崇善堂埋葬記録について

崇善堂埋葬記録
 
崇善堂埋葬表(概略)
12月 1.011体
1月 1.556体
2月 2.507体
3月 2.475体
4月 104.718体
合計 112.267体



 一見して不審な部分は、4月の10万体に及ぶ埋葬です。それまで月あたり1000〜3000体程の埋葬力だった団体が、4月においては突如としてその能力が「40倍」になったわけですから、この点について明確な説明がされなければ、「崇善堂埋葬記録は捏造」と言われてもしょうがないでしょう。




埋葬力が増大した理由


『南京大虐殺否定論13のウソ』 P135 柏書房
 埋葬隊は四つの分隊からなっていて、それぞれ主任1人、隊員1人、常雇い作業員10人からなっていた。4隊40人の作業員ではとうてい人手が足りず、城内では大量の臨時作業員を日当で雇い、城外では現地の農民が遺体の収容・埋葬に協力したという(『南京大屠殺』 P404)

 崇善埋葬体の基本編成は、約40名ということです。これらの労働力は隊員ではなく、常時雇いの労働者ということですから、崇善堂の規模がさほど大きくなかったことが推測されます(隊員の数が少なかったのでしょうか?)。また、この資料では臨時労働者を雇ったということですが、それを示すような外国人資料や日本側資料はありません(労働者を秘密裏に雇ったのでしょうか?)。この点も不明なままです。
 
 また、雇用に関して、賃金を払ったという記述がありますが、『南京事件資料集』中国関係資料編に記載された資料(南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表、付属文書)では≪食事つき、無給であった≫と記載されています。このあたりの資料の整合性という部分も気になります。

 さらに問題なのは、崇善堂埋葬隊の規模については、上記の基本編成40名の他は、全く判明していないということです。これは中国側資料を含めても同様です。何人でどういう方法で埋葬を行ったのかという資料が残っていないというのは不思議なことです。賃金を払ったり、米を支給していたとなればなおさら、何らかの記録が残るはずですが、そういう記録も(今の所)存在しないようです。
 
 また、崇善堂の埋葬規模(11万)が事実であり、多数の労働者を雇ったというのが真実であれば、崇善堂で埋葬活動を行ったという「当事者の証言」が多数存在するはずですが、そういう証言もほとんどありません。(私の知る限りでは一名だけ。ちなみに4.2万埋葬の紅卍字会で働いたという証言は5人以上存在する)。まさか崇善堂埋葬に係わった人々は呪われ、ほとんどの人が早死にしてしまったということもないでしょうから、埋葬規模に比べて証言者が少ないというのは不思議なことです。つまり、証言者や埋葬活動の目撃証言が非常に少ないから、崇善堂の活動状況がよくわからないというのが実情です。







中国側の調査内容


『歴史学のなかの南京大虐殺』 P83 ジョシュア・A・フォーゲル 柏書房
 日本が南京大虐殺を否定したことに対し、南京大学は、南京大虐殺を研究するため、南京の中国第二歴史当案館と協力して「侵華日軍大屠殺資料編輯委員会」を組織した。1984年、この委員会は大虐殺生存者1700人以上に面接取材した上で、その証言を『大虐殺記念誌1985年』に掲載した。委員会は死亡者総数についても調査し、19万人が集団で虐殺され、15万人が手当たり次第の残虐行為で命を落とし、死亡者総数は34万人にのぼると結論づけた。


 この「大虐殺生存者1700人以上に面接取材」した中から、642編を選んで整理したのが≪『この真実を・・・・・』南京大虐殺生存者証言集 星雲社≫です。念のため前書きを引用してみます。





『この真実を・・・・・』南京大虐殺生存者証言集 P2 星雲社
 我が国でも、「南京大虐殺」の史料収集と研究活動にとって多くの成果が得られており、とりわけ南京市が1984年と1990年とに全市的な範囲で行った一斉調査と再調査とで、1756名のなお健在な「南京大虐殺」の生存者が現れました。その身に刻み込まれている数々の傷跡と筆舌に尽くしきれぬ血涙の絞り出された告発とが、「南京大虐殺」が確実に起ったばかりでなく、中国人民の情感と心とに消し去り難い深い傷を残していることを、再びはっきりと証明したのでした。今ここに侵華日軍大屠殺遭難同胞記念館がこれらの生存者証言から642編を選び整理して≪証言集≫とし、世に公表します。


 このように生存者の証言を集めていますが、崇善堂で埋葬を行ったという証言は「一人」しか紹介されていません。(紅卍字会は5人)。死体埋葬に参加した者の証言として紹介されているのは小規模個人埋葬を含めて12件です。







■ひとまず、中国側証言から崇善堂11万埋葬という活動規模を証明することは不可能ということで結論するしかないようです。








 ちょっと、埋葬関係からは外れますが、上記の調査内容について簡単に解説すると、中国側では調査した結果「34万人程度が虐殺」された、これは事実であるという認識らしいです。中国で言う「南京大虐殺=南京大屠殺」は、30万以上という認識であることがここでも再確認できるわけですが、この数字は現在の日本ではほぼ否定されていると考えてよいでしょう。




▼虐殺派の中心である笠原十九司教授の見解
「南京城内に進軍した日本軍が20万、30万の市民を寄ってたかって殺しまくった」というのはまったくの虚である。そこで実際に発生した南京事件の実像の紹介を簡単にしておきたい。
『南京大虐殺否定論 13のウソ』 P92




 というように、「虐殺があったという学者」でさえ、南京城内で十万単位の市民が虐殺されたというのは「 虚構 」とであると判断しているのです。




 



死体量の科学的考察

■崇善堂が4月に埋葬したという「10万体」死体について考察してみましょう。



 「10万体」の死体というと、一体あたり60キロとしてして考えても「60キロ×10万=6000トン」ということになります。ホームセンターで見かける赤色のポリタンク(灯油などを入れる奴)は、18リットルが主流ですから、ポリタンクに水を満載したとすれば約33万3300個で6000トンです。これは死体だけの重量で土砂は別途発生します。崇善堂の埋葬記録を見ると、これら死体は広範囲に散らばっていたようですから、これらは個別に回収したことになります。

 これらの死体を、仮に全部を穴を掘って埋めたとすると「20,000トン程度の土砂が出る」と推測されます。ある程度深く掘らないと雨などで簡単に露出してしまうので、埋葬を行う意味が無いからです。当然発生した土砂は再度埋め直さなければなりません。かなりの量の残土(最低でも6000トン)が発生するはずですが、これらをどのようにしたのかも記録にありません。

 また、10万体もの死体をキレイに並べたとすると「3キロ四方」の面積が必要になります。現実にはこれらの死体は広範囲に散らばっていたのですから、見渡す限り死屍累々という状況だったはずです。しかしながら、これら大量の死体が存在したという認識は外国側も日本側にもありませんでした。当時の紅卍字会もこれらの死体の存在を知らなかったようです。(少なくとも記録には残していません)














埋葬に必要な人員


昭和13年4月16日 大阪朝日新聞 北支版 死体はどれぐらい存在したか?(参照)
 最近まで城内で、一千七百九十三体、城外で三万三百十一体を片付けた。約一万一千円の入費となっている。苦力も延べ五,、六万は働いている。しかしなお城外の山のかげなどに相当数残っているので、さらに八千円ほど金を出して真夏に入るまでにはなんとか処置を終わる予定である。



(1)「約3.2万体を埋葬するのに延べ5〜6万人」必要だったとしています。これは、死体をその場で適時埋葬するのではなく、埋葬が許可された場所まで死体を運搬しなければならなかったという事情からでしょう。特務機関の記録によれば、3月の段階で紅卍字会は、人員600名を動員していたということなので、延べ5〜6万という計算は、「一日600人×90日=5.4万人」という計算をしたものと思われます。つまり、埋葬は一月上旬から始められ(特務機関資料)、3月15日の段階で約90日ということでしょう。しかしながら、東京裁判、許伝音証言によれば、埋葬当初は200人程度の規模だったらしいので、延べ5〜6万というのは若干過大かもしれません。この点を考慮して紅卍字会の動員した延べ人数は「約4万人」と仮定することにします。

(2)上記から推測すると、10万体を埋葬するのには一ヶ月で延べ12万人。一日あたり4000人の動員が必要になります。

(3)「紅卍字会」の埋葬隊が最も盛んに活動していた時期で「約600名」だったので、崇善堂は「紅卍字会の6〜7倍の規模」で埋葬活動をしたことになります。


■10万体埋葬を記録した4月における崇善堂埋葬隊の規模は「一日につき動員4000人」と推定される。









崇善堂の活動


南京市崇善堂報告書≪南京市崇善堂埋葬隊活動一覧表≫付属文書
 付属文書 一
本堂は、同胞の惨死体がいたるところに散乱しているのを悼み、特別崇字埋葬隊を組織し、紅卍字会と協力した。紅卍字会は市西部の埋葬を担当し、本堂は市東部の埋葬を担当した。全部で四隊、各隊に主任を置き、食事つき、無給であった。隊員一人につき一日八合[ 中国の一合は約0.5合 ]、隊員10名につき一日米□六合を給した。

『南京事件資料集・中国関係資料編』P277


 崇善堂の労働者は「食事つき無給であった。」ということで、「賃金は支払われなかった」事になっています。米4合というと重量に換算すると約600グラム。崇善堂が労働者に支給した米の量は、「0.6キロ×延べ12万人=支給量72トン」という計算になります。(スーパーで売っている5キロ袋なら1万4400袋に相当)。崇善堂が陥落当初からこれだけの米を所有していたのか、後になって購入したのかは不明ですが、国際委員会の支援も受けず、日本側の支援も受けずにこれだけの資産を所有していたのかどうかは疑問が残ります。(下記史料参照)





 また、この文書によれば「紅卍字会と協力した」とありますが、当時の紅卍字会の史料には崇善堂の存在は示されておらず、また埋葬を管轄した南京特務機関も崇善堂については記録していません。紅卍字会については、上記の朝日新聞記事のように埋葬に対して賃金が支払われていますが、崇善堂に対して賃金を支払ったという記録は無いようです。
 
 紅卍字会は南京自治政府を通じて日本側より資金の援助を受けており、埋葬活動に関しても支援を受けていたと思われます。一方で、崇善堂の活動は独力ですから、両者は埋葬について対等に協力し合える関係ではなかっと考えるほうが自然でしょう。卍字会が崇善堂を雇った(労働者として雇用した)形にして、10万埋葬は紅卍字会が行った形にすれば、その仕事量(埋葬量)に対しては自治員会より賃金が支給されることになり、より円滑に埋葬活動が進むはずですが、なぜ崇善堂が独力埋葬に拘ったのか?、その理由は謎としか言いようがありません。
 また、崇善堂も10万体もの死体埋葬を行うにあたり、紅卍字会に協力を求めるなり、自治員会に資金援助を要請するなりいくつかの方法はあったはずですが、それらが行われた形跡はありません。(どういう経緯なのかは不明ですが自治委員会に自動車部品の配給を要請している書類はあるようです)。
 
 とりあえず、4月の埋葬表から、両団体がどの程度の協力関係にあったのかを検証してみましょう。





                紅卍字会と崇善堂の4月の埋葬活動
紅卍字会の4月の活動
崇善堂 第一隊 第2隊 第3隊 第四隊
4/14 中華門外  1177体
4/16 上新河 700体
4月7日 4/9〜
4/18
26.612体
4/9〜
4/23
18.788体
4/9〜
5/1
33.828体
4/7〜
4/20
25.490体
4/19 三沙河 282体
4/27 下関      385体
4/29 下関       486体
4/30 中華門外    486体
5月1日
4月合計   5009体
崇善堂4月の埋葬合計 104.718体


 紅卍字会の埋葬活動は3月24日以降は、3週間ほど間を空けて4月14日に再開しています。4月の活動は上記の表の通りです。この時期、崇善堂は10万体の死体と格闘中ですから、暇な時は崇善堂の手伝いをしたほうが効率はいいだろうな・・・という考えはなかったようで、埋葬について直接の協力(トラックや人員のやりとり)は無かったと考えられます。

 紅卍字会の埋葬隊の規模について、『真相・南京事件』畝本正巳著P212では、特務機関資料として3月上旬、トラック5台、約600名という数字と、同書P200、南京特務機関員(元満鉄職員)丸山氏のトラック4台、作業員約600名という二つの数字があげられている。














崇善堂埋葬に関係する資料


70 崇善堂埋葬隊長周一漁が南京自治委員会に宛てた書簡
1938年2月6日
中華民国二十七年二月七日着

 拝啓 査するに幣堂が埋葬隊を成立させてから今まで一ヶ月近くたち、作業割当ては大変頻繁であります。しかし車両が大変不足しております。そのうえ今や春となり、気温が上昇してきております。残っている遺体を迅速に埋葬しなければ、おそらく遺体が地面に露出し、関係する公共衛生はまことに少なくないと存じます。一漁、ここにご高覧を仰ぎたく存じ上げます。幣堂所有の自動車は二十四年製造のものであり、目下修理に急を要しますので、次の各用品を配給されたくとくに書簡でお願い申し上げます。
1 バッテリー   2 ピストン肖子  3 クラッチ等

 貴会がどうか補助の方法を講じ、事業に利をあたえ、慈善事業を推し進めることができますよう、この段どうかどうかご明察のほどあわせてお願いもうしあげます。
 ご返事はこのうえにいただければ幸甚でございます。
 南京市自治委員会御中 
                                         南京崇善堂埋葬隊長 周一漁



(以下、委員会の指示)
直接丁三自動車修理部と相談するように  2月8日

侵日軍南京大屠殺遇難同胞記念館所蔵資料より)
『南京事件資料集』中国関係資料編P278


 
 まず冒頭、埋葬隊の編成が一月上旬であることが示されているようです。(一ヶ月近くという表現は通常、一ヶ月未満を指す)。これは自治委員会が成立し、特務機関が紅卍字会に埋葬を依頼した時期と考えてよいでしょう。特務機関資料によれば埋葬が始まったのは一月上旬であり、紅卍字会の埋葬記録によれば1938年の埋葬は1月10日から始まっています。つまり、崇善堂は紅卍字会とほぼ同じ時期に埋葬を始めたと解釈するのが妥当ということになります。

 すると、東京裁判に提出された崇善堂埋葬記録11万は、12月から埋葬を始めたことになっているので、この資料との整合性は無いということになります。






 次に、「作業割当ては大変頻繁であります。」とあります。つまり、埋葬作業について割り当てられているということは、何者かの指導の元に埋葬を行っていると考えることができます。崇善堂に作業を割り振っているのは何者でしょうか?。 日本軍は自治員会を通じて作業の支援に当たっていますから日本軍が直接ということはないでしょう。その自治委員会は紅卍字会にのみ埋葬料金を支払っています。すると、崇善堂に作業を割り振っていたのは、自治委員会でも、日本軍でもなく「紅卍字会である」ということになります。

 この資料から、崇善堂は紅卍字会の下請けだった可能性が浮上してくるのです。






 その次ですが「残っている遺体を迅速に埋葬しなければ、おそらく遺体が地面に露出」とあることから、崇善堂の活動はどうやら「改葬」(埋め直し)が主だったように思われます。さらに、自動車の修理代金にも事欠いているようで、自治委員会に現物支給の要請をしています。(委員会の指示が直接修理部と相談せよということですから、修理代金は自治委員会が持つという意味でしょう。つまり代金があれば、自動車の修理は可能であるということになります)。

 崇善堂の活動は小規模であり、さほど裕福ではなかったと考えられ、後に10万体埋葬を独力で行うだけの資金力は無かったように感じられます。





 
 また、自治委員会は「崇善堂が埋葬活動を行っていたことを知っていた」のに、資金援助を行っていないようです。資金援助が行われたのは「紅卍字会のみ」です。ということは、自治委員会は崇善堂については資金を援助する必要が無いと考えていたことになるでしょう。しかし、自動車修理については支援を行った。ということは、自治員会は、崇善堂が紅卍会の下請けだったことを知っていたので資金援助は必要ないが、作業に必要な部分(自動車修理)については支援を行った、というよう考えることができます。

 崇善堂の埋葬記録は戦後の捏造であり、その実体は「紅卍字会の下請けだった」。当然、崇善堂の埋葬数は紅卍字会の記録に含まれる(賃金が支払われた)と考えられます。
 












発掘された資料
『南京事件の総括』P197 田中正明


 はたせるかな、最近、阿羅健一氏によって崇善堂に関する重大な派遣がなされた。以下は阿羅氏が国会図書館で発掘した資料である。 

その一は、南京市政府秘書処発行の「民国24年度(昭和10年)南京市政府行政統計報告」である。その中に、崇善堂のことが世界紅卍字会南京分会、その他の慈善団体とともに出ているのである。それによると崇善堂は、創立は清の嘉慶2年で古いが、その事業内容は施材(主として衣料給与)、恤救(寡婦の救済)、保嬰(保育)等の事業が主で、掩埋(葬儀・埋葬)はやっていないことが解った。

 その2は、「中華民国27年度南京市概況」(督弁南京市政公署秘書処編・中華民国28年3月出版)である。国民政府は、日本占領後、民間の各種慈善団体が資金難におちいり、一時停頓した事業を再開するよう補助金を与えている(昭和13年9月)。本著はその補助金を受けた26団体の一覧表である。その中に崇善堂もある。しかしこの団体の事業内容は死体処理に関係無いことが、ここでもはっきり解った。しかも崇善堂の項目には、「工作進行範囲狭小」(活動は続いているが、規模は小さい)と特に注記してある。また公文書には次のように記載している(日本文に翻訳)。
   
 棺桶および死体の処理
 城の内外に散在した死体は紅卍字会および自治委員会救済課で埋葬隊を組織して処分し、又事変前から未だ埋めていなかった棺桶は管理者に埋葬せしめ、管理なきものは南門外に運搬して埋葬した。
 崇善堂の名は出て来ない。埋葬したのは紅卍字会と自治委員会のみである。


その3は、南京日本商工会議所編の「南京」の中にある。「南京市政公署振務委員会の収支表(民国27年〈昭和13年〉5月より12月編)」である。これは南京市の決算報告書の一部で、行政院が15万元を財源に慈善団体へ補助金を支出しており、その一覧表である。紅卍字会と普善会が一番多く、各月千元、崇善堂等7団体は各月2百元宛が支給されている。また「南京」には「民間各種慈善団体は事変の為資金難に陥り、一時停頓したが、振務委員会の補助を受け、漸次復旧し・・・」というくだりがあり、崇善堂が本格的な活動を再開したのは事件後8ヶ月後もたった「昭和13年9月から」と記録されている。従って事件後4ヶ月間に11万余の死体を埋葬したという中国の主張とは大きく違っている。〜略〜

(詳細は、サンケイ新聞昭和60年8月10日付けおよび同年10月号の「正論」阿羅健一『架空だった”南京大虐殺”の証拠』をごらんいただきたい)







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