| 南京大虐殺が創作された虚構であることは、東京裁判における「ベイツ博士」の証言を見ると良く分かります。当時の資料からベイツ博士は「南京事件の規模を約4万」と認識していたことは明らかになっていますが、東京裁判では検察側主張に合わせて少し妙な発言をしています。簡単に検証してみましょう。
東京裁判「ベイツ博士の証言」その1
スミス教授及び私は、色々な調査・観察の結果、我々が確かに知っている範囲内で、城内で1万2000人の男女及び子供が殺されたことを結論といたします。(注1、結論という言葉に注目)。その他市内で多数殺されたものがありますが、我々はその数を調査する事はできませぬ。(注2 謎の言葉、なぜ調査できないのか?)。また市外でも殺されたものが相当居ります。(注3 市外とはどこか?)今まで申した事は、中国の兵隊でありあるいは曾て中国の兵隊であった事のある何万人の男の虐殺を全然含まないものであります。 (日中戦争史資料集8 極東国際軍事裁判資料編P49 一つの文章に注記をいれました)
(1)まず、最初に「結論」という言葉が目を引きます。「民間人の死者1万2000人」これは1938年当時にスマイス博士と共に戦争被害調査をした結果の結論ですから、普通に考えると市民の死者1.2万人で決着済みと考えるのが普通です。
(2)「その他市内で多数殺されたものがありますが、我々はその数を調査する事はできませぬ」。というこの言葉の意味ですが、東京裁判時に突如として出現した架空の被害者を調査することは誰にもできないわけです。1938年3月に行われたスマイス調査においては、南京城内外のほか、近郊県まで調査の対象になっていました。城内に関しては「全域をカバーした」と序文に明記されています。にも拘らず、20数万人の市民虐殺が数字に現れなかったということを、ベイツは示しているということになります。
(3)「市外でも殺されたものが相当居ります」というのは、近郊県の話ですから中国側が30万虐殺を主張している範囲からは外れます。ちなみに城壁の外側は中国側による焦土作戦(清野作戦)で焼失しており、住民はほとんど存在しなかったようです。
筆者(グース)によるベイツ証言の解釈
私ことベイツは、スマイス教授と綿密な戦争被害調査を行った結果、民間人の死者は2400人、拉致され帰ってないものが4200人合計で6600人が「日本軍によって殺された」と推測しますが、中国人たちの話を聞くともっと多くの人が殺されたと思われます。そこで埋葬団体の申告による「民間人の死者は12000人」を最終的な結論とします。 東京裁判では20万とか30万とか当時の状況とはかけ離れた数字が中国側より証拠として提出されていますが、その数は「調査不可能」です。もちろん私たちの行った1938年の戦争被害調査にも含まれておりません。虚構の被害者を数える事はできません。
でも日本軍が野蛮だった事は事実なので、犠牲者が4万でも20万でも数の問題ではありません。関係者は厳罰に処せられるべきでしょう。
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東京裁判「ベイツ博士の証言」その2
国際委員会は3万の兵士の亡骸を葬る為め労働者を雇ったのであります。これは我々の労働救済対策として行ったものであります。揚子江に葬られた死体及び、他の方法によって葬られた死体の数は数える事ができません。(林モニター 埋められた死体) (日中戦史資料集8 東京裁判資料編P49)
この証言で問題なのは「その他の方法という部分です」。これは「埋められた死体」とモニターが通訳している事から「国際委員会の知らない埋葬活動」であることが判明します。国際委員会の認知している埋葬記録は紅卍字会の集計による約4万だけですから、「崇善堂11万埋葬」は知らなかったという事になります。
つまり、国際委員会の外国人たちは「紅卍字会の集計した約4万の埋葬しか知らなかった」ということが東京裁判で再確認されたわけです。
すると上で検証したベイツ証言(1)≪その他市内で多数殺されたものがありますが≫という部分とは明確に矛盾することになります。東京裁判時点でも、死体が約4万しかなかったという認識(民間人の死体は1.2万人)であるのに、その他にも多数の犠牲者がいたと推測できるはずがないからです。件の部分は東京裁判以降にとって付けた証言(つまり偽証)であるということが判明することになります。
筆者(グース)によるベイツ証言の解釈(2)
私ことベイツは、南京において様々な救済活動をしておりました。当時は「約3万」の死体が南京近郊にございまして、公共事業として埋葬活動を行ったのであります。死体の埋葬活動に関しては「紅卍字会」のみと協力し同団体は「約4万体」を埋葬したと申告しております。以上の理由をもって「南京での被害者約4万人」と結論したのです。 「東京裁判」では崇善堂なる当時の記録にない団体が「11万体埋葬」した証拠が提出されていますが、私の記憶にはございません。ですから「崇善堂の埋葬記録」は数えることができません。また、河に流された死体の総数も判断する事ができません。
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結 論
以上のように、ベイツ証言は数万あるいは10数万の市民虐殺を証明する資料にはならず、検察側主張にそってある程度の操作が加えられていることが判明したと言えます。
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| 解説及び補足
マイナーCベイツ博士は金陵大学歴史学の教授で、事件当時南京に残留した外国人の一人です。国際委員会の中心メンバーとして活躍しました。1897年オハイオに生まれ、1920年より中華民国に滞在しています。1937年12月の南京陥落時は南京大学(金陵大学)歴史学の教授でした。当初から国際安全区委員会の設立に係わり、1938年の3月からはスマイス博士とともに戦争被害調査を行っています。安全区委員会は、1938年2月中旬安全区の解散後は国際救済委員会と名称を変更して、1941年まで活動を行いました。ベイツ教授は、1939年から1941年まで国際委員会の委員長を勤めています。
ベイツ教授は1938年に「戦争とはなにか-日本軍の暴虐」という反日宣伝本を作成するのですが、その態度は公平なものではなく「日本叩きを目的」としたものだったようです。同書の編集者である「テインパレー」に対し上海方面での日本軍の行った残虐事件を取材するように指示を出していることからもその思想が判明します。
(ベイツからテインパリーへの手紙) 1938年3月3日 われわれの考えはこうです。ずっと行われてきた戦争における野蛮な行為を、戦場から隔たっている公衆に知ってもらうためには、一つの街についてよりももっと広範囲な地域にわたって述べたほうが効果があるということです。遠くにいるものは、南京は結局例外である、つまり首都と言う名前ゆえの政治的憎悪や、時間的、人員的な偶発事件によるものと簡単に思ってしまいます。しかし、同じ時期に、上海、松江、蘇州、無錫、湖州、抗州にも同様な話があることが分かれば、全体的に見てずっと信憑性があるということになります。
『南京事件資料集』アメリカ関係資料編P357
日本軍の残虐行為は戦争の開始直後から始まっていた。そのことを証明する為には広範囲な調査が必要であるという主張でしょう。南京は特別ではないというのがベイツの主張です。
(テインパリーからベイツへの手紙) 1938年3月28日 上海付近の民衆に対する暴行については、確実な証拠がほとんど見つかりません。日本に対して申し立てられた事件は主として南駅の爆撃とか攻撃機から民衆を機銃掃射するいった一連の空爆が主なのです。
『南京事件資料集』アメリカ関係資料編P374
「南京は特別だった」ということです。
ベイツ説のまとめ
「戦争とは何か-日本軍の暴虐」第3章 (ベイツ博士の手紙より) 埋葬による証拠の示すところでは、4万人近くの非武装の人間が南京城内または城門の付近で殺され、その内の約30%はかつて兵隊になったことのない人々である。
『日中戦争史資料集』9 英文資料編P47
「アメリカのキリスト者へのベイツの回状」1938年11月29日 南京で殺された民間人の数についてのわれわれの最終的な合計は、 1万2000人です。そのうち9割は当時市内にいて戦闘行為とは無関係に殺された、多くの婦人や子供、老人が含まれています。 この数字は当時の南京市内で、4家族に一人の割合で殺されたことを意味します。 われわれには居住家族を調査した特別な報告があります。調査に際しては、報復を恐れての若干の非協力や隠蔽もありましたが、その結果5家族につき一人が殺されたか、負傷したか、あるいは拉致されて戻ってこないことがわかりました。武装解除された中国兵捕虜3万人以上が、無慈悲にも虐殺されました」
『南京事件資料集』 アメリカ関係資料編P337
「南京における救済状況」 1938年2月14 (ベイツ) 当初から委員会は、中国赤十字社の地方組織と大きな無料食堂の運営において、素晴らしい協力を行ってきた。そして紅卍字会とは二つの大きな無料食堂の活動と死体埋葬活動において、協力を行ってきた。この後者の役目は簡単なものではなかった。彼らが一日に200体埋葬しても、まだ、埋葬すべき3万体があることがわかっている(ほとんどが下関)
『南京事件資料集』 アメリカ関係資料編P174
市民殺害1万2000人というのが最終結論と考えてよいでしょう。とくに「アメリカのキリスト者へのベイツの回状」1938年11月29日は、南京陥落からほぼ一年が経過した後の認識ですから、この時点において、陥落前から南京に居住し、国際委員として避難民保護に当たった外国人たちは「南京大虐殺」という事件を確認できなかったということになります。
市民1万2000人殺害というのは埋葬記録からの推計ですが、国際委員会が認知していた紅卍字会の集計では軍民を分離した記録はありません。1.2万が民間人という推計をどのような手法で行ったのかは不明ですが、恐らく、服装からの大雑把な印象で判断したものでしょう。つまり市民服の死体が1万以上はあったかもしれない、という程度の認識と考えられます。この場合、私服の兵士(便衣兵)が6600人〜10000人程度は混在している可能性があるので、純粋な市民の死体はかなり少ないと考えられます。 戦争被害調査の統計では、南京城区で殺害された市民2400人と、連行されて還らない(ゲリラ狩りが主)4200人の合計6600人が計上されています。これらの中には安全区内で暴動を起こした者や、容疑者不明の犯罪被害者なども(そういう分類項目が無いので)含まれている可能性があります。
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| 東京裁判ににおける重要なポイントの一つがウイルソン証言でした。判決で示された南京陥落時の人口、「100万住民の半数以下」というのはウイルソン証言が元になっているようです。陥落後の生存人口がおよそ25万ですから、ウイルソン証言により「10万単位で市民が減少した」という虚構が生み出されたことになります。東京裁判証言と、1937〜1938年当時の日記とを比較して検証してみましょう。
東京裁判証言(偽証)
○ウィルソン証人 日本軍の南京占領以来、南京の人口は100万ありました。併し占領後市民の大部分は市をさりまして、人口の総計は50万以下となったのであります。
○岡本(尚)弁護人 それは概ね――私は時間を聞き漏らしたのですが、何時を標準にして50万ですか。
○ウィルソン証人 それは11月の終わり及び12月の最初の2週間のことを申したのであります。
(日中戦争史資料集8 東京裁判資料編P21)
南京陥落が12月13日ですから、12月の最初の2週間というのは、南京陥落時を含んでいると考えられます。東京裁判証言では50万以下としたウイルソン医師ですが当時の書簡では陥落時約20万と記しています。
当時の記録
金陵大学病院からの手紙 ロバート・O・ウィルソン医師 (抜粋)
12月9日 日本軍は国際委員会を認めないときっぱり言っている。安全区の中の私たちの周囲にある、利用できるすべての建物に、約数十万の人々が群がり住んでいる。 彼らに何が起こるかは、ただ推量するほかない。〜 (アメリカ資料編P276)
12月14日 13日、月曜の朝、トラブルが上海で発生してからちょうど4ヶ月目に、日本軍が同時に何ヶ所かの門から町に入城した。あるものは北の和平門から、あるものは西の漢西門や光華門から、また南東からそれぞれ入城した。夜までに日本軍は市を完全に統制下におき、数多くの日本軍旗が、彼らの以前の大使館を含む様々な場所に翻った。 南京に残留している15万から20万人は、以前に難民区と私が書いた安全区に群がった。国際委員会は彼らに対して膨大な仕事をなしつつあり、今や彼らの努力によって、大勢の命を救っていることは疑いない。 (アメリカ資料編P278)
12月18日 〜月が照らしているのは太平天国以来、最も荒廃した南京だった。町の9割の地域から中国人の姿がなくなり、かわって、略奪を働く日本兵が隊を組んでうろつきまわっている。 残りの一割の地域に、恐怖におののいた20万に達する中国人が ひしめきあっている。 (アメリカ資料編P282)
『南京事件資料集・アメリカ関係資料編』より
以上のように、陥落前から陥落後までの記述を比較してみると、南京陥落時の人口は20万程度というのがウイルソン医師の認識と考えてよいでしょう。とくに、12月18日の記述から、安全区以外には住民がほとんど存在しなかったと考えていたことが分かります。ウイルソン医師は、陥落前から病院で負傷者の救護に尽力していて、独自の情報収集が行える立場ではなかったことから、これらの情報は他の外国人によってもたらされたものと考えてよいでしょう。すでに、多くの外国人資料から外国人たちは陥落時の人口を20〜25人と考えていた事があきらかになっていますが、念のため比較資料を引用してみます。
その他外国人の見解
111B 南京におけるキリスト教徒の活動に関する予備報告 ――1938年冬季 毎日の仕事があまりにも多くそして厄介なために、誰も丁寧な報告を考えたりまとめたりする時間の余裕が無く、南京の教会のメンバーや家族のなかに、どれくらいの死者や負傷者、そして破壊があったかを数えることもできないでいます。しかし今(2月18日)この激動の数ヶ月の南京におけるキリスト者の活動について 〜中略〜 南京攻撃が予想された週に、南京住民の膨大な脱出があったにも関わらず、25万が安全区に入り込み、数千人が同区外に留まって さらに悲惨なめにあうことになった。 〜中略〜 安全区国際委員会が統括する25のキャンプのうち、11のそれは伝道団の施設を使っています。そしてこれらの11のキャンプの中に、全キャンプ人口の2/3近くが住んでいるのです。 〜略〜
いくつかのセンター記録を参照にしてM・S・ベイツとW・P・ミルズが準備した。 1938年2月18日
『南京事件資料集・アメリカ関係資料編』P184
陥落を前にして10万単位の市民が南京を脱出したことは、アメリカ大使館報告にも記されています。国際委員会の公文書(T-6号12月17日付け)には≪13日に貴軍が入城したときに我々は安全区内に一般市民のほとんど全体を集めていましたが≫とあり、市民数を「20万」としています。この書簡は陥落から2ヶ月が経過した2月18日時点のもので、人口数が25万と修正されていますが、安全区の外側に多数の万単位の市民が存在したという認識はありません。
結 論 ウイルソン医師は1937年当時は約20万と考えていた陥落時の人口について「50万以下」という表現を使用し、真実を語らなかった。真実を語れば、検察側の主張である大虐殺が成立しなくなるという理由からと考えられます。
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| 「東京裁判マギー牧師の証言」(1) ○ブルックス弁護人 日本軍が12月30日に、南京に人った時の南京の人口は大体どの位でありましたか、200万位でありましたか。 「小野寺モニター」 (一寸訂正致します。12月13日に20万位でありましたか)
○マギー証人 それは一寸幾ら居ったかと云うことは申上兼ねるのでありますが、我々の委員会の「メンバー」の委員の推定に依りますと、安全地帯には約20万、或は30万を超したかも知れませぬ。城外の安全地帯にはモットモット沢山居りましたが、何れにしても推定は不可能であります。
「小野寺モニター」 (一寸訂正致します。我々委員会で推定した所では、安全地帯に入ったのは少くとも20万は入ったと思う。其の外に安全地帯に来なかった者がどの位あったかは到底推定出来ないと思う。けれども30万は最低の見境りであろうと思う。兎に角城外に居った者、市外に居った者がどの位居ったかと云ふことは到底推定出来兼ねる)
(日中戦争史資料集8 極東国際軍事裁判資料編P100)
人口数についてはマギー牧師自身が「推定もできない」と証言しているところから、「マギー牧師独自の調査による数字」が存在しないことが分かります。つまり、マギー牧師の認識も他の外国人資料に記された「約20〜25万」という認識でなけれちょと話がおかしいということです。マギー牧師だけが「当時の資料とは違う認識」をする為には、独自の根拠(資料)が必要になりますが、そういうものが存在しない以上は当時の資料に準拠した認識であると判断するのが妥当でしょう。
マギー証言の問題点としては、南京陥落時の人口を30万と考えたのか、50万と考えたのかが明確ではない部分です。30万という見積もりが、安全区にこなかった人口を指すのか、それとも南京城内全域での数字を表すのか、はたまた安全区内に30万という意味なのかが釈然としない。安全区内に30万という見積もりも存在するので(東京裁判、許伝音資料)そういう意味である可能性もないわけではないでしょう。
城外というのが、城の外側を指すのならば、中国側焦土戦術により住民の大多数が避難しているため、数万単位の住民が存在するとは考えられないし、市外というのが、南京市の外側、つまり近郊県を指すのであれば、これは南京城内(およびその付近)の暴行事件とは無関係ということになります。(いわゆる、南京大屠殺の範囲からは外れる)
比較資料
『南京地区における戦争被害』(スマイス調査) http://nankinrein.hoops.ne.jp/sumisu~page11.html (第1表の説明文より) 12月末から1月にかけて日本軍当局によって行われた不完全な登録に基づいて、国際委員会のメンバーが推定したところでは、当時[ 筆者注12月末〜1月初旬 ]の南京の人口は約25万人であって、 数週間前に彼らが特に慎重に推定した数をはっきりと上回るものである。中国の半官半民筋はほぼ30万と推定していた。
(日中戦争史資料集9 英文関係資料集P251)
「南京の人口」と表現しているところから、この25万という数字が南京市全体の数字であると、外国人が考えたということなので、総人口で25万程度というのが、1937〜1938年当時の外国人の認識だったと考えることができます。
結 論 いずれにしても、マギー牧師だけが他の外国人資料と違う認識を示していた(独自の情報を持っていた)ということは考えられないので、東京裁判マギー証言をもって、陥落時の人口が25万を大幅に越えていたと判断する根拠にはならないと考えられます。
「東京裁判マギー牧師の証言」(2)
○ブルックス弁護人 日本軍入城後数週間経った後に、城外に逃避して居た人口が、段々帰って来た訳でありますが、帰って来たことに依って人口は増加して、結局約50万位になったのではありませぬか。
○マギー証人 (通訳なし)
○ブルックス弁護人 私の申して居るのは一般市民のことであります。
○マギー証人 同市に帰って来たのは50万とはどうしても言えないと思います。二、三の例を除いては、大部分田舎の方へ逃げて行ったのが多いのであります。
「小野寺モニター」 (一寸訂正致します。数週間経って城内に帰って来た人は殆どありませんでした。二、三人私の知って居るのが帰って来ましたが、他の人は全部奥地へ逃げたのであります。ですから、数週間経って50万居ったなどと云うことは絶対に言えないと思います)
問題は「数週間」と範囲を区切ったことですが、城門の通行が自由化された2月末以降、南京の人口が急速に増加したのは事実です。中国側や虐殺派の研究者が主張するように、数十万市民の殺戮が事実として広く知られていたならば、(いかに治安回復したとはいえ)、住民が戻ってくるとは考え難いと思われますが、現実には日本軍の占領地である南京のほうが農村部よりも治安がよかったようで、多数の住民が南京に流入しています。
[南京の人口増加について」
『南京地区における戦争被害』(スマイス調査) http://nankinrein.hoops.ne.jp/sumisu~page11.html (第1表の説明文より) 我々が推定してみたところでは、3月下旬の人口は25万ないし27万であって、 このうちには調査員の手の届かぬ人々もあり、また移動の途中の人々もあった。調査した人員は22万1150人である。 5月31日には市政公署の5つの地区の役所で登録された住民(下関を含むが、明らかに城外のその他の地区を含まない)は 27万7000人であった。この数字は特に婦女子について不完全であることが認められており、 普通はほぼ40万と修正されている。
五月末の段階で「40万」まで回復しています。
154B アメリカのキリスト者へのベイツの回状 1938年11月29日
親愛なる友へ あなたがたのほとんどは、ちょうど一年前に出した我々の手紙と、今年1月10日付けの手紙を受け取ったまま、その後は音沙汰なしになっていると思います。 〜中略〜 南京で殺された民間人の数についての我々の最終的な合計は1万2000人です。その内9割は当時市内にいて、戦闘行為とは無関係に殺された、多くの婦人や子供、老人が含まれています。この数字は、当時の南京市内で、4家族に一人の割合で殺されたことを意味します。 我々には居住家族を調査した特別な報告があります。 調査に際しては、報復を恐れての若干の非協力や隠蔽もありましたが、その結果、5家族につき一人が殺されたか、負傷したか、あるいは拉致されて戻ってこないことが、わかりました。 武装解除された中国兵捕虜3万以上が、無慈悲にも虐殺されました。 (P337)
しかし私は大部分の日々、複数の仕事をやっているので、救済以外の仕事もやりました。昨年の12月、国際委員会は25万の民衆に(相対的に高い安全性を備えた)避難所を提供し、うち7万人を25の難民キャンプに収容いたしました。 後者の難民の多くは食べ物を提供する必要がありました。 (P340)
現在南京の人口は事実上40万人におよんでいます。(難民区の時期は25万人、戦争直後には 100万人いた)。最近の増加は、大きくは田舎からの難民によっています。彼らのある部分は、南京市からそこをへ安全を求めていったのですが、今はゲリラとそれに対する報復攻撃で危険にさらされる後背地となり、そこで彼らは有り金全部(ときには衣服も)を使い果たしてしまったか、あるいは奪われてしまったのです。 (P341)
「南京事件資料集・アメリカ関係資料編」より
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