支配がどんなものであったかを学ぶにつれ、自分もまた支配構造のなかに組み込まれ、こどももまた差別者であったことを知りました。この差別者意識は、潜在意識のように私の魂の奥深くに、洗っても洗っても取れないシミのように残っていることを、告白しなければならないように感じています。こどもの頃に染み込まされたあの”皇民化教育”がどんなにか強固なものであったかを思い知るのです。

 このどうしても払拭できにくい潜在的な差別意識を克服するには、支配者が被支配者たちに対して行った、実に非人間的な犯罪行為をしたのかを、いや、戦争というものが如何に悲惨で残酷で、非人間的なものであるかを知り、直視しないと、観念的にはとても克服できないものであるかを感じています。

 私は毎年のように、埼玉地区の沖縄現地研修プログラムにくっついて、沖縄を訪ねます。そして摩文仁の丘にある平和祈念資料館を訪れます。この資料館は最近立派な施設にリニュウアルされて、展示の基本方針が変わったのを感じて、やや意外な感じがしています。沖縄戦についての見方を何か操作しようとする政治的とも言える”臭い”を感じます。それはともかくとして、多くの展示室に展示されている戦時体験の告白記録は、深い悲しみの思いなしには読むことができません。そして私は、ある大きな1枚の写真パネルの前で立ちすくむのです。それは集団自決を強いられ、家族が互いに殺しあった、いや殺されあったに違いないある家族の無残な死体がころがされている写真です。モノトーンの深い影に沈んだ血潮はそれとはわかりません。でもその沖縄の大地に流され染み込んだ血潮は、今も叫んでいるように、わたしには聞こえるのです。どんな悲痛な思いで家族が自決したのでしょうか。敵に殺された虐殺の場面ではなく、自分たちを守るはずであった日本軍の誤った情報による誤った命令によって起こった殺戮の場面なのです。このような結果を招いたのは、あの私自身の中に刻み付けられた誤った教育の結果でもあるのです。ですから私はこの写真を決して客観的に眺めることは出来ないのです。

 もし、何かの機会があって沖縄をお尋ねになったら、平和資料館を訪れ、このパネルの前にたたずみ、目をこらしてこの場面を見つめてください。

 勿論、沖縄に限らず、広島でも長崎でも、その他各地にある戦争の記憶を今に残す資料館があったら、必ずそこには戦争の持つ非人間的な悲劇が記憶されています。そこを見つめて”有事”を”和平”へと変えていく<強い意思をもらうのです。

 

 三浦光世さんが、「愛とは、人を幸せにしようとする強い意志なのです。」と言われました。

 私の意識の底にわだかまる古い意識を、強い愛の意志に変えてくれるのは、イエス・キリストによって与えられた神の愛なのです。

 

                    所沢みくに教会  桜井義也牧師

                   (さくらい よしや)

 

 

 

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