確か昭和50年頃だったと思うが、テレビの終戦記念番組で女優の文野朋子が戦時の体験を語っているのを見たことがある。その内容は、おおよそ次のようなものだったと記憶する。 <私は当時大映の大部屋におりました。撮影所の近くに親しくお世話になっていたお宅があり、よく泊めていただきました。 そのお宅に、調布飛行場の部隊の若い将校さんたちが下宿していて、私もその方たちとは顔見知りになっていました。 戦争が激しくなると、その方たちも戦地へ移動するようになりました。出発の前は、口には出しませんがそれとなく分かります。そんなときは、そのお宅の奥様と二人、朝から裏の畑へ出て待っていると、やがて飛行場の方からゴーという爆音が響いてきて次々に戦闘機が飛び立ってゆきます。二人で一生懸命、日の丸の旗を振ると、中には翼を振って応えてくれる人もいました。 それからしばらくして新聞を広げていると、「○○中尉戦死」といった記事が目に止まり「あっ!あの人だわ…」と。戦争中はそんなことが度々ありました> 実は、これは調布町小島分にあった渡辺家でのエピソードであり、戦死した将校とは、当家に出入りしていた小原伝中尉(当時)らを指している。当主渡辺喜三郎は、大手建設会社鹿島組の取締役であった。 渡辺家は夫妻ともに岩手県の生まれ。戦前戦後を通じて多くの若人を邸内に下宿させており、温かくざっくばらんな人柄から、皆に慕われていた。 夫人渡辺キワは、近くの大映多摩川撮影所の女優たちに茶道などを教えていたが、文野朋子もその中の一人だった。文野朋子は戦後、芥川比呂志と共に文学座に入って新劇活動に身を投じたが、これは戦時中に渡辺家を介して芥川と知り合ったことが、きっかけであったといわれる。芥川は当時、244戦隊整備隊本部付少尉であった。 | 芥川比呂志少尉 |