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 訃 報 3件

 本年1月30日、村岡英夫氏が逝去されました。94歳でした。

 村岡さんは、航士第52期の戦闘分科で台中の第106教育飛行連隊から244戦隊第3中隊長として赴任されました。昭和18年3月の ことでした。

 村岡大尉は、その後先任飛行隊長として、空中指揮を執らなかった藤田戦隊長に代わって戦隊を指揮し、練度向上を実現しました。特に師団 の方針でもあった夜間訓練には力を入れ、操縦者の緊張を少しでも和らげようと、訓練の前には営内放送で音楽を聞かせたそうです。

 部下がミスをしても叱ったりせず、むしろやる気を引き出す、優れた教官でもありました。古い隊員からは、「戦隊の基礎を 作った村岡さんこそ評価されるべき」との声を聞いています。

 初めてお会いしたとき、

後になってから小林戦隊長と聞いて信じられなかった。私は244戦隊長として帝都防空戦を戦うのが夢で した」と言われたのですが、近くにおられた小林未亡人がムッとした表情をされていたのが思い出されます。

 村岡さんは夢かなわず、飛行第20戦隊長に転じて比島での特攻隊掩護、船団護衛長時間にわたり、上空から潜水艦を監視した。任務 上、隼を青色に塗装したに邁進されたのですが、たまたま行き会った山下大将から呼び止められ、

特攻か…邪道だな」と言われたことは、強く印象に残っておられたよ うです。

 村岡さんは、高木俊朗の「陸軍特別攻撃隊」にも登場しますが、印象悪く書かれており、事実でない部分があることが、後に自著「特攻隼戦闘隊」を書かれた動機だともお聞きしました。

 戦後は、陸上自衛隊航空の創設に尽力され、第1ヘリコブター団長を務められました。

合掌


 昨年2月、茂呂豊氏が逝去されました。

 茂呂さんは、航士第53期の技術整備分科で、244戦隊の初代整備隊長でした。3式戦の運用には大変に苦労されたと思います。

新造ハ40のクランクシャフトがちょうど80時間 で折れたことがあった。考えられないことだったが、それほど材質が悪かった。新しいものほど危なかった」と。

 これは運転中にポッキリ折れたというのではなく、80時間は正にハ40の当初オーバーホール時間(TBO)ですから、オーバーホールに出したところ、シャフトにクラックが見つかったと解 釈すべきでしょう。

 戦隊に殉職者が出て部隊葬が執行さ れるときには、部下の芥川比呂志少尉に弔辞を書かせたそうです。父龍之介譲りの文才を見込んでのことだったのでしょうか。

 戦後は、日本航空の整備担当重役 から調布飛行場の新日本航空整備(ジャムコ)社長に就任され、更にシティエアリンク社長を務められました。

合掌


 同じく昨年2月、第162振武隊の清住文明氏が逝去されま した。

 清住さんは少飛甲種第15期の戦闘分科で、北支揚村の第5錬成飛行隊から昭和20年5月初め、常陸教導飛行師団司令部を経由して244戦隊に配属されま した。特攻要員の場合、機密性が高いので、転属の最終目的地は教えられず、「○○司令部付ヲ命ス」との転属命令を受領するのが常でした。

  第162振武隊は清住伍長以外は全員将校で年長でしたから、清住伍長はまるで実の弟のように可愛がられ、仮泊所では皆同室で和気藹々と過ごしました。当番 兵に世話をされ、畳の上で近隣住民から提供された絹の布団で寝られたのも、それまで粗末な扱いしか受けてこなかった少年飛行兵にとって忘れがたい体験だっ たようです。

 平成7年、戦後50周年慰霊祭で清住さんは飯田幸八郎さんと再会され旧交を温められたのですが、お二人とも鬼籍に入られてしまいました。

合掌



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