昭和20年7月 知覧、八日市 2019.9.20


7月1日
 飛行場で大映ロケを見る。

7月2日
 夕方、朝岡見習士官と防空壕を見てまわる。帰りには渡辺家により、一緒に食事。夜、文野さん来る。

7月3日 晴
 夜は兄のところへ。皆元気。

月4日 晴夕立
 午後より東一に業務連絡。帰りに文野さんにいただいた切符を持って東劇に室内楽を聞く。銀座のビルに文野さんを訪ね、一緒に調布に帰る。伊藤少尉が来て、泊まってゆく。

7月6日 晴
 午前、池谷伍長着隊。午後総軍に連絡。安倍閣下は留守。帰りは空襲のため電車止り、金子から歩く。

7月7日
 午前出勤。午後は家にて整理。夕方小田急で箱根へ。泊る。

7月8日 晴
 朝、藤村曹長を東一外科治療主任、佐藤少佐にお願いする。夜10時の急行に乗る(帰隊のため)。

7月9日
 朝、汽車延着。10時下関。14時の汽車に乗り、二日市湯町(注 現筑紫野市二日市温泉)筑紫館にて休む。2230の汽車に乗り、出発。

7月10日 曇雨交互
 午後8時伊集院着。阿多より汽車脱線不通、19時迄。9時間農会(注 農業会)にて待つ。2030知覧着。雨の中、飛行場まで歩く。
 制3号、4号作戦参加…小牧飛行場へ。

7月11日 曇雨交互
 一日雑事。夜は医務室でのむ。

7月12日 曇雨交互
 再び医務室で別れの会。

7月13日
 雨の中、知覧を去る。佐藤少尉、川田中尉と3人、飛行機で福岡へ。うその様に快晴。
 夕方、防府まで飛ぶ。防府に泊る。とっぷう隊も来ている。

7月14日 曇
 飛行機は都合でだめになり、汽車で出発。19時広島着。佐藤少尉と一時街に出て、23時の汽車にのる。

7月15日 晴夜雨
 朝0830大阪着。星ヶ丘茶寮に行くが焼失している。一宮着17時。小牧飛行場着2030。
 振武隊松本(注 55Fへ転属した松本敏男)少尉の家で白井大尉以下4名と再会を祝す。

7月16日
 朝0930小牧を出発。空襲警報発令。1430の汽車にのり、19時八日市着。飛行場着20時。
 夜間爆撃。敵上空を飛ぶ。攻撃は四日市。

7月17日 雨時々曇
 午前、連絡。午後は病院に連絡。兵1名赤痢の疑いで入院。

7月18日 晴
 診断。再び赤痢の疑い患者。第V期に準ずる予防を決定。夕方、患者を連れて病院に入院せしめる。

7月19日 晴
 戦隊長は昨夜調布より帰隊。整備隊兵80名検便菌検索を実施。
 北川曹長の遺骨届き、夜は通夜。

7月20日
 4時より警戒戦備。敵来たらず。

7月22日
 午後、岩間軍曹、池谷伍長をつれて八日市の町に買い出しに。
 夜は戦隊長のお伴で街に出てビールを飲む。

7月23日 晴
 珍しく敵来たらず。午後より陸軍病院へ。防疫法解除。

7月24日 晴
 艦載機200機来襲。朝6時、トラックにて出発。司令部へ。
 大阪爆撃中の為、淀川提に午後2時頃まで待機。
 1630第11飛行師団(奈良)着、連絡。師団に泊る。

7月25日 曇
 朝より警報の為、12時車で柏原に出、奈良線にて帰途につく。7時過ぎ、八日市に帰着。
 小原大尉生田中尉戦死! 小原は1機撃墜後1機に体当り。軍神小原!

7月26日 曇
 整備隊、豊椋国民学校に疎開。疎開後に鹿又(注 志鎌?)少尉が腹痛あり。往診。医務室は字野(のむら)に疎開。

7月27日 晴
 敵来ず。小原大尉、生田中尉の告別式。
 夜、25日の戦果、撃墜11(内不確実4)撃破3。聖旨を賜う。

7月28日 晴
 朝よりグラマン来襲。午後シコルスキー。

7月29日 晴
 午前、衛生兵金井一等兵進級の件で整備隊へ。それから外村(とのむら)の本部の疎開先へ。
 午後は江口見習士官と医務室の疎開の場所をさがす。結局、繃帯所、野の村に室を借りる事にする。
 夜は戦隊長の宿でビールを飲む。
 疎開の宿は外村の辻川絹さん宅になる。中野少尉と二人。

7月30日 晴
 野の村の医務室を整備。

7月31日 晴暑い
 朝、縫製工場にズボンをなおしに寄り、飛行場へ。
 午後は防空壕掘りをする。夜は家で読書。



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