2007/12/24 改訂
エジプトの古代文明について語るとき、まずはナイル川について語らねばならない。
この川が無ければ砂漠だらけのエジプトに人が住み着くことはなかったし、そもそもエジプトの国土の主要な部分が、今の地球上には存在しなかったのだから。
ナイルは定期的に氾濫して、時に集落まで水に沈めてしまう河川だ。人々にとっては恵みをもたらすとともに脅威でもあった。
ただし、「恐ろしいナイルの洪水」というのはちょっとニュアンスが違う。大雨が降って突発的に起きる洪水は存在せず、いつ水かさが増えるかは毎年決まっているのだ。
ナイルの増水は、川を形成する青ナイルと白ナイル、二つの川の水位上昇によって発生する。青ナイルの水源となるエチオピア高原に季節的な大雨が降り、白ナイルの水源であるヴィクトリア湖周辺にも雨が降る。増えた水は少しずつ海へと下りはじめ、やがてゆっくりと、下流のナイルの水位を押し上げていく。途中に湖や氾濫原があること、エジプトに到達するまでの距離が長いこと、そして何よりナイルの傾斜がとてもゆるやかであることから、雨が降って即・増水とはならず、数ヶ月かけてゆっくり水位が増えていく感じだ。
↑水源から海へ至るまでのナイルの流れ
水位の変化をグラフにすると、このような感じだ。
ちなみに「アケト」「ペレト」「シェムウ」は季節の名前。
それぞれの季節について、「アケト=増水」「ペレト=播種」「シェムウ=暑熱」と書かれていることも多いが、実態としては「アケト=増水+播種」「ペレト=成長」「シェムウ=収穫」である。最も暑い季節は「アケト」の始まる7月半ば以降。エジプは北半球なので一番暑い季節は日本と同じ。
古来エジプトでは、毎年、同じ季節に定期的に起きる増水にあわせて農業を行っていた。増えた水は河の上流から肥えた土を運ぶと共に、土に染み出した塩分を洗い流し、畑の土をやわらかくする。水が引いたあと、湿った土はやわらかく、耕しやすくなっているので農業の手間も省ける。そして水位が最低になった頃に収穫して、また新たな増水を待てばいい。
(※かつては上流から土を運ぶことにより肥料になるという説もあったが、その後の研究で「増水の水自体に栄養分はそんなに含まれていない」となったため該当部分を削除)
エジプトの一年は川の水位が上昇を始める季節に始まる。砂漠の中に独立したオアシスを除けば、生活のすべてが川とともにあったと言ってもいい。そして、次の増水までの日にち、季節の移り変わりが重要だったことから、計量、天文学、暦といったものが生まれた。神々が与えたとされる知恵は、ナイルの増水とともに生まれたと言っていいかもしれない。
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★ワンポイント
ナイルは、遡ると「青ナイル」「白ナイル」のニ系統がエチオピアのタナ湖で合流している。青ナイルの水源のあるエチオピアは国土のほとんどが標高1500メートル以上で、年平均気温は16度程度。かなり涼しい。4000メートルを越す山々も多い。どんだけ高いの?
というと、日本で言えば富士山より高い。(富士山は3776m)
中の人がナイルの源流に行った写真とかはこちら
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増水が最大に達すると、場所によっては川幅が通常の7〜8倍にもなったという。ふつう川幅が8倍なんていったら、ものすごいことになる。ちょっとご近所の川のことを想像してもらいたい。川幅が堤防を越えて8倍もの幅にまでなったら、どうなるだろう? 当然、辺りの景色は一変するだろう。台風・大雨の比ではない。それが毎年起こるとなると、なんとも壮大な自然現象ではないか。
しかし人々は、この現象をただ見ているだけではなかった。
ナイル川によって生活している以上、うまく水を利用することが生活を豊かにする方法。そのためエジプト人は、堤防を築いたり水路を作ったりして集落を守り、畑の面積を増やしていた。
新王国時代になると、各ノモス(町の単位。州のこと)ごとに取水口をつくり、河川の流れをある程度人工的に変えて荒れ地に水を引き入れ、耕作できるようにしたり、水門の開け閉めするなど灌漑施設をつくり、増水の範囲をある程度は制御できたようだ。
水位を確かめ、増水の量を知る「ナイロメーター」という階段状のモノサシがつくられ、水が段の何段めまで来ているかによって、その年の洪水予測をたてていたことも知られている。
だが、自然は偉大であり、気まぐれでもある。ときには予測を大幅に上回る。作りかけの堤防が押し流されたり、河川の流れが変わったりして、治水工事を断念せざるを得なくなったこともある。また、少なすぎて、耕作用の土地が足りず飢饉が起きたこともあったようだ。
そんなとき人々は、ナイルを司るとされた神々に祈った。たとえば、「ナイル川の神秘なる水源」を治める神、クヌム神に祈った石碑が、エジプトの南端エレファンティネに残っている。実際の水源ははるか南にあるのだから、クヌム神の聖域であるエレファンティネが水源ではないことくらい分かっていたのだが、にもかかわらず人々は、そこが「もうひとつの水源」であると信じたのである。
ちなみに古代エジプト王国の経済基盤を支えていたものは、主に農作物であったという。ナイルの流れが運ぶ肥沃な土は、栄養価が高く、流れる水は毎年、新しい土を連れて来た。おかげで繰り返し作物を作っても土地が痩せることはなく、同一面積での収穫量比はメソポタミアの4倍前後にまで達していたという。
これがどのくらいなのかというと、世界でも最高水準を誇る日本の農耕にも匹敵するくらいの収穫量だという。この説を事実とするならば、化学肥料を使い、現代の知恵を使って管理した畑と同じだけの麦を収穫出来た古代エジプトの人々が、近隣諸国にくらべ豊かであったことは当然といえば当然だろう。
しかし、かつて古代王国の繁栄をもたらしたナイルの恵みも、上流のアスワン・ハイ・ダムの出現によって途切れる。
もともとこのダムは、水力発電によってエジプト全土の電気をまかない、文明化させる目的と、増水を調整して国土を近代化しようという狙いのためだったのだが、弊害として畑作は従来のように流れて来る黒土に頼ることが出来ず、土地が痩せてしまった。おまけに、ダムによって出現したナセル湖という巨大な水溜りのために気候が変化してしまっている。
エジプトには、もはや、かつてのような神々の恵みは存在しない。
現在のエジプトは化学肥料や機械を使って生産している。ナイルが耕してくれない土地は塩害で作物の出来高が減り、手間もかかる。しかしダムが無ければ、かつては水に沈んでいたような土地に住むことは出来なかったし、水力発電による電気を手に入れることも難しい。どちらが本当に豊かな生活なのかは、分からない。
近代化を焦る国家の宿命として、自然環境は移り変わらざるを得ない。人々が、近代的な豊かさという幻想に憧れつづける限り、「河とともに生きた」かつての日々は、もう二度と戻らないというわけだ。
■エジプトの国の名前
エジプトは昔から「エジプト」という名前だったわけではない。古代エジプトと呼ばれる王国時代の名前は、「ケメト」(黒い土の国)。”黒い”を意味する「ケム」という言葉から来ている。これは、ナイルの増水が上流から運んでくる黒い土を指して、砂漠の赤い土と対比させたものだ。
古代のエジプト人にとって黒は豊穣の色、赤は荒廃の色。河沿いの、増水の恵みが届く地域は「神々の守護を受けた土地」とされていた。
■増水の始まりと天文観測
ナイルの増水は、古代人がソティスと呼んだ星、シリウスが、夜明けとともに地平線に達する時期に起こった。現代暦では7月半ばのことだ。
この現象を、エジプトでは「ヘリアカル・ライジング」と呼び、ソティス星は洪水を知らせる神、または精霊とされ崇められた。また、ナイル川の化身としてハピという神サマがいて、ナイル川の水が増すことは「ハピの到来」とも呼ばれた。
■ナイルのもう一つの使い方
「ナイル川は、エジプトの幹線道路である。」
こんなステキな名言が残されたのは、たぶんここ最近のことではないだろうか。(そもそも幹線道路なんて言葉が最近っぽい)エジプトといえばナイル川、ナイルといえば水の恵み、と思われるところなのだが、川は単に水を供給してくれるだけではなかった。古代エジプト王国の、「メイン道路」だったのである。
北という単語が「川下」であらわされ、南という単語が「川上」であらわされるように、人々にとって北は川の流れに沿って船で下っていく方向であり、南は帆を張って季節風で遡る場所だった。
現在の日本で考えてほしい。大きな道路があると経済効果がある、人が動く、などの利点があり、高速道路や新幹線のある地方はそれだけで潤っている。古代王国でもそれは同じだった。大きな道路がある=経済的に発展する。
ナイル川は耕作に役立つというだけではなく、道路としても、古代王国の発展に役立って来たのだ。
しかも、ローマの如くわざわざ首都にいたる道を舗装しなくとも、ナイル川はそこにある。道を伸ばしたければ、水路を引くか、堤防を作って流れを変えてやればいい。
しかし、この河は氾濫して近隣の町を飲み込むこともあるから、その堤防は頑丈なものでなくてはならない。
そんなわけで、治水は国家事業の中心でもあった。(ピラミッドは自然堤防の技術から発達した、という説があるのも、ここから推測されたのではないだろうか。)
ところで、考古学者の主要な説によると、古代エジプトでは陸路はほとんど開発されていなかったという。
交通には、水路を使っていたためだろうか。かなり後の時代になるまで、「車輪」を使った乗り物が使われた形跡がないのだという。そして車が使われるようになった後も、人々の手軽な足といえば、船だった。
戦争に行くときも、兵を運搬するのは陸路ではなく水路。中王国時代には、南のヌビアへ出兵するために、わざわざ南へ向かう水路を開発している。
それでも意地でも陸路を行く、という場合は、ロバが交通の主役だった。
同じく中王国時代、ワディ・ハンママートへの採石行軍では、ロバにサンダルを履かせて引いたというから、蹄鉄のようなものも思いつかなかったのだろう。(ちなみに、この時代、エジプトでは鉄器は使われていなかったようだ。)
現代でもエジプトに住む地元民はトラックなどではなく船を使う。エンジンつきの船ならガソリンは食うと思うのだが…、まぁのんびり行くなら小さな船もありですな。上流に行くときは岸にいるロバにロープをつけて船を引かせるんだとか。きっと古代の人々も、そうやって暮らしていたのだろう。
ちなみに馬はエジプトでは新王国時代から登場する。アジア方面からの移民がつれてきたもので、用途はもっぱら「戦車をひかせる軍馬」というもの。直接、騎乗していた証拠はほとんどなく、壁画でも数例。砂漠での乗り心地が悪かったのかもしれない。この時代になってはじめて、エジプト人は、それまで知らなかった「車輪のついた乗り物」を知る。ラメセス時代の壁画を見ると、それまで描かれたことのない馬や、馬の引く戦車に乗る王たちの姿が描かれている。
もちろん神々も時には戦車に乗った。
ただし、乗れたのは、ヒクソス人が連れてきた外国の神々だけで、どうもエジプトに元からいた神々は乗らなかったらしい。…と、いうより、乗れなかったのではあるまいか。
やはり人間と同じく、新しいものに順応するのは難しかったのだろう。
馬よりさらにずっと後に入ってきたのが、ラクダである。
砂漠、エジプトといえばラクダを連想するかもしれないが、ラクダという動物がはじめてエジプトに入るのは、かなり後の時代、アラブから渡ってきた王の支配時代に入ってからで、古代には生息していなかったのだ。もしも昔からラクダがいたならば、砂漠の向こうにあるオアシスとの交易も楽だっただろう。