紅卍字会の水増し疑惑

紅卍字会埋葬記録の水増し疑惑
 紅卍字会の埋葬記録については、概ね妥当であると思われますが、東京裁判に提出された埋葬記録は戦後集計されたもので、1938年当時の原本ではないようです。紅卍字会以外の埋葬に関する記述と比較しながら、水増しの可能性を検証してみましょう。









12月28日埋葬6468体は水増しか?!

http://nankinrein.hoops.ne.jp/manji.html
(紅卍字会埋葬記録表)

 紅卍字会の12月28日の6468体埋葬は、戦後の水増しであるという可能性の検証をしてみましょう。第一の疑問点は「6468体という埋葬数」についてです。紅卍字会の他の日の埋葬量と比較しても突出して巨大な数値であることから、何らかの特殊な事情が無ければこれだけの埋葬は不可能と考えられます。12月の動員能力について、東京裁判資料から許伝音証言を引用します。埋葬の相談(使役の要請)があったのは陥落から3日後(12月17日頃)ということで、当初は200人程度で埋葬にあたったということです。200人程度では6468体の埋葬を1日で行うのは困難であると考えられます。




http://nankinrein.hoops.ne.jp/kyodenon.html
「東京裁判許伝音証言」 (抜粋)

○許伝音証人
 三日目に私は日本兵を伴うと云う条件の下に市内を通ったのであるますが、この目的は路上に、もしくは家の中に死んでいた、もしくは死なんとしている者の数を略々決める為でありました。 
『宮本モニター ちょっと付け加えます。「日本陸軍将校の許可を得て」』 
※ 許伝音の宣誓口述調書には「南京陥落後三日目に、私は自動車で通りました。それは日本兵が紅卍字協会に死体埋葬の相談をしに来たからであります。私はどんな様になっているかを見にでかけました」
『日中戦争史資料集8』 極東国際軍事裁判資料集P25



 日本軍は我々に許可を与えてから市内を歩き回る許可証、或いは通交証をくれました。 そうしてこの仕事をなす為に、我々は200人の労働者を抱えておったのであります。我々は死体を直ちに埋葬しました。
『日中戦争史資料集8』 極東国際軍事裁判資料集P30









 第2の疑問は、東京裁判提出資料によれば、死体の埋葬場所や収容場所が「空欄」になっていて状況が不明であること。





 第3の疑問、天候についてです。12月28日大雪という記述がいくつかあるそうですがこれは誤記と思われます。12月28日の天候はミニ―ボートリンの日記によれば≪正午前、学校の教職員は、混雑があまりにひどかったために、登録しないで引き返してきた。今は雪が降っており〜≫とあり、ラーベ日記でも19時前後の記述として≪この雨や雪の中を≫という表現が見られますが、雪が積もったという様子はありません。おそらく午後から天候が崩れ、夕方から雪に変わったというのが事実に近いようです。雪が積もったのは翌日らしく、12月29日は≪昨日夜来の雨は、雪と化し、今朝は3寸積もれり 「梶原日記」、南京戦史資料集UP437≫とあります。このHPでは天候に関しては論点から外すことにします。




 とりあえず、死体収容場所や埋葬地が不明な点について、元祖虐殺派の洞富雄氏の見解を引用してみましょう。




12月28日、6468体埋葬について


『南京大虐殺の証明』P82 洞富雄著 朝日新聞社
 ここで言われている、埋葬場所欄と、死体収容場所を記している備考欄が空白になっている6468体の埋葬例であるが、これについては、1984年末訪中した南京事件調査研究会の皆さんにお願いして、南京市当案館に所蔵されている埋葬表の原本にあたっていただいたところ、この資料は印刷物であって、死体埋葬場所欄には白紙が貼ってあり、すかしてみると、その下に「下関江辺推下江内」の8文字がよみとれ、備考欄はもともとブランクであったことが判明した。

 「下関江辺推下江内」 は、死体を下関の揚子江辺で江内に推し流したこと、つまり水葬にしたことを意味すると思われる。死体収容場所を記入する備考欄がブランクになっているのは、おそらく、揚子江岸やその汀(なぎさ)に折り重なって遺棄されていた死体を、その場所からすぐ江内に推し流すか、もしくは、船で中流に引き出して流したからであろう。死体埋葬場所欄に白紙を貼って下の文字を隠したのは、そこには便法をとって水葬にしたことが記されていたので、それを秘するためであったと考えられる。

 次に12月28日という「大雪の日に6000体の埋葬など到底考えられない」という難点であるが、水葬は土葬とは違って処理がたやすかったことを見落としてはなるまい。それに、約6000体は1日の処理数ではなかったということが考えられはしないか。この件の前の280体埋葬は12月22日のことであるから。28日まで、間に5日間の空白がある。その間、埋葬隊は遺体処理の仕事を休んでいたわけではあるまい。死体処理場所が同一だったので、6日分を一括して12月28日分として記録したのかもしれないのである。


 ということですが、これは中国側の見解とは違うようです。中国側資料(証言・南京大虐殺P170日本語版、日軍侵華暴行―南京大屠殺P58中国語)では、12月28日の6468体埋葬について、水葬ではなく「城内各地で収容」して「中華門外普徳寺」に埋葬したと記されています。
 


 中国側も該当資料は確認しているでしょうから、白紙が貼ってあるのも先刻承知のはずです。紙が貼ってあり、その部分が空欄であれば透かして見るぐらいはするでしょう。(そうでないと正確な資料の作成ができないはず)。しかしながら中国側資料集では「空欄」にもせず「水葬」したという風にも記述していません。なぜでしょうか?。この紅卍字会の埋葬資料は「印刷物」ということで、わざわざ白紙を貼ったということは、「不都合があるから訂正した」、と考えられます。しかし「下関江辺推下江内」を単なる誤記として片付けるのはちょっと困難です。










 中国側は東京裁判提出用の埋葬記録作成にあたり、12月28日6468体については当初「下関で水葬」という認識だったが、その後(東京裁判前に)何らかの事情で「水葬はまずい」と気がついた。だから急遽紙を貼って誤魔化したのではないのでしょうか?










なぜ水葬を隠蔽したか

 まず水葬の状況について確認すると、12月の揚子江は渇水期であり、岸辺は泥濘状態で簡単に死体を流せる状態ではなかったようです。江岸に死体が漂着し堆積するのもそれが理由です。12月25日から12月27日正午頃まで、日本側では、兵士10名と労働者40名を5隻の民間船(後部にエンジンがある通称「ヤンマー」)に分乗させ、2メートルほどの棒の先にL字型の金具をつけたもので、岸辺に滞留している死体をひっかけて流す作業を行っています。その処理数は正確には不明ですが、1000体以上と推定されます。(『ほんとうはこうだった南京事件』P429 関連記事より)



南京戦史資料集UP437 梶原日記
12月26日 (抜粋)
 午後死体清掃の為苦力40名を指揮し悪臭の中を片附く。約1000個に及べり。目を明けて見るも能はず、誠に今生の生き地獄と云うべきなり。


 梶原日記には詳細が記録されていませんが、この1000体処理は5隻の船によるものなので、前日の作業数も含まれると考えられます。(船を死体の在る岸辺に寄せて、死体をひっかけて、流れる場所まで移動させるという作業と思われるので、1隻辺り1日100体程度でしょう)。梶原日記では触れられていませんが、翌日も正午頃まで作業が継続していたようなので、総数は概数で1000〜1500といったところと考えられます。下関ではこの他にも、若干の水葬が行われていたようですが、まとまった資料がないので総数は不明です。

 12月下関の戦場掃除については、日本軍が中心になって行われていますが、苦力を雇ったという記述と、上記の許伝音証言から、紅卍字会の労働者を雇った(使役した)ということはありえます。むしろ、それ以外の方法で労働者を集めるのは困難と考えられるので、大部分が紅卍字会の労働者であった可能性のほうが高いと思われます。

 これらの日本軍の行った埋葬について、紅卍字会が(後になってから)埋葬記録に計上したということもありえます。この場合、洞富雄氏の推測は当たらずと言えども遠からずといったところで、12月17日以降随時行われた、日本軍による下関付近の戦場掃除に動員された紅卍字会の労働者の証言から、12月28日までに6468体水葬いうストーリーを思いついたということでしょう。


 しかし、12月28日6468体が「水葬である」とした場合、日本軍に雇われた埋葬作業であると確定してしまうので、日本側から数値について反証される可能性があった。その為、東京裁判前に水葬については紙を貼って「空欄」とした証拠提出した。
 



 このように考えるのが現状では最も無理がないと思われます。埋葬総数約4万体については、国民党が資金提供して出版したティンパリー編「戦争とは何か」にも記載され、外国側記録にも残っているので、この総数約4万という数字を変更する事はできないことになります。(逆に言うと、実埋葬数は3万数千だったので、4万体程度に水増しをする必要があった)。同時に一月以降の埋葬作業については、自治委員会を通じて特務機関より賃金を受け取っているのでこれも変更できない(12月埋葬分の一部もちゃかり請求したようだが)という理由があり、埋葬を水増しする為には自治委員会成立前の1937年12月中でなければならなかった、という事情があったのでしょう。





 つまり、1938年2月頃の段階では「12月28日6468体埋葬」は、日本側資料にも外国側資料にも登場していない、「まぼろしの埋葬」であると考えられます。その辺りの検証を以下でして見ましょう。












6468体まぼろし説の証明
特務機関資料との比較


『華中宣撫工作資料』P164
「尚各城外地区に散在せる屍体も尠なからず、然して積極的に作業に取りかかりたる結果、著大の成績を挙げ3月15日現在を持ってすでに城内より1.793、城外より29.998 計31.791体を城外下関地区並上新河地区方面の指定地に収容せり」

『南京大虐殺否定論13のウソ』P125 より

 城内区の数字は一致するので、城外区についてのみ比較しましょう。特務機関資料約3万に対して、戦後作成の埋葬記録は約3万5000体ですから、誤差は約5000体ということになります。集計が滞っていたという可能性について、3月15日以前の埋葬表をみてみましょう。
 

紅卍字会3月15日以前の埋葬表
日付   埋葬地埋葬数
3/2  和平門外永清寺旁 1409
3/3  下関石榴園  786
3/6  下関煤炭港辺  1772
3/14  下関海軍医院後方堤辺   87
3/15  三沙河後辺29
3/15  上新地甘露寺空地  83



 このように、3月7日以降の埋葬数が仮に抜けていたとしても200体前後ですから、5000体もの誤差が発生する可能性はほとんど無いと言ってよいでしょう。つまり疑惑の6468体埋葬は、1938年当時の特務機関資料には記されていないと考えることが可能です。


 水増し誤差約5000体










■ラーベ・ベイツの記述=1日200体埋葬
 ラーベもベイツも2月中旬の記述において、紅卍字会の埋葬力は1日200体と記しています。この情報源はラーベの上申書によれば紅卍字会ということですから、紅卍字会が1937年12月13日の南京陥落から、1938年2月15日頃までに行った実際の埋葬について語った数字と考えてよいでしょう。

 一日200体という意味については二つの解釈が可能です。一つは、『実際に作業を行った場合の平均が200体程度』。という解釈と、もう一つは、埋葬開始から2月15日頃までの総埋葬数を総日数で割った平均値、つまり『作業を休んだ日を含めて、平均すると一日200体』という解釈です。紅卍字会の埋葬資料をみると、埋葬活動日の埋葬量は200体を超えている日がほとんどなので、前者の解釈は成立しないと考えてよいでしょう。すると紅卍字会がラーベ・ベイツに語った一日200体の意味は、「2月15日までの総埋葬数」を「埋葬開始日12月22日から、2月15日頃までの総日数(約55日)」で割った平均が、一日200体ということになります。




▼簡単に計算するとこのようになります。
(一日200体)×(55日)=1万1000体埋葬(2月15日まで)
(これが紅卍字会の主張)




 紅卍字会の埋葬数は、1938年当時の記録によれば2月15日の段階で約1万1000体と考えられます。これは紅卍字会の自己情報なので、ほぼ間違いない数字と考えてよいでしょう。しかし、東京裁判に提出された資料では、約1万7000体を埋葬したことになっています。

 水増し誤差約6000体
 疑惑の埋葬6468体を差し引くと当時の主張と一致する。











 

■ミニーボートリンの日記から

「南京事件の日々」 ミニーボートリンの日記 

1月29日 土曜日
 ドイツ大使館のローゼン氏がゴルフ-クラブに行くと言って聞かなかったそうだが、本当かどうかはわからない。
 午後、紅卍字会会長の張南武がわたしに話してくれたところによれば、同会は2000体を埋葬したそうだ。彼に、寺院付近にある焼け焦げの死体を埋葬して欲しいと懇願した。彼らの亡霊がたえずわたしの前にあらわれる。」



2月3日 水曜日
 この訪問のあとわたしは紅卍字会本部へ行き、キャンパスの西隣に放置された死体―――とりわけ、二つの池に岸の放置された焼け焦げた死体のことを伝えた。[ 南京 ]占領以来、紅卍字会は1000体を超える死体を棺に納めてきたのだ。



4月2日
 きょう、紅卍字会だけで、1月23日から3月19日までに3万2104体の死体を埋葬し、そのうち3分のは民間人の死体であったという報告が作成された。 


4月15日
 紅卍字会の本部を訪ねると、彼らは以下のデータを私にくれた―――彼らが死体を棺に入れて埋葬できるようになったときから、すなわち1月の中旬ごろから4月14日まで、紅卍字会は城内において1793体の死体を埋葬した。そのうち約80パーセントは民間人であった。城外ではこの時期に3万9589体の男性、女性、子どもの死体を埋葬した。そのうち約25パーセントは民間人であった。これらの死体埋葬数には私たちがきわめてむごい殺害があったことを知っている下関、三沙河の地域は含まれていない。 


 
 まず、1月29日の段階で、紅卍字会の埋葬数は2000体、その内一月中旬以降、納棺が可能になってからの埋葬数が1000体以上ということになります(4/15日の記述から)。1月29日までの紅卍字会の埋葬記録を表にしたのが(表A)です。


1月29日までの比較(表A)
紅卍字会埋葬数
ミニー日記
城内区


1月中旬以降は
1000体以上

1/29日まで2000体

12月22日129
1月26日125
城外区
12月22日109
12月22日261
12月22日280
12月28日6468
1月10日996
1月23日431
合計8799
備考
修正後1/10まで2331
12/28日を削除
1月中旬以降1552
1000体以上





 紅卍字会の戦後集計した1月29日までの埋葬記録は「8.799体」。ミニー日記の「2000体」との誤差は約6800体ですが、疑惑の12月28日の分をマイナスすると「2331体」。ミニー日記とほぼ一致します。また一月中旬以降の埋葬は、ミニー日記の記述1000体以上と、埋葬記録1522体はほぼ一致すると考えてよいでしょう。



 水増し誤差約6800体
疑惑の日をマイナスするとほぼ一致。








■結 論
 以上のように、当時の特務機関資料、外国人の記録によれば、12月28日6468体埋葬という数字は存在しなかったと考えたほうが、各種資料の整合性があると判断できます。



そして生まれた新しい疑問

 紅卍字会の埋葬記録にある種の操作が加えられていることは、まず否定することはできないと考えてよいでしょう。12月28日6468体が架空とは言わないまでも著しく過大であるということは証明されたと考えてよいと思います。


 しかしながら問題は単純ではありません。


 ミニーボ―トリン日記に記述された埋葬数については、4月2日以降は逆にミニー日記の記述のほうが過大な数値を示すようになります。疑惑の埋葬(6468体)を含めても、まだ2000〜3000体程過大と言う状況なので、『戦後編集された埋葬記録が過小である』という見解も論としては成り立つということになっています。ようするに、紅卍字会が戦後編集し東京裁判に提出した資料というのは、当時の記録とは一致しないということだけは確かなようです。城内区における埋葬数1973体のみが各種資料と一致して、城外区の埋葬記録が一致しないということは、「城外区の埋葬については戦後に操作された部分がある」と考えるのが妥当ということになります。








紅卍字会の二重帳簿?

 一つの可能として、紅卍字会が国際委員会(外国人)に報告している埋葬内容と、自治委員会(特務機関)に報告した内容が違っているという可能性が考えられます。紅卍字会は、国際委員会からも埋葬に関し支援を受けていました。その内容は、2月15日以降に下関に存在したという3万体の死体埋葬に関するもので、金額は2540ドルほどになります。しかし、下関には3万もの死体は存在しなかったことが東京裁判提出の埋葬記録から判明します。(下関地区には1万数千。範囲を揚子江沿いの広い範囲と考えても2万体程度しかなかった)

 仮に、国際委員会(外国人向けに)「下関で3万体の埋葬を行った」という報告を作成した場合には実埋葬数よりも1万体程度は過大に報告されることになります。大阪朝日新聞の4月16日の記事では埋葬数が約3万2000体ですが、ミニー日記4月15日では約4万2000体と1万体ほど過大な数値になっています。

 これに上記の疑惑の埋葬6468体がからむので、話はややこしくなります。詳細な検証は、また別のページで行うことにしましょう。






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