9.和物


 主のいない家の中で一人、何処にも存在を感じられない君の事を思う。
 君は僕に罰を与え、僕は苦しみ続ける。君と過ごした日々はまるで幻のように現実感がないというのに、思い出は僕の中で育ち忘れる事が出来ない。


 君と初めて逢ったのは、この家の居間だった。


 その夏、巷では世間を騒がす、ある事件が起こっていた。若者がある日突然家を出て行方不明になってしまうのだ。それだけならば、若い時分にはよくある家 出、放出の類であろうと問題にはならなかったろう。しかし、行方不明となった若者の殆どが「大蛇丸先生に逢いに行く」と言い残し消えているのだ。
 渦中の大蛇丸とは新進気鋭の怪奇小説家である。人間の奥底に眠る狂気を描く心理描写や、この世ではない別の場所を描いているのに目の前で起こっているか のように語られる物語で若者に絶大な人気を誇っている。彼−といっても本人は一切の素性を明かしていないのだが−に心酔した者が彼の元を訪れ、小説の種に 惨殺されているのではないか…。そんな噂が真しやかに流れていた。

 その家を訪れたのは、夏の日差しが照りつける昼時。僕は吹き出る汗を手拭いで拭い、余り汗を吸い取らないその布に苛立ちを覚えながら長く白い塀沿いを歩 いていた。やっと見えた玄関には表札がなく−掛かっていた跡なのかうっすらと四角く色の違う部分がある−不安に思いながら殴り書きのように住所が書かれた 一切れの紙と、この辺りの地図を見比べる。
 ここで良いはずだ。
 ごくりと唾を飲み込み意を決して玄関の扉を叩いた。しかし誰も出て来る様子がない。僕はもう一度、先ほどより強く扉を叩く。
「もしもし…こちらは大蛇丸先生の住居ではありませんか?」
 その言葉を発した瞬間、どこからか視線を感じた。とても冷たい氷のような視線だった。あれほど吹き出していた汗が一気にひき、僕は扉を叩く手を止めた。
 すると、ほどなくして玄関の扉がゆっくりと開かれた。
「…お前…その事を何処で?」
 そう言いながら出て来た男は気怠そうに長い前髪を掻き上げた。長身で細身の身体、病的なほどに白い肌と対照的に黒い長髪を後ろに垂らし、何処か怪しげな雰囲気があった。そして僕を貫くような冷たい視線。恐らく…いや間違いなくこの男が「大蛇丸先生」なのだろう。
「不躾な事とは充分承知しています。僕を弟子にして頂けないでしょうか」
 地面に手足をつき、低く頭を下げながら僕はそう叫んだ。時間はそれほど経っていないのだろうが、長く感じられた沈黙が流れた。
「…面白い…中でゆっくり話を聞こうじゃない…」
 面白い…と口に出してはいても、その口調は決して楽しいと感じている様子ではなかった。何かに挑戦するような、全て見透かされているような口調だった。
 僕は顔を上げ困惑した表情でその男を見た。
 男は口の端を上げ、にやりと笑うと「来るの? 来ないの?」と挑発するように言った。
「…上がらせて頂きます」
 どちらにしろ僕はそう答えるしかなかったのだ。

 通された家の中は、人気作家の住まいとは思えないほど質素だった。家具は少なく、資料や文献も見当たらない。日差しが余り入らない作りになっているのか 夏の昼間だというのに薄暗く、空気も外より冷えているような気がした。それは、今自分の目の前をゆっくり歩く男が作り出している雰囲気も影響しているのか もしれない。
 居間へと着くと男は大きな西洋椅子に腰を下ろした。片側に体重をかけ正面ではなく斜めに座る。そして顎で向いの椅子を指し示し「お前も座れば?」と言った。
 僕は恐る恐る腰を下ろし、かけていた眼鏡を直した。射るような視線に耐えきれなくなり拳を握りしめて下を向いた。
「…それ相応の覚悟で来たんでしょうに…とりあえず名乗ったら?」
 この男は何もかも判っているのかもしれない、けれどなけなしの自尊心を持って僕は自分の責務を全うしようとした。
「僕は薬師カブトと言います。この住所は先生の熱狂的な支持者達の間で噂されてました。半信半疑でしたが思い切って訪ねてみたのです」
 くすり、そんな音が聞こえて来るかのように男は僕を馬鹿にした笑みを浮かべた。
「薬師カブト…」
 背筋が凍るような冷たい声だった。部屋の温度が更に下がったかのように感じた。

 そこへころころと鈴の音を響かせながら小さな足音が近づいて来た。この男の他にもう一人いたことに驚き、更にその足音の主がまだ年端も行かぬ少女だった ことに動揺を隠せなかった。現れた少女の頭には大きな髪飾りがあった。縁に小さな鈴がついている。その鈴が少女が動くたびに、りん、と綺麗な音色を奏でて いた。先ほどの鈴の音はこれだったのか。
 この場の空気とは対照的に明るい色の着物を着た少女が椅子越しに男の背中を小さく叩いた。男は今までの雰囲気が嘘であったかのように穏やかな表情で少女を振り返った。
「サクラ…お客様が来ている時は大人しくしていなさいと言ったでしょう?」
 サクラと呼ばれた少女はばつの悪そうな顔をして「ごめんなさい」と小さく呟いた。その声は少女が着けている鈴の音のように可憐で美しかった。


 思えば、僕の運命はこの時に決まっていたのかもしれない。君を美しいと認めたその時から。


 少女は好奇心を隠さず僕をじっと見つめた。薄緑の瞳は神秘的で引き込まれそうだった。
「お父様、新しいお弟子さん?」
 少女は男を振り返り顔を覗き込むようにしてそう言った。
「そうよ薬師カブトというの。サクラ、部屋に案内してあげて頂戴」
 僕は驚いて男の顔を見た。男はやはり全てを見透かしたかのように挑発的な瞳で僕を見返した。緊迫した空気を破ったのは少女の小さな手だった。ぎゅうっと僕の手を握り「こっちよ」と手を引いた。
 思ったよりも冷たい手だった。

 二階へと上がり奥の部屋を案内される。二階も一階と同じく質素な作りだ。通された部屋も簡素でやはり家具がない。
「お弟子さんはいつもこの部屋よ」
「いつも…ということは以前にも?」
 僕の質問に少女は不思議そうな顔をした。そして握っていた僕の手をそっと自分の顔に当てた。
「カブトさんの手…温かいのね」
 そう言って僕の顔を覗き込んだ。近づく少女からは不思議な…しかし決して不快ではない香りがした。大きな薄緑の瞳が僕を見ている。小さな形良い唇が薄く開いて赤い舌が見えた。その舌が僕の掌を小さく静かに舐めた。
 ぞくりと、背筋に電流が走ったかのような衝撃があった。立っていられなくなり僕は膝をついた。頭が痛む。
「…くっ」
 倒れ込みそうになる僕の背中を少女が支えた。
「大丈夫? カブトさん…」
 眼がかすんだ。心配そうに僕を見つめる少女。その唇の端に何か光る物を見たような気がした。
「…君は…」一体…そう言おうとした僕を遮って少女が声を出す。
「私はサクラ…」

 その後僕は丸一日眠ってしまったのだという。緊張で疲れていたのでしょう、と男−大蛇丸先生は言った。釈然としない物を感じながらもそれ以上問いただすことが出来ず押し黙るしかなかった。
 少女−サクラさんは僕を気に入ったらしく何かと僕の部屋へとやってきた。僕は思い切ってサクラさんに質問をしてみることにした。
「初めてこの部屋に来た時に『お弟子さんはいつもこの部屋』って言ってたね。前にいた人はどうしたの?」
 サクラさんは興味がなさそうに今まで僕が読んであげていた本を捲って遊んでいた。
「…いつの間にかいなくなっちゃった…」
「いつの間にか…?」
 質問を続けようとした僕を遮ってサクラさんは僕の鼻先に本を押し付けた。
「そんなことより、ご本の続き読んで? 私カブトさんの声好きよ」
 花が綻ぶように笑った。甘い香りが鼻を突く。この香りは何だろう…。何かを着けている感じではない。まるでサクラさん自身から漂っているように思える。
 サクラさんに気を取られ、余り身の入っていない僕の朗読に飽きたのか彼女は部屋を出て行ってしまった。少しの寂しさを感じながらもそれを振るい落とすように僕は立ち上がった。

 この家の一階も二階も全て探せる所は探したつもりだった。けれど見つからない。ふと庭にある物置を思い出し、そこへ足を伸ばした。
 鍵が掛かっていると思い込んでいたのであっさりと開いた扉に少々気が抜けた。だが、次の瞬間、緊張感を漂わす存在を感じ僕は振り返った。
「大蛇丸先生…」
 いつから僕の様子を見ていたのか…。大蛇丸先生は曖昧な笑みを浮かべながら近づいて来る。
「…仕事熱心ね。探し物は見つかったかしら?」
 背中を熱さのせいではない汗が一筋流れ落ちる。
「いいえ…ですが、必ず見つけてみせます」
 大蛇丸先生はじっと見つめ、そして楽しそうに笑った。
「何かを背負ってる人間というのは面白いものね」
 そう言うとくるりと僕に背を向け、背中越しに呟くように一言添えた。
「…今日の真夜中、居間へいらっしゃい…面白い物が見れるわよ」

 深夜、罠かもしれないと思いながらも言われた通りに僕は居間へと降りて行った。二階から一階へと降りる時、既に気づいていたが、今夜は何故かいつもサクラさんから香る匂いが部屋中に充満していた。甘い匂い。
 くらりと目眩がした。覚束ない足取りで廊下を渡り居間の手前まで来た所で中の異変に気づく。薄く灯りのついた部屋、大きな西洋椅子の上で大蛇丸先生とサクラさんが抱き合っていた。
 大蛇丸先生の上で小さな身体が跳ねていた。短い吐息が遠く離れた僕の耳を刺激する。
「お父様…サクラ…もぉ…」
 耳を塞ぐ間もなく、二人の身体が震え何かが終わったことを告げる。くったりと力をなくし大蛇丸先生の胸へ崩れ落ちるサクラさんを見て、僕の中で何かが壊れたようだった。
 がたがたと震えそうになる足を叱咤して、ゆっくりと二人へ近づく。そして拳を握りしめながら絞り出すように言った。
「…大蛇丸先生…あなたは何を…サクラさんは…まだ子供ですよ」
 自分でも驚くほどかすれた低い声だった。
 薄明かりの中で大蛇丸先生の眼が光ったように見えた。そして僕を凝視しながら先生は哀れむように、諭すように言った。
「お前はサクラの事を何も判ってないわ」
 かっと頭に血が上り、僕はサクラさんを大蛇丸先生の上から引き剥がした。サクラさんが小さく声を上げた。その声にぞくりとした物を感じながらも、その感情に気づかない振りをして僕はサクラさんの小さな肩を掴んで叫んでいた。
「僕と逃げよう、君はここにいちゃいけない」
 サクラさんは余韻の残る身体を持て余すようにふるっと震えた。足の間から残滓が流れ落ちるのが見えた。耐えきれず眼を反らす。甘い匂いは更に増していた。
 サクラさんの手が肩を掴んでいた僕の手の上に重なる。そして初めて会った時と同じように彼女は言った。
「カブトさんの手温かい」
 そして彼女はゆっくりと僕に近づき、僕に口づけをした。

「う…」
 気がついた時には、灯りのない部屋へ閉じ込められていた。右手が鎖のような物で繋がれている。遠くにある扉が開き、灯りがゆらりと揺れた。
 サクラさんが、ゆっくり近づいて来た。移動する明かりが部屋のあちこちに散乱している人骨を映し出していた。
 ああ、そうか…「君」だったんだ。僕は眼を伏せた。
 鈴の音が室内に響き渡る。そして甘い匂い。サクラさんがすぐ側に来ている。そっと顔に小さな手が触れられた。
「カブトさん…泣いてるの?」
 自分でもどうしてか判らなかった。恐怖なのか哀れみか絶望か。綯い交ぜになった感情が溢れ出し止まらなかった。
 サクラさんはゆっくり室内を見渡し、寂しそうに呟いた。
「私が血を吸うとね…皆いなくなっちゃうの…」
 そして僕の首筋に人差し指ですうっと線を引いた。その甘美な感覚にくらりとした。
「でもカブトさんは違った…」
「お父様が言っていたわ…時々そういう人がいるんだって、そういう人は私たちと一緒に生きていけるんだって」
 サクラさんは何故か寂しそうに独り言のように呟いている。
「僕も…連れて行ってくれ…」
 サクラさんはふるふると首を振った。
「もうすぐカブトさんの仲間がここに来るわ」
 三日以上僕から連絡が入らない場合、この場所へ踏み込む手筈となっていた。
「カブトさんには心配してくれる仲間が沢山いるのね」
 僕は激しく首を振った。
「…もう僕にはそんな資格はない。君と行きたい」
 こんな思いを持ってしまった僕はもう警察官失格だ。
 僕は唇を噛み締め泣いていた。右手の鎖が力なく音をたてる。
「連れて行ってくれないなら…せめて君の手で僕を殺して」
 サクラさんの手がゆっくり僕の首に近づいて来た。冷たい手の感覚。締め付けられていく。息が苦しい。もうすぐ終わる。
 そう思い安堵に微笑んだ時、サクラさんの手から力が抜けた。
 不思議に思いながら僕は眼を開けサクラさんを見た。冷たい視線が僕を貫いていた。
「…つまらない…カブトさんは他の人間と違うと思ったのに…」
 そして僕に背を向け蔑むように言った。
「最初は哀れんだ人間に自分の生き死にを委ねるなんて…皆同じね」
「私の事を判ってくれるのはお父様だけ…」
 そうしてサクラさんは二度と振り返る事はせず僕を残し部屋を出て行ってしまった。

 数十分後、僕は駆け付けた警察官に−かつての仲間に−助け出された。事のあらましを全て伝え終わった後、辞表を出し僕は警察官をやめた。

 立入り捜査の終わった何もない家を買い取り、僕は時々そこを訪れる。
 もしかしたら、いつか彼女が現れ僕を連れて行ってくれるのではないか…そんな願いを胸に、君を忘れる事も、自ら死ぬ事も出来ず永遠に君の事を思い続けるのだろう。

 了