背中の静ちゃん
2012.10.29


  神坂次郎著『今日われ生きてあり』(新潮社)の中の第14話「背中の静ちゃん」は、事実と受け止めるとあまりに出来すぎた話だと感じます。
 「大石清伍長」の「日記」がベースになっているのですが、この日記、具体的地名は大阪(実家)、和歌山(親の故郷?=著者の出身地と同じ)そして最後の万世しか出てこない、部隊名も一切ないという不思議な日記です。

 昭和20年5月20日、万世着となっていますから、出撃(発進)は翌21日以降になります。可能性としては次の諸隊です。

機種 編成担任 6航軍への転属日付 出撃日 隊員構成
第66振武隊 97戦 明教飛師 3月29日 5月25日 将校のみ
第72振武隊 99式襲撃機 23錬飛 5月1日 5月27日 中尉1、軍曹2、伍長8
第432振武隊 2式高練 (97戦練習機型 第2航空軍 5月15日 5月25日 少尉1、軍曹3、伍長11
第433振武隊 2式高練 第2航空軍 5月18日 5月25および28日 将校のみ







 

 上記4隊中、機種および隊員構成から該当するのは第432振武隊のみですが、問題は第2航空軍(満州)で編成されていること。当然、隊員は在満州部隊の中から抽出されており、転属日付の頃までは満州に滞在していた可能性が極めて高いのですが、「日記」によると部隊所在地は九州(の、どこか)であり、満州のまの字も出てきません。

 「日記」には、錬成飛行隊で97戦の教育を受けていたような記述があります。当時、陸軍の教育飛行部隊の多くは、燃料の調達しやすい中国大陸か南方地域に配置されており、九州には第11錬成飛行隊一隊のみしか確認できません。その第11錬飛も特操2期生に3式戦を教える部隊ですから、全く該当しません。

 同じ第2航空軍で編成された僚隊である第433振武隊長小西吉彦少尉の回想によると、編成時からの行動経過は、四平→奉天→京城→大邱→万世であり、この間に万世以外の内地基地に長期滞在した事実はありません。第432振武も、ほぼ同様の経過と推定されるので、大石伍長の部隊は上記何れにも該当しないのです。 


 次に下掲の文章を見比べて下さい。 

引用文A
『陸軍航空特別攻撃隊史』生田惇著 昭和52年 ビジネス社
233頁
昭和二十年八月五日。航空本部は燕(第一航空軍)部隊から「と号隊員ノ身上、給与、衛生ノ現況」という報告書を受け取った。 (中略)
 その一部に隊員から受けた相談およびその回答が載せられている。当時の世相、隊員の心情などを察する生の資料と考えられるので、ここにそのまま掲載することにした。
(中略)

234頁
 家督相続ニ関スル相談(二百七十九隊・少尉)
 問 三月十日ノ爆撃ニヨリ父母弟妹爆死シ本人カ戸主トナリ次弟(見習士官)末弟ヲ残スノミ 資産ハ相応アリ自分ノ死後相続関係ハ如何ニナルヤ…

235頁
 遺族ニ関スル相談(二百五十五隊・伍長)
 問 父ハ大工ナリシモ本年応召シ所在判明セス 家ニハ後妻(四十歳)弟妹七人ナリ 家産ナク父ノ大工職ノ収入ニテ生活シアリタルモ父応召後ハ十七歳ノ弟小作ヲナシ生活シアリ 家族ノ生活ヲ保証スル方法ナキヤ

引用文B 
『今日われ生きてあり』神坂次郎著 昭和60年初刊
183頁(文庫版)
第六航空軍本部への鎌本軍曹の書状
一、と号隊員ノ遺族ニ関スル相談。
【相談】隊員大石清伍長ノ父ハ国民学校訓導ナルモ先日殉職シ(四十四歳)、家ニハ重病ノ母(四十四歳)、妹(十一歳)一人ナリ。家産ナク父ノ収入ニテ生活シアリタリ。家族ノ生活ヲ保証スル方法ナキヤ


 引用文の著者生田惇氏は、航士第55期の司偵操縦者で、戦後は防衛庁の戦史編纂官として戦史叢書の執筆をされた方です。本書は陸軍航空関係者に広く読まれています。
 引用文に「第六航空軍本部」とありますが、聞いたことのない言葉です。「本部」は部隊の中枢部署を示す用語ですが、航空軍の場合は麾下に多くの部隊を従えていますから「司令部」と呼びます。よって「航空軍本部」という記載はおかしいです。原典が存在し、それを写しただけであれば、このような誤りはあり得ないでしょう。

 著者は何故か、自身が何期生なのかを全く記載していませんが、東京陸軍航空学校に昭和18年4月入校としているので少年飛行兵甲種第16期生と推察されます。つまり、エリート下士官であった著者が、このような基礎的な言葉の間違いを犯すとは考えられないのです。

 これは、引用文を読んだ著者が「第一航空軍」と「陸軍航空本部」とを合成し、第一航空軍では内容と合致しないために「第六航空軍」に変えたのではないでしょうか。しかし、官衙(官庁)の名称である「陸軍航空本部」の「本部」と、部隊で用いる「本部」の意味合いが違うことを著者が知らないはずがなく、「鎌本軍曹の書状」が実在しないことを、暗に仄めかしているとも考えられます。

 更に、大石伍長に関して照会すべき事項があったとしても、一軍曹が個人的に軍司令部宛に手紙を出すことなどあるでしょうか。例え発案者が軍曹であっても、書類は所属部隊長名で発信されているはずですが、部隊名が書かれていません。

 また、大石伍長は20年5月下旬に特攻戦死したことになっていますから、「鎌本軍曹の書状」が出されたのは20年4〜5月ということになりますが、当時は天号航空作戦の山場で、第6航空軍は日々の作戦遂行だけで精一杯(それも不如意)であり、個々の特攻隊員の個人的悩みに配慮している余裕があったとは信じられません。それに対して第1航空軍は、来るべき本土決戦に備えて多くの特攻隊を編成訓練していた未だ準備の段階でしたから、隊員の心情にまで配慮をする余裕があったものと考えられます。


 19年9月5日の日記(文庫版179〜180頁)には、
第三旋回地点より操縦索不良のため高度約千mから「水平錐モミ」にて墜落
中略
最近は飛行機事故多し。七月中に十六機、八月中に十五機、平均二日に一機の割合いで破損。事故の原因は九割までが点火栓の汚損によるものである。何分「キ−86」の点火栓は下方にあるので滑油が漏って汚損する率が多いのと、着陸の時ガスレバー全閉したら機体の軽い割に沈みが多いのが欠点。すでに特操出身の教官三名が殉職
とあります。

 まず、第3旋回とは、通常、場周経路の3番目の旋回を意味し、次の第4旋回から最終進入で着陸に至りますが、場周で1000mはあり得ないです。下に引用した日誌でも分かるように、場周経路は300〜400mの高度で飛びます。そうでなければ、離陸後急上昇、そして急降下して着陸せねばなりませんが、ユングマン(キ−86)どころか当時の主力戦闘機何れでも性能的に無理ではないでしょうか。

 「操縦索不良のため水平錐モミ」操縦索が切れたという意味なのか?…ないとは言えないけれど、極めて稀な出来事では?
 事故原因のほとんどが点火栓の汚損で、これはエンジンが倒立式(下向きのシリンダー)だから…。
 点火栓は毎日、整備兵が点検清掃し、試運転時には必ず、左右の点火系を切り替えて回転数の落差をチェックしています。通常、これで点火栓が正常か否かの判断はできるのです。事故原因のほとんどが点火栓というのは、あり得ないです。
 
 ユングマンのエンジンは確かに倒立ですが、
倒立式にするとシリンダがプロペラ軸より下になるので操縦士の前方視界がよくなり、機体の中心線とプロペラ軸の中心を一致させやすいので、航空用列型機関の大部分は倒立式である小倉勝男著『航空原動機』 共立出版
とあるように、点火栓が下に付いているのは、ごく普通のことです。3式戦の12気筒エンジンも同じです。

 「七月中に十六機、八月中に十五機、平均二日に一機の割合いで破損」いくら何でも多すぎます。飛行機事故の原因は、よほど単純な過失でない限り簡単には特定できませんし、原因が分かっていたのなら対策も実施されているので、日記の記述は非常に不自然です。
 いかにも、ユングマンが欠陥機であったと強調したいような書き方ですが、操縦者は、自身の操った飛行機のことは決して悪くは言わないもので、「日記」は実体験のない者が、一見専門的な言葉を適当に並べてもっともらしく書いた印象を拭えません。


 以下は中垣秋男氏の日誌から。中垣氏は昭和17年当時、少年飛行兵第10期で熊谷陸軍飛行学校新田分教所所属。95式1型練習機で訓練を受けていました。中垣氏はその後、244戦隊、5戦隊、53戦隊を経て、戦後は全日空のヘリパイロットとして活躍された方です。

4月7日 飛行場のピストに無線車が配置された。機内にも小型無線機が装備されてテストが行はれた。
 4月8日(水)
 朝から天気晴朗、好天に恵まれる。1番の搭乗で1回離着陸を行う。
 準備線で助教が降りて両翼の張線に赤い吹き流しを付けた。単独機の標識だ。
 8時19分、日頃習い覚えた通りの操作で離陸した。何時も文句を言っていた前の座席の助教は居ない。
 高度300mで場周経路に入り下界を見た。桜の花が満開だった。
 操縦桿を動かすと思ふように動く。鬼の首でも取った感じがして思はず大声を挙げて万歳を叫んだ。この感激を掴む為に幾つ頭を叩かれたことか。無事に着陸した。
 無線電話で助教が「もう一度」と言ふ。本日2回の単独飛行を無事に終えた。
 夕食後、組の仲間に酒保で単独祝いのうどんを奢った



 以上を総合すれば、万世基地から出撃した特攻隊員として「大石清伍長」の実在は確認できず、架空人物である可能性が高い。またその日記等にも不審な点が多く、捏造だと考えるのが妥当であろうとの結論に達します。 


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