東京大空襲に散った特攻隊員


操縦徽章

 昭和20年7月24日、その頃、みかづき隊から再度本部小隊に移っていた板垣政雄軍曹は、不調の戦隊長用機を予備の5式戦と交換するため、2ヶ月振りで調布飛行場に戻った。即座に補充できるよう、調布には常時数機の5式戦が待機していたのである。

 板垣軍曹は、空襲で骨組みだけの哀れな姿になっていた大格直上で、翼端から雲を曳きながらの急旋回等、試験のために種々の特殊飛行を実施して、地上の衆目を集めた。
 着陸後、休息のために仮泊所へ戻ろうとしていたところ、先ほどの試験飛行を見物していた顔馴染みの炊事班長が声を掛けてきた。
外泊中、空襲で死んだ奴が、あんたの操縦徽章を着けていたものだから、一時はあの板垣が死んだらしい…と騒ぎになったんだ
 初めて聞く話で驚いたが、板垣軍曹には思い当たることがあった。

 3月頃のこと、少飛14期生が数名、戦隊に転属してきた。その中の一人が、「先輩、外出するので、徽章を貸して下さい」と言ってきたのだった。
 彼らはまだ兵長だったから操縦徽章を貰っていなかった。しかし、外出のときには、操縦徽章を着けているといないとでは、地方の人たち、それも若い女性の見る目が違うために、やはり着けて歩きたいものなのだ。
 その気持ちがよく分かる板垣軍曹は、自分の徽章を気易く貸したのだが、それっきり徽章は返されず、貸した当人も失念してしまっていたのである。


東京大空襲

 一般に「東京大空襲」と言うと、下町が焼けた20年3月10日を思い起こさせるが、東京の西半分を焼け野原にしたのは、5月25日の空襲だった。
 5月25日2230、B29約500機が相模湾方面から単機ずつ北上、京浜地区に対して爆撃を開始した。爆撃は焼夷弾と爆弾の混投で、総量は焼夷弾3258トン、爆弾44トンであった。爆弾も混ぜるのは、家屋を破壊してより燃え易くするためと考えられる。

 爆撃は翌日午前1時まで2時間半にわたって続き、『本土防空作戦』によれば焼失家屋16万5545棟、死者3651名、罹災人口は62万125名に及んだ。
 被害は横浜、川崎および帝都の北西部に集中し宮城も炎上したため、阿南陸軍大臣は責任を痛感して辞表を提出した(天皇に翻意されて結局は辞職せず)。
 米空軍第21爆撃コマンドは、この日までの攻撃によって東京全市街地の半分以上(55,8パーセント)を破壊したと判断し、これ以降、東京に対する焼夷弾攻撃を中止したほどだった。


新宿では…

 この夜、調布の特攻隊員の大半は、244戦隊とは縁の深い新宿の歓楽街、十二社(じゅうにそう)へ遊びに来ていた。各隊に対して外泊の許可が出ていたからである。 十二社の料亭で撮られた写真へ

 全員に対する外泊許可は、前線移動または出撃の直前に出されるもので、「出撃近し」を示す決定的なサインであった。出撃は、序列からして第159および160振武の2隊と予想された。
 第159振武隊の西野岩根伍長も、この夜十二社へ来ていた。西野伍長は、知覧へ前進の途中、芦屋から出した家族宛ての遺書の中でも当夜の空襲について触れている。

 第162振武隊の二宮嘉計少尉や飯田幸八郎少尉らは、空襲が始まった当初、落ちた焼夷弾に濡れムシロを掛けて発火を防ごうと努力したが、危険が迫ってきたために芸者たちも引き連れて甲州街道まで逃げ、通りがかりのトラックを強引に止めて荷台に乗り込んだ。しばらくすると、どうも臭い。乗り込む時には夢中で気付かなかったが、実はオワイ車(し尿運搬車)だったのである。彼らは足もとに並ぶ樽を気にしながら、調布へと向かった。

 第163振武隊長の天野完郎少尉もやはり料亭で遊んでいたが、周り中に焼夷弾が落ち出したため、慌てて芸者たちにモンペを履かせ、彼女らを引き連れて逃げ出した。
 初台から甲州街道に出て徒歩で調布を目指したが、沿道は火の海だった。何とか桜上水まで辿り着き、全員、上水の水を頭から浴びてやっと人心地がついた。彼女たちとはそこで別れ、単身調布に向かったが、飛行場に着いたときには夜が明けていた。
 実は、その芸者衆も戦隊を頼って調布飛行場に辿り着いた。衛兵所から連絡を受けた本部副官川田静二郎中尉は、彼女らに食事を与え休養させた後、戦隊のトラックに乗せて自宅方面まで送り届けた。

 第164振武隊の井野隆少尉は、この夜、川崎に出かけていた。防空監視隊に勤務していた小学校時代の恩師に面会するためだった。
 8時頃、監視隊隊長らと夕食を共にしていたところ、「B29大編隊が北上中」との情報が入り、帰りを急いだが、渋谷駅まで来たところで空襲に遭った。近くの代々木練兵場には多くの人々が避難しており、井野少尉もそこで野宿をした。横なぐりの煙に晒されたせいで眼が見えなくなってしまったが、親切な人が濡れ手拭で眼を冷やしてくれた。そのお陰で午前3時頃、ようやく調布へ向けて歩き出すことができたのだが、飛行場に辿り着いたときには、とっくに昼を過ぎていた。


調布では…

 一方、焼夷弾は調布地区にも投下されていた。調布町布田の竹内武雄は、その著書『郷土の70年』のなかで、晩年このように回想している。
この頃は、わが空軍力はゼロに近く、敵機の乱舞にまかせ、下石原から小島、深大寺方面はB29編隊の夜間空襲を受け、何百発とも知れぬ焼夷弾を投下され、全焼の民家も十数戸、青年教員養成所(現電気通信大学)の大きな校舎も全焼した。自宅の焼けている中を下石原の石坂宇太郎さんは、住家は焼けてもかまわないから、軍の預かり物のはいっているこの倉庫を助けてくれと、消防士へ大声で何回も頼んでいたのを覚えている

 焼夷弾は、京王線上石原駅南方にある若宮八幡神社北側の畑から落ち始めて三鷹町方面へと北へ広がっていった。『郷土の70年』にあるように、調布町下石原の甲州街道沿いでは約80棟の民家が炎上したが、焼夷弾は更に調布飛行場の東地区と南地区一帯にも降り注いだ。

 当時、大半の将兵は、飛行場内の兵舎は空襲で狙われて危険であるため、既に飛行場内には居住しておらず、飛行場東側の松林にあった兵站宿舎で寝泊まりし、昼は飛行場内外の各部署に出勤するという毎日を送っていた。

 空襲の開始と共に戦隊本部の松岡弥次郎伍長は屋根上での警戒を命ぜられ、営内靴のままトタン屋根に上っていた。そこにいると、降り注ぐ焼夷弾に加えて、近くの羽沢や深大寺陣地から発射された高射砲弾の破片が、これまた雨のように降ってきて、鉄兜と防毒マスクを着けているとはいうものの、全く生きた心地がしなかった。

 この辺一帯はもともと立派な松林で、半地下式兵舎の周囲にも沢山の松の大木が生えていたが、地面に落ちた焼夷弾の油が燃えながら遠くまで弾け飛ぶため、多くの樹木が炎上した。
 翌朝、松岡伍長は本部に出勤するために飛行場に入った。飛行場内の草地には至るところ無数の焼夷弾の燃え殻の筒が突き刺さっており、「夕べはこんなものが頭から降ってきていたのか」と、唖然とする思いだった。

 飛行場は大被害を受け、南地区のかつて司偵中隊が使っていた小型木造格納庫4棟と付属兵舎数棟、東地区大格納庫と隣接の小型格納庫、北地区の立川航空廠調布出張所格納庫など多くの建物が焼失した。戦隊本部自体はモルタル造のために焼け残ったが、19年に増築した木造2階建て部分は焼失した。
 しかし、この頃既に格納庫などはほとんど使われておらず、飛行機は勿論のこと飛行場施設自体の周辺への分散が進んでいたため、実害は余りなかったのである。

 防衛総司令部飛行班から衣替えしたばかりの第1総軍司令部飛行班も、疎開先として飛行場を遠く離れた調布町下布田のハケ(段丘崖)上に体育館まで備えていた新田男爵の鴨猟用別荘を接収し、ここを「分宿所」と名付けていた。この辺りにも焼夷弾は降り注ぎ、建物は全焼してしまったが、泊まり込みで番をしていた整備工員の日橋源一は、孤軍奮闘して疎開させてあった大事な物資を守り抜いた。

 留守宅を守っていた整備隊長夫人三谷美智子も、当夜は飛行場方面の空が昼のように明るくなり、甲州街道は家財道具を満載して府中方向へ逃げて行く住民たちの大八車やリヤカーで溢れ、全く騒然とした状態だったことを記憶している。

 この当時、244戦隊は既に防空部隊ではなかったのだが、これは地方の人々の知り得るところではなく、このような大被害が出ると戦隊員の家族は、「お宅のご主人たちは、いったい何をしているんですかね?」と、近隣の人々から嫌みを言われたそうである。


松谷伍長

 まるで嵐のような一夜が明けた5月26日の夕刻、戦隊本部功績係の井熊春司少尉は、第160振武隊長豊島光顯少尉から「王子の親戚に行く…と言って外泊した松谷巌伍長が、門限を過ぎても戻ってこない」と報告を受けた。

 松谷巌伍長は少年飛行兵第14期生。父は軍人であったが戦没して既に亡く、母と3人の弟たちも東京から仙台に疎開していた。
 最後の外泊許可で彼も母の元へ帰りたかったのだろうが、当時の鉄道事情ではとても仙台までは帰れなかった。そこで彼は、都内王子に住むガールフレンドの家に泊まりに行くことにしたようである。
 この葵家とは親戚同様の付き合いだったようで、彼が仙台の母に宛てて出した手紙によれば、前年7月末、熊谷飛行学校を卒業して北支の第5錬成飛行隊に転属する際の休暇も、ここで過ごしている。

 井熊少尉は松谷伍長の顔を知らないため、第160振武隊の同僚3人を引き連れて、翌27日早朝、王子方面への捜索に向かった。
 当時の王子一帯は、家一軒ない全くの焼け野原だった。ごく一部の住民は防空壕の中で暮らしてはいたが、目印もなく、人が歩いていないので道を聞くこともままならず、捜索は難航した。

 随分長時間探し回った後、偶然見付けた扉のない防空壕に入ったところ、座って食卓を囲み、眠るように死んでいる3人の女性と一人の男性を発見した。その男性こそが、「板垣政雄」の操縦徽章を胸に下げた松谷伍長だったのである。
 3人の女性のうち2人は姉妹と思われる若い娘、もう一人は50歳位で姉妹の母親と推察された。

 この防空壕は、軍隊生活の長い井熊少尉も感心するほどしっかりした本格的なもので、中は広く、寝具は勿論のこと生活道具一切が揃っており、日常もそこで生活していたようであった。また、死亡の少し前に食事をとった痕跡も窺われた。

 死因は確認できなかったが、壕の中が全く焼けておらず遺体もきれいな状態であったことから、井熊少尉は窒息による死亡と判断した。
 井熊少尉は、とにかくも部隊へ連絡をとり、トラックを廻して貰って松谷伍長の遺体を調布飛行場まで運んだのだが、「あの焼け野原からどうやって部隊へ連絡したものか全く記憶がない」という。
 当時、豊島少尉乗機の機付であった岡部恒男上等兵は、「あの日の豊島少尉の憔悴しきった表情は忘れられない」と回想している。

 松谷伍長の遺体は、本来調布飛行場を出発の予定であった5月28日、5名の同僚に見守られながら荼毘に伏された。多磨墓地の火葬場は、大空襲被害者の遺体を入れた隙間だらけの粗末な棺桶が山積み状態となって凄惨を極めていたが、軍人の場合には部隊からドラム缶1本分の重油を提供したために、優先的に焼いてくれた。


中野区相生町16番地

 平成2年、筆者が戦隊史調査に踏み出した当初、第160振武隊には不明な点が多く、同隊の編成表の入手が不可欠と考えていた。そこで、木村栄作氏にお願いして、貴重な編成表を拝借したのである。

 これで分かったことは、松谷伍長は「5/25 休暇先ヨリ
帰還途中空襲ノ為、中野附近ノ防空壕ニ於テ窒息死亡」したこと。これは、戸籍上の死没地「中野区相生町16番地」、更に当時戦隊本部に勤務していた人物の記憶とも一致して、確定的であるかに思えた。

 ところが、松谷伍長の捜索にあたった井熊氏にお聞きすると、その場所は王子であったという。実は、王子はかつて松谷伍長の実家があった場所であり、また井熊氏自身、数十年来中野に住み、中野付近の空襲の被害状況も把握しておられたので、中野と王子とを混同することは考えられず、井熊氏の記憶は確かなものと判断した。井熊氏によると、中野も焼けたが、王子の被害はその比ではなかったそうだ。

 すると、軍の記録には、事実に反する記載がなされていたことになる。何故か?
 当時、戦隊本部では、松谷伍長への同情が強く、「何とかならないものか」との声が聞かれていたという。休暇中の死亡では不慮死と扱われて、死後の進級や遺族への扱いなど、不利になってしまうからである。
 おそらくそこで、死没地を王子と調布の中間にあたり、しかも当日空襲を受けた中野とし、部隊へ「帰還途中」と記載することで、殉職の扱いにできるとの便法が見出されたのではないか。

 事実ではないにも拘わらず、所番地まで特定されていることには、やや不審を感ずるところだが、実は、相生町には、前年末に戦死した畑井清刀伍長の同期生の実家があり、畑井伍長の戦死後も玉懸文彦軍曹ら戦隊の操縦者が遊びに行っていた。また、当家の姉妹も、飛行場へ頻繁に面会に訪れていた事実があり、戦隊との縁は確かに存在していた。
 果たしてそれが、どこまで関係しているのかは不明だが、松谷伍長が殉職の扱いになり、死後、軍曹に進級しているのは、紛れもない事実である。


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