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さて、ここから先は、よりいっそう個人的な想像の範疇になってくる。その点、信憑性は薄いがご容赦願いたい。
アクエンアテン王が、自らを「唯一、アテン神の声を聴くもの」だと定義したことについてだが、奇妙に見えるこの宣言は、本来、王としては当然の主張だった。
王は最高位の神官でもある。
最高神であるアメン(かつてはラー神)の、息子であり、アメン自身でもある。ゆえに最も重要な神事は王が執り行っていたし、神官たちは、王に代わって神々のまさりを執り行う…と、いうのが、本来の役目だったはずだ。
だから、アクエンアテンが自分を新たな神の第一の神官と位置づけたのも、神殿も神像もいらないアテン神に、自分以外に仕える者…神官たち、が要らないと主張したのも、実は、奇妙でもなんでもないことだった。奇妙なのは、それでも神官たちが存在しつづけたことである。
アメン神に仕える神官たちが、当時何人くらいいたのかは分からない。神官団と呼ばれる神官集団が、どういった組織だったのかも、詳しいところは想像による。
この神官団は、王が「アメン神は認めない」とソッポを向いてしまった後、どうしていたのだろうか。
実は、彼らの存続に王は必要なかったのではないか、と、私は思っている。
神官たちには、彼ら自身のものである神殿所有の土地があり、そこからの収入がかなり、あったようだ。手工芸ギルドの取りまとめも行ったようだし、一般市民や貴族からのお布施もあっただろう。また、神官たちは基本的に学者で知恵者だから、自ら商売を行うことも、葬式や結婚式のような儀式を執り行うことも、可能だっただろう。
王からの寄贈ももちろん重要な収入源だっただろうが、それがなくとも、運営に困るようなことはなかったはずだ。(中世、キリスト教の教会が、どんな風に運営されていたかを思い出してみるのもいい)
つまり、かつての国家神であったアメンの神官たちにとって、王が新しい信仰に夢中になることは、死活問題ではなかった。
大切なのは民衆の信頼を得、信仰を維持させることだ。この時代、アメン神と、アテン神、どちらが民衆に広く受け入れられたかは言うまでも無い。王が突然はじめた新興宗教に傾いたのは、ごく僅かな人々で、それも、王の死後はすぐに廃れてしまった。
アクエンアテンが築いた新たな都、アケトアテンへついていった人々でさえ、どこまで、王の宗教に従ったかは分からない。この都と、アテン神の神殿があっさり放棄されているところからして、実際ほとんど信者はいなかったのではないかとすら思う。
だが、アテン神の「熱心な信者」が、いなかったわけでもないと思う。
そもそも、古代エジプトでは、国家神−誰でも知っている、どこでも信仰されている神よりも、地方神−その地方でしか知られず、主に地方の人々に信仰されている神のほうが多かった。
アメン神ですら、地方で信仰されていたかどうかは怪しいくらいだ。(何しろ、アメンの加護を口にするのはお役人ばかりのようだから)
この分類でいけば、アテン神も「地方神」になるのではないか。
アケトアテンという土地でしか、信仰されなかった。そして、この土地が放棄されると同時に、信仰も廃れた。
あるいは、信仰の中心地がアケトアテンに移住する以前にも、信仰されていた町があったはずだ。
地方神が、知名度を上げ、多くの人々に知られる国家神に成長するには、長い時間がかかる。もしもアクエンアテンが長く生き、その教えを子孫たちに継承させることが出来ていたら、アテン神は国家神になれたかもしれない。
…その可能性は、あまり高くないとはいえ。
アテン信仰の唯一にして最大の庇護者、アクエンアテン王亡きあとのアテン信仰については、いくつかの説がある。
たとえば、その教義とユダヤ教の類似から、国を追われたアテン信者は海を越えてシナイ半島に渡り、自分たちの宗教を創った。…と、いうもの。
これは、あながち空想とも思えない。
旧約聖書で、人々を率いたモーセは、エジプトの支配地であり、紅海を越えてすぐ向かい側のシナイ山に行っている。
また、「詩篇」呼ばれる部分が、「アテン賛歌」と、非常によく似ていることも挙げられる。
偶像崇拝を禁じる思想も、共通している。
アクエンアテンの死後、アテン崇拝が禁忌として記録から抹消されていったことからしても、アテン信者は国内にとどまることを許されず、追放されたか、自分たちから新天地を求めて旅立った可能性が高い。
その一部が、新たな宗教の誕生になんらかの形でかかわりを持ったのかもしれない。
地方神は、その地方の人々の間で信仰される。
地方都市が移動すれば、都市とともに引っ越していくし、人々が移住すれば、その人々とともに旅に出るだろう。
王が信仰した、ということ以外、アテン神は、他の地方神と何も変わらなかったように思う。
また、地方の神々は、その地方の人々にまつられるため、国家神のように、権力と結びつくことはあまり無かった。
その土地の人々の信仰さえ集めていればよく、王とアメンの神官たちが権力を奪い合っていたとしても、彼らの存続自体には大した影響は及ぼさなかったのではないか。
地方の神々は、”宗教改革”の時代においても、それぞれの信仰を守っていたのだと思う。
結局のところ、アクエンアテンは、アメン神官たちの権力を殺ぐことは出来なかったし、国家神を入れ替えることも出来ず、結果として自らを、正当な世継ぎである”アメン神の息子”ではなく、”アテン神の息子”という私生児の立場に貶めただけだった。
正当ならざる王、とされた王は、王位を追われて当然だった。アクエンアテンがどのようにして死んだのかは定かではないが、何者かによる謀殺だったとしても、おかしくはない。
かつて、テーベの地方神に過ぎなかったアメンを国家神として認めさせた中王国の祖たちのような力が、アクエンアテンにもあれば結末は違っていたかもしれないが、アテン信仰は、結局、地方神信仰のままに終わった。
アマルナの信仰は、「アマルナという場所の」信仰でしかなく、時代を支配することが出来なかったのだ。
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