1944年 7月 勤労動員で逓信省福岡電気通信工事局で電話
工事に従事 1945年 6月 福岡市大空襲 1945年 7月 佐賀県北多久郡北多久町(現多久市)に疎開、
佐賀県立小城中学校に転校、引き続き飛行機工
場に動員 1945年 8月 日本の敗戦により第2次世界大戦終了、動員
先より学校に帰る。 1946年 4月 熊本に帰り、熊本県立熊本中学校(現熊本
高校)に転校、バレー部に参加 1946年 4月 熊本草葉町教会にて洗礼を受けクリスチャン となる。聖歌隊に加わり合唱を学ぶ。 1947年 4月 熊本工業専門学校(現熊本大学工学部)電気
通信科入学 合唱部、バレー部に所属。NHK熊本放送局
(JOGK)放送合唱団入団。 1948年11月 演劇部に入部、第3回熊本学生演劇コンクー
ルにキャストとして出演(ユージン・オニール作 「捕鯨船」)、熊本学生YMCA「偕進会」結 成に尽力、委員長を務める 1949年 6月 第4回熊本学生演劇コンクールに出演(船越
昭三作「モルグの中から」) 1949年11月 熊本市市民文化祭に学生演劇合同公演でゴ
ーゴリ作「検察官」を上演、検察官フレスタコ
ーフの役で出演。同作品を国立療養所恵楓園で も上演。 1950年 3月 熊本大学熊本工業専門学校電気通信科卒業 1950年 4月 九州配電株式会社入社、佐賀支店送電課通
信係勤務を命ぜられる。佐賀放送局(JOSP) 放送合唱団に転入、同時に放送劇団入団。
会社の演劇部に所属、4月30日メーデー 前夜祭に電産労組として三好十郎作「受胎告
知」を上演、主役で出演。 1950年 6月 会社のバレー部で佐賀市職場対抗バレー大
会に参加、優勝。 朝鮮戦争勃発、日本共産党中央委員公職
追放、機関紙「アカハタ」停刊。 1950年 7月 レッドパージに反対する中で日本共産党に
入党。 1950年11月 本採用と同時に熊本支店転勤を命ぜられ、
熊本支店送電課通信係に赴任。熊本放送合
唱団に復帰。 1952年 4月 日本電気産業労働組合(電産)熊本県支部
常任執行委員に選出され、組合専従。 1953年 7月 電産炭労のストライキ闘争、会社組合の分裂
に乗り出す。 第2組合九州電力労組が結成される。スト規
制法が作られ、停電ストは禁止される。 1953年 9月 県総評大会での平和勢力論争で、電産の方
針と違う発言をしたとして常任を解かれ、職場に
帰る。 職場の演劇部に所属し、職場演劇コンクール
ほか多数に出演 1954年 4月 うたごえ運動に参加、「熊本みんな歌う会」
の指導を受け持つ。 1954年10月 草葉町教会で三好黎と結婚。大江町川鶴で 4畳半1部屋での新生活を始める。 1954年11月 1954年日本のうたごえに参加。 1955年 月 熊本青年合唱団を結成、団長、指揮者となる。 池田町稗田に転居。 1955年 7月 長女直子誕生。 1955年 8月 広島で開かれた第1回原水爆禁止世界大会に うたごえを代表して熊本代表団の一員とし
て参加。 1955年11月 1955年日本のうたごえに参加、電力のうたごえ で「しあわせのうた」を初演奏、指揮を執る。 1955年12月 春竹町八王寺九電アパートに入居 1957年 3月 九州電力労働組合熊本分会副委員長 1958年 3月 長男徹誕生 1959年 3月 全九州電力労働組合熊本分会副委員長 1959年 7月 第7回世界青年学生平和友好祭(於オース
トリーウィーン)にうたごえ代表男声合唱 団の一員として参加、コンクールで銀賞を獲得。 帰国後三池闘争のさなか三池炭坑ホッパー前 で開かれた西日本のうたごえでウィーンで演奏 した歌と鳥取の「傘踊り」を披露。
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しあわせのうたの指揮 ウィーンにて(一番右が私) 市議時代 82年市長選 |
1960年 その後も大牟田センター合唱団の労働者
作曲家荒木栄らとともにうたごえ行動隊を組
織して三池闘争を闘う。 平行して闘われた安保闘争では、居住地の
春竹本荘安保共闘会議を組織し、事務局長と して奮闘する。 1967年 2月 熊本市長選挙に日本共産党公認で立候補、 落選。 1967年 4月 熊本市議会議員選挙に日本共産党公認で立 候補、矢野博信氏ともども当選。初の複数議席 となる。日本共産党議員団長、保健衛生常任委 員として議会活動を開始。 1968年 下通診療所理事長 1970年 5月 九州電力退社。 1970年 6月 父晋死亡。 1970年12月 琴平の現住所に転居 1971年 4月 熊本市議会選挙立候補落選。日本共産党の 活動に専従。 1972年 下通診療所、春竹移転建設委員会事務局長 として平和診療所に専従。 1973年10月 医療法人芳和会熊本保養院に入職、病棟勤 務。 1974年 5月 医療法人芳和会理事に選任される。 1974年 9月 熊本県民主医療機関連合会結成初代事務局 長となる。 1975年 5月 母かね死亡 1978年11月 熊本市長選挙に革新共同候補として立候補、 落選。 この間水俣病闘争支援連絡会事務局長、安 保破棄諸要求貫徹 熊本県実行委員会幹事、 軍事費削減国民大運動実行委員会幹事を歴 任。 1980年 9月 熊本革新統一懇話会を結成事務局長、全国 革新懇世話人となる。 1982年11月 熊本市長選挙に革新共同候補として再度立 候補、落選。 1984年 6月 医療法人芳和会本部総務部長。教育委員長 として職員教育を担当。 1990年 5月 医療法人芳和会を退職。
1990年 9月 全日本年金者組合熊本県本部副委員長に選 出される。 1991年 2月 熊本県知事選挙に革新無所属候補として立候 補、落選。 1991年 5月 熊本県高齢者大会実行委員会事務局長とな る。 1995年 2月 熊本県知事選挙に革新無所属候補として立 候補落選。 この年から治安維持法犠牲者国家賠償要 求同盟熊本県本部事務局長に。 1997年12月 熊本革新懇事務局長、全国世話人交代、代 表世話人となる。 1999年 9月 全日本年金者組合中央委員、熊本県本部委 員長となる。
2000年 6月 全日本年金者組合中央執行委員に選出される
2000年 9月 熊本県本部委員長に再任される
2001年 9月 熊本県本部委員長に再選される
2002年 6月 中央執行委員に再選される。
2003年 6月 中央執行委員退任
2003年 9月 熊本県本部委員長に再任される
2004年 5月 熊本県本部委員長に再選
2005年12月 心房細動で3週間入院
2006年 1月 直腸に癌が見つかり開腹手術
2006年 5月 熊本県本部委員長に再選される
2008年 5月 熊本県本部委員長に再選される
2010年 5月 熊本県本部委員長に再選される
2011年10月 治安維持法犠牲者国家賠償要求同盟熊本県本部
会長に選出される。
2012年6月 熊本県本部委員長に再選される。
2014年7月 本部委員長を退任
2014年9月 腸閉塞で1ヶ月入院、以後心臓弁膜症で入退院を
繰り返し、現在も自宅療養中。 |