渡辺家の思い出 03.11.30


 確か昭和50年頃だったと思うが、テレビの終戦記念番組で女優の文野朋子が戦時の体験を語っているのを見たことがある。その内容は、おおよそ次のようなものだったと記憶する。

<私は当時大映の大部屋におりました。撮影所の近くに親しくお世話になっていたお宅があり、よく泊めていただきました。
 そのお宅に、調布飛行場の部隊の若い将校さんたちが下宿していて、私もその方たちとは顔見知りになっていました。

 戦争が激しくなると、その方たちも戦地へ移動するようになりました。出発の前は、口には出しませんがそれとなく分かります。そんなときは、そのお宅の奥様と二人、朝から裏の畑へ出て待っていると、やがて飛行場の方からゴーという爆音が響いてきて次々に戦闘機が飛び立ってゆきます。二人で一生懸命、日の丸の旗を振ると、中には翼を振って応えてくれる人もいました。
 それからしばらくして新聞を広げていると、「○○中尉戦死」といった記事が目に止まり「あっ!あの人だわ…」と。戦争中はそんなことが度々ありました>

 実は、これは調布町小島分にあった渡辺家でのエピソードであり、戦死した将校とは、当家に出入りしていた小原伝中尉(当時)らを指している。当主渡辺喜三郎は、大手建設会社鹿島組の取締役であった。
 渡辺家は夫妻ともに岩手県の生まれ。戦前戦後を通じて多くの若人を邸内に下宿させており、温かくざっくばらんな人柄から、皆に慕われていた。

 夫人渡辺キワは、近くの大映多摩川撮影所の女優たちに茶道などを教えていたが、文野朋子もその中の一人だった。文野朋子は戦後、芥川比呂志と共に文学座に入って新劇活動に身を投じたが、これは戦時中に渡辺家を介して芥川と知り合ったことが、きっかけであったといわれる。芥川は当時、244戦隊整備隊本部付少尉であった。

芥川比呂志少尉


 調布飛行場医務室の斎藤軍医中尉は、昭和19年半ばから渡辺家に下宿していた。下宿していたといっても帰宅は原則として3日に一度しか認められなかったから、部隊に泊まる日の方が遙かに多かった。
 この僅かな帰宅日が音楽好きの中尉とっては、かけがえのない憩いのときであり、専らピアノやバイオリン演奏、深夜にまでおよぶレコード鑑賞などで過ごしていたそうだ。彼は、この頃の思い出を次のように記している。

(前略) 賑やかに弾む話の中心にはいつも「かあさん」がおいでになり、私もその中に引きこまれるようになり、当時大映の女優さんだった文野さん等美女大勢が集ってお茶の稽古があったり、その他いろいろな方々が見えても、私も家族の一員の様な顔をして、お仲間入りする様になりました。全く戦時下にあり乍ら全く平和な楽しい別世界でした。
 かあさん御自身も、今日は田の草取りにと、泥まみれのモンペ姿かと思うと、翌日には土岐さん(お抱え運転手)の木炭車が門を入って来て貴婦人が降り立たれたかと思うと、それが「かあさん」だったり、私は目を見張る思いでした。その頃は御忙しい中をよく三味線の御稽古もなさって居られました。(『母さんの思い出』より)

 戦時の調布町では軍人に間貸していない家庭はなかったといわれるほどだが、一般に、裕福な家や格式の高い家ほど上級者に割り当てられており、渡辺家には第10飛行師団参謀松村静馬中佐夫妻も間借りをしていた。昭和19年5月末、夜間演習中、調布町上石原の多摩川原に墜落殉職した飛行第18戦隊先任飛行隊長(元244戦隊第1中隊長)川畑稔大尉もその一人で、彼の没後、渡辺家の居間には長らく遺影が飾られていたという。

 2千坪の敷地を擁する渡辺家の庭には、大きな池と時節がら畑と化していたものの2面のテニスコートが設けられており、自家用車も所有していた。当時どの家庭にも必需であった防空壕は2ヶ所に掘られていたが、商売柄、何れも鉄筋コンクリート製という贅沢さだった。
 渡辺家は、京王電軌調布駅の南方400メートルの畑中に位置していたが、今日この付近はマンションが林立する街と化しており、往時の面影はどこにもない。

本稿は、主として斎藤紀一氏の回想ならびに『母さんの思い出』『追想 渡辺喜三郎』を参考に記述しました。


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