慰問と「最後の帰郷」
2001.1.5

大東亜戦争中の北多摩郡調布町は、全町を挙げて百八部隊(244戦隊)を支えており、ほとんど一体と言ってよかった。
そのような中で、日活多摩川撮影所(後に大映と改称)も熱心に慰問活動を行っていたが、それが結実したとも言えるのが、後掲の映画「最後の帰郷」である。

日活多摩川の女優たち
ムーランルージュ慰問興行
★昭和18年早春、調布飛行場を慰問に訪れた日活
多摩川の女優たち。
左後方は大格(大格納庫)。右手の小型格納庫は
まだ建築中。
★18年夏、大格で開催された新宿ムーラン
ルージュ一座による慰問興行。
ムーランルージュを「ひいき」にしていた戦隊
員も多く、244戦隊との縁は深かった。

97戦に乗った小学生
名「お宮」田畑曹長
★97戦の操縦席に収まった調布町の小学生。
慰問興行には、軍人を受け入れている家庭の
子供たちも招待された。
★慰問興行に併せて催された中隊対抗演芸大会で
出番を待つ、みかづき隊整備班の田畑正巳曹長。
田畑曹長は「お宮」になりきっている!

綺麗所と板垣軍曹

20年1月頃、慰問の綺麗所に囲まれた震天隊板垣軍曹。


渡辺はま子慰問団

20年2月10日、川崎日蓄(コロムビアレコード)慰問団。後列右から2人目、弁士松井翠声
5人目作曲家古関裕而、6人目渡辺はま子、左端は新垣少尉。前列右端鈴木伍長、1人
おいて頼田少尉。新垣、鈴木は1週間後の2月16日に戦死。頼田は6月6日特攻戦死。



田中絹代と小林戦隊長

20年4月22日、調布飛行場を慰問に訪れた田中絹代。大スターと
並んで戦隊長小林照彦大尉も緊張気味。
この慰問は、当時第13航空通信連隊(神代村)に勤務していた松竹
スター佐野周二が、連絡で244戦隊を訪れた際に斡旋を申し出て実現
したものだという。田中絹代は5月10日にも再度訪れ、舞踊を披露した。


大映三浦課長と小林戦隊長


20年5月初旬、多摩川撮影所に
招待された小林戦隊長と大映の
三浦信夫企画課長。
これは、244戦隊主力が調布を
離れて前線へ向かうのに際し、
激励の意味だったと思われる。
このような関係が『最後の帰郷』
撮影時の戦隊のロケーション協力
に繋がったのであろう。





大映映画「最後の帰郷」
昭和20年6月制作 7月26日公開
 
原作 菊池 寛
企画 加賀四郎
演出 吉村 廣 田中重雄

あらすじ
 内地のある特攻隊基地では、隊長水戸中尉以下7人の陸軍特別攻撃隊員たちが、格納庫を敵艦に見立てた突入訓練に明け暮れていた。そんな彼等に一泊二日の休暇が出された。出撃前の「最後の帰郷」だった。

 栗原軍曹(若原雅夫)は夏祭りの夜、許嫁(月岡夢路)と月明かりの中を歩きながら最後の別れを交わした。
 森軍曹(光山虎夫)は海辺の故郷へ帰り、翌日帰隊の寸前、ちょうど漁から戻って来た父(見明凡太郎)に会うことができた。父は息子の出陣を喜び、「暴れたいだけ暴れてこい」と励ます。
 妻子持ちで唯一人の営外居住者である宮本准尉(花布辰夫)は自宅に帰り、「今度は本物だよ」と妻に出撃を告げた。妻は「お祝い」と、とって置きの砂糖を使って、お汁粉を作ってくれた。
 最年少の片野伍長(片山明彦)は、隊長の勧めにも拘わらず母(浦辺粂子)の元へ帰らなかった。彼の心を思い遣った隊長は母に電報を打ち、基地に呼び寄せた。二人は水入らずの時を過ごし、母は息子の乗る飛行機にそっと手を合わせた。
 水戸中尉(宇佐美淳)は帰郷せず、代わりに郷里の遠い山本伍長(海原鴻)を信州の中尉の両親の元へ遊びにやった。

 そして、いよいよ出撃の当日、部隊長の「自分も後に続く」との訓示を受けて、隊員は轟々たる爆音を上げて待機している愛機のもとへ一斉に駆け出して行った。
 水戸中尉が見送りの列に目をやると、そこには信州から駆け付けた年老いた父母の姿があった。親子は無言のまま目と目で最期の別れを交わし、中尉は機上の人となった。
 多くの日の丸が打ち振られるなか、7機の3式戦は、爆弾で重い翼を引きずるように次々と滑走路を離れて行った。滑走路の傍らには、肩を落として立ち尽くす整備兵たちの姿があった。(陸軍飛行第244戦隊史より)

最後の帰郷 調布飛行場ロケ

昭和20年6月初め、『最後の帰郷』調布飛行場ロケーション。右から浦辺粂子、
片山明彦、本物の特攻隊長小倉中尉、左端が主演の宇佐見淳。
バックは大格の隣にあった小格だが、空襲によって半壊している。



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