そこで、現状においては、当時の防衛軍の記録が総数をどう記録しているか、つぎに防衛軍の総数を知る立場にあった高級指揮官の回想録にどう記されているか、を見ることがいちばん参考になろう。
一 南京防衛軍司令部編成の防衛軍総数
(1)「国民党第三戦区作戦経過概要・南京会戦」 12月初、南京守備軍約十五師強
(2)「憲兵司令部在京抗戦部隊之戦闘詳報」 (撤退時に)10余万の大軍が長江岸に雲集・・・・邑江門から10余万の大軍が退出した。
(3)劉斐・国民政府軍事委員会・軍令部第一庁(作戦)庁長 「抗戦初期的南京保衛戦」 蒋介石は可能な限りの兵力を南京防衛に動員し,合計10余万人に達した。
(4)宗希濂・第78軍軍長兼第36師師長「南守城戦」 (当初の七万人前後に加えて)3個軍の実戦兵力計約4万人前後を新たに増加し、南京防衛の総兵力は約11万余人になった。
(5)譚道平・南京防衛司令長官部参謀処第一科科長 「回憶一九三七年唐生智衛い南京之戦」 12月8日・・・・・ここにいたり、南京防衛に参加した部隊はすでに10万人ほどに達した。
(6)欧陽午・第78軍第36師第108旅第216団第一営営長「南京保衛戦側記」 (南京外囲陣地と南京複廓陣地の)両戦線に配備し、合計兵力約11万人、20万人と公称した。
(7)杜聿明・陸軍装甲兵団司令「南京保衛戦中的戦車部隊」 南京防衛の十余万の将士は、蒋介石の投降主義のため、不必要で報われない犠牲となった。
(8)将緯国将軍総編著「国民革命戦史第三部・抗日禦侮 第三巻」 「第八章野戦戦略」 11月26日に唐生智上将を南京防衛司令長官に任命し、上海から撤退して南京に来た約14個師(すべて残存部隊)の兵力を指揮させ、南京を守らせた。
次に日本側の資料になるが、南京防衛軍の総数に言及しているものを以下に紹介しておく。
(9)「上海派遣軍参謀長・飯沼守少将の陣中日誌」 12月17日 今日迄判明せるところに寄れば南京付近に在りし敵は約20コ師10万人にして派遣軍各師団の撃滅したる数は約5万、海軍及び第10軍の撃滅したる数約3万、約2万は散乱したるもの今後尚撃滅数増加の見込。
(10)「第十六師団参謀長・中沢三夫大佐の手記」の「敵の兵力、敵に与へたる打撃」(カッコ内は笠原) (基本部隊は)計八〜九師、当時の一師は五千位 のものなるへきも是等は首都防衛なる故かく甚しき損害を受けぬ前に充たしたと見るへく一万ありしものとすれは、八〜九万。以前(上海派遣軍)軍第二課の調査によれは、以上の師団等を併せ二〇師に上がりるも、是等は各所より敗退し来たりて以上の基本部隊中に入りしものなるへし、之か一〇師分ある故二〜三千と見て二〜三万、総計一〇〜十三万の守備兵力なるへし。
以上の資料からほぼ確実に言えることは、最高時の南京防衛軍の編制は約15師相当の部隊よりなり、総兵力は10万以上と言う事である。数としては、11〜13万という数字があげられている。ここではひとまず10数万という言い方をしておく。
ここで問題になるのは、この防衛軍総数に中国で、雑兵、民夫、民工と呼んだ後方(勤務)部隊の兵数がカウントされているかどうかである。南京防衛に参加した第71軍第87師所轄の第二六一旅旅長・陳頤県から筆者が直接聞き取りをしたときの話では、当時国民党軍の一旅は7000の兵員からなり、戦闘兵が5000人、運送などにあたる後勤部隊が2000人とのことであった。そして中国では一般に(日本軍と違って)後勤部隊を兵数に数えないとのことだった。 上記の資料で「総兵力数」と兵力を明記している場合はおそらく(武器をもって敵と交戦できないという意味で直接の戦闘力にならない)雑兵の類をカウントしていない。したがって正規、非正規の後勤部隊の兵数を含めれば、南京防衛に動員された者の数は上記の数をさらに上回ることになる。
〜中略〜
そこで現状ではやむなく概数を推測せざるを得ないが、先の総兵力と次に述べた正規・非正規の軍務要員とされた軍夫・民夫を総計して、(すでに紹介したことのある江蘇省社会科学院の孫宅魏氏の推定した)約15万という数が、いまのところ妥当であるように思う。
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