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近東との交流と「ホルスの道」



 中王国時代は、対外政策と交易を盛んに行った時代だったという。
 南のヌビアは文化的にまだ未成熟で、反乱を起こすよりむしろエジプトに支配されることによって技術や知識を学んでいる状態だったようだが、北方、特に近東とは、異なった付き合い方をしていたようだ。

 北、というと、もちろん地中海を挟んだギリシアも北になる。しかし、主に陸路をゆく隊商からすれば、ギリシアは地中海の東端をぐるっと回っていくしかなく、それよりもシ自作ヘボ図ナイ半島やパレスチナのほうがはるかに近かった。
 キリスト教が発生するよりはるか以前のこの時代、エジプトの交易は、広くメギド、エルサレム、さらに遠くバビロニアといった聖書に登場する各都市を巡ってスカラベやスフィンクスといった品々や、エジプトの信仰を残した。と同時に、逆に外国から訪れる人や物も受け入れていったのである。
 より良い生活条件を求めてパレスチナやシリアからやって来た人々は労働者として定住し、次の時代、「第二中間期」に政府に対抗する王朝さえ作り上げる。このとき、彼らの信仰する外国の神々…アナトやアスタルテなど…も、エジプトの国に入ってくるのだ。

 つまり、この時代は、神話が「外へ」向かうと同時に、「中へ」流れ込んできた時代と言えるだろう。

 ハトホル女神の信仰は、隊商とともにエジプトの外へ運ばれて交易の要所であるビュブロスに根付いたが、外国人労働者とともに入ってきたアスタルテやレシェプといった神々の神殿も、エジプト国内に建てられた。
 そうしてみれば、エジプト神話とギリシア神話が似ている、だの、聖書がエジプト神話に似ている、だのと言うことが、いかに無意味かお分かりになるだろう。それらはどちらが元祖なのでもない。一部が交じり合いながら、同時進行で作られていったものなのだから。


 ところで、この交易には主として、「ホルスの道」と呼ばれる、海伝いに続く隊商ルートが使われていた。この道は、警備隊に守られた幾つかの要塞によって成り立っている。さらに、現在はスエズ運河の作られている辺りに、アメンエムハト1世の作った「支配者の城壁」というものが、道の出入り口を守っており、ここがエジプトの絶対の国境とされていた。
 国境の城壁が国に入るあらゆるルートを見張り、国境から続く主要な街道は要塞によって守られており、いつでも出陣が可能だった。こうして、エジプトは北方に目を光らせながら、安全に交易を行うことが出来たのである。

 もっとも、いくら立派な守りがあっても、国内の基盤が弱まったあとでは意味を成さない。
 中央の政府が衰退し、内部で反乱が起きはじめると、支配者の城壁は破られ、再び混沌の時代が訪れる。それが第二中間期、王たちが即位しては座を奪われ、小さな国々がせめぎあう時代。

 エジプトと他国の文化は攪拌され、その中から、新たな王国の萌芽が生まれようとしていた。